28 白と黒
紅茶の一件を皮切りにしたかのように、せり上がるような気持ち悪さは徐々に酷さを増してきていた。
まず陛下の執務室から帰宅した後、わたしはニカが用意してくれていた夕飯の匂いに耐えられず、一度席を立たざるを得ない状態になっていた。その行動はそばにいたニカには隠しようがなく、当たり前にニカはわたしの異変に気づいてしまった。
そして、驚きを噛み殺したような顔と声で、ニカはわたしに確認した。
「シエナ様、少し前、一晩お戻りにならなかった事がありましたが……」
それは間違いなく、わたしに起きていることを察しての言葉だった。
ただ、そのお相手に気づかれてしまってはまずいと思った。ニカは聡い。わたしが何かを言えば気づいてしまうような気がした。けれどただの苦笑いでやり過ごすこともできず、わたしはしばしの逡巡の末、諦めて頷いた。
「少し待って、ちゃんと後で話すから。……まだ誰にも、言わないで」
そう言って、とりあえずその場をしのぐことで精一杯だった。自分でもまだ、きちんとどうするべきか分かっていないのだ。そして、おそらくここまで来たらそうなのだろうけれど、そのことをわたし自身が受け止められていなかった。
ニカはわたし自身も動揺していることを理解してか、それ以上は何も言わずにいてくれた。
次の日の朝、起きるとニカは気持ち悪くなりにくい食事を用意してくれていた。匂いの立ちにくい、冷たいままいただける食事だった。相変わらず食欲はなかったけれど、わたしはそれを離席などせずに食べきることが出来た。
そのニカの対処で収まるなんて、やはりもう現実を見ないといけないのかもしれない。きちんと白黒つけなくてはいけないと、自分でも思い始めていた。
月のものが来ずに2週間弱だ。いくらなんでも、元々が順調なわたしにとっては遅すぎることは明らかだった。
まず、誰に相談するべきなのだろうかと思った。普通であればきっとそのお相手なのだろうけれど、わたしが置かれている立場は普通ではなかった。
そうするととりあえず、まずは白黒つけなくてはならない。そのためには医者に診てもらう必要があるのは分かっていた。しかし、わたしの知っている医者に診察を頼むのは今の時点ではまずい。中央にいる懇意の医者に往診を頼んでしまえば、わたしの状態はすぐに実家に知れてしまうだろう。それは言うまでもなく避けなければならない。
そう思って町の医者に行くことも考えたけれど、仕事が終わってから向かうと診てもらえる時間には間に合わない。かといって理由は言えないため、仕事を休むわけにはいかない。適当な理由をつけて休んで、いろいろと探られるのも怖かった。
結論として、わたしは懇意ではない往診医を呼ぶことに決めた。こういうのはニカの方が詳しいだろうと思い、ニカに「首を突っ込んでこない医者に往診に来て欲しいと思っているのだけれど」と伝えると、ニカは真っ直ぐわたしを見て頷いてから「わたくしの知り合いで口の固い医者がおります、今晩か明日の朝に来てもらうように手配しましょう」と請け負ってくれた。
わたしの侍女はなんて有能なのだろうかと、わたしはニカに心から感謝した。
明日は会議の日だけれど、今日は時間で決まっている仕事はなかった。けれど仕事にはあまり集中できず、登城してからもずっと身体が緊張していることを感じながら仕事をしていた。
昨日の会議でマーガー副室長が掴んだと報告されたことを手紙にまとめて父上に共有して、トラッドソン家としてもその情報の真偽を確認してもらうように頼んだ。その後は情報収集室の事務室にいてもバダンテール室長がいたこともあってどこか落ち着かず、結局わたしは資料室にこもって過去の戦争についての文献を読み漁った。
それは別にそこまで必要なことではなかったけれど、全く別のことに意識を向けていないと、とにかく落ち着かなかった。
そして夜が来て、今日もわたしは早い時間に部屋へと帰った。
「おかえりなさいませ、シエナ様」
ニカは変わらず、いつも通りに出迎えてくれた。けれど、いつもと違うことがひとつあった。
部屋の中に、中年の女性がいたのだ。ただ、驚きはなかった。ニカがきっちりとわたしの頼みを聞いてくれたのだと分かったから。
その女性はわたしを見ると立ち上がって、優しげな笑顔をたたえてわたしに挨拶をした。
「初めまして、シエナ様。わたくしはナディ・ミュゼットと申します。中央の街で医者をしております」
柔らかい雰囲気の、けれど聡明そうな女性だった。白衣を着ていることから医者であろうことはすぐに分かる。40代くらいだろうか、医者をしている女性は珍しいなと思いながら、女性が来てくれたことに安堵もしていた。
「シエナ・トラッドソンです。わざわざご足労いただいて、申し訳ありません」
「いえ」とドクターミュゼットは柔らかく笑ってから、「診察はすぐに?」とそのままわたしに尋ねた。
わたしは心臓が深く鼓動を打つのを感じながら、「着替えたらすぐにお願いします」と頷く。
一度寝室に入って、わたしは仕事着であるタイトなドレスをゆっくり脱いだ。細く、息を吐く。
ガチガチの身体にギュッとわざと力を入れてから、それを一気に緩めるように意識して、不自然な動きにならないようにと身体から力を抜いた。
それでも、わたしはとても緊張していた。
わたしがリビングへと戻ると、ドクターミュゼットはすぐにわたしへ問診をした。妊娠の可能性のことはニカが伝えてくれていたのだろう。尋ねられたのは妊娠の兆候についての様々なことだった。
体調の変化、身体の変化、いつもの月のものの周期、気づいたのはいつか、心当たりのある日はいつか……。
わたしは緊張しながらも、できる限り淡々と答えた。表情を取り繕う必要はなかったけれど、顔はガチガチでひとつも動かなかったのではないかと思う。ドクターミュゼットやニカから見て、それが冷静と見えたか過剰な緊張と見えたかは分からなかった。
一通り答えたあとでわたしが息を静かに吐くと、ドクターミュゼットは鞄から何かを取り出した。
そして「これは妊娠していても陰性と出る可能性があるので、確実ではないのですが」と前置きをしてから、わたしにその取り出された検査薬を使う方法を教えてくれた。
「逆にこれで陽性と出て、妊娠していなかったという可能性も?」
詳細な説明を聞き終えてからわたしがそう尋ねると、ドクターミュゼットはそれには首を横に振った。
「陽性と出たら、まず間違いなくご懐妊されています」
わたしの心臓は、震えていたと思う。
言われた通りに検査薬を試してその結果を待つ間、わたしの緊張はピークに達していた。こんなに緊張することがあるだろうかと本当に思った。陛下に拒否されるかもしれないと思った時ですら、こんなに緊張はしなかったような気がする。
そんな状態で何かを考えられるわけがなく、陰性なら良いのにとも、陽性であってほしいとも、わたしはどちらとも思えずにいた。
そんなわたしのそばで、ニカ何も言わずにずっと控えていてくれた。
そして規定の時間が経って、ドクターミュゼットが「シエナ様」とわたしの名前を呼んだ。それから、ドクターは微笑みを浮かべて告げたのだ。
それは、唐突にも感じられた。
「おめでとうございます。妊娠6週ですね」
何を言われたのか、すぐには分からなかった。
陽性か陰性かだけのことなのに、と自分の頭の働かなさにわたしはとても焦った。そしてドクターミュゼットの祝福の言葉がわたしの中で何度かこだまして、やっと、わたしは理解したのだ。
そうか、わたしは、陛下の子を、宿したのか。
ドクターミュゼットの笑顔に、わたしは泣きたくなったのだった。