26 紅茶と思慕
ウームウェル補佐官に連れられて向かった執務室は、あの門番と侍従がいる扉を通った奥の、王族の居住区画内にあった。
居住区画外に陛下の執務室があることは知っていたけれど、今回連れてこられたのはその場所ではなかった。
位置的には、わたしが三週間程前まで時々行っていた陛下の寝室よりはかなり手前にある部屋だった。通常の執務室ではしない、おそらくまだ公にはできないような話や個人的な話などをする際に使う場所なのだろう。
「陛下はもういらっしゃるかもしれません。おそらく人払いもしておられると思いますので、かしこまらず大丈夫です」
緊張感の抜けていないわたしに、ウームウェル補佐官はそう言った。わたしとしては普段通りに振る舞っているつもりだったのに、補佐官はわたしの様子に気づいていたらしかった。随所で感じることはあったけれど、やはり人の機微に敏い人だなと思った。
「ありがとうございます」
わたしがお礼を言うと、ウームウェル補佐官は「それではこれで」とそのままわたしを置いて歩きだす。いつかも見たことのある情景だなと思いながら、わたしはその後姿を少し眺めたのだった。
それから、扉を見つめる。寝室のそれよりも堅そうで重そうな色合いの扉だった。
陛下と直接言葉を交わすのは、約三週間ぶりである。そのことだけでも緊張するのに、今のわたしには月のものが来ていないという気がかりなことがあって、そのことでさらに緊張していた。
コンコンと二回、控えめにノックをした。すると中から「シエナ?」と声がする。寝室になかなか入れてもらえなった時のあの反応とは大違いだった。
心の準備をしてからノックしたつもりだったけれど、素早い反応に内心焦る。
「はい、トラッドソン家伝令役、ただいま参りました」
コツコツと中で足音が聞こえたかと思えば、ガチャリとすぐに陛下が扉を開けてくれた。
10分前に会議室にいた陛下と同一人物なのだけれど、その姿はどこか穏やかで、鋭さはなくなっていた。あの気迫はバダンテール室長に対しての警告だったのだろう。
「さっきは大変だったね。入って」
陛下に扉を持たせたままでは申し訳ないと思ってわたしが扉を支えようとすると、陛下は少し笑ってから、わたしに触れさせまいとするかのように扉をさらに大きく開けた。わたしはそれにやや面食らいながら、促されて執務室へと足を踏み入れる。はっきりとした明かりで照らされている、明るい空間だった。
落ち着いた色合いで統一された部屋には、大きな書斎机に書棚、そして応接間のような場所があった。書斎机にはたくさん書類が積み上げられている。そして開け放された続き扉の奥には使用人が使う想定なのか、キッチンのような場所があるらしかった。
陛下は応接間に置かれたソファを示しながら、「座って」とわたしに言う。
大きめのローテーブルの一辺には一人掛けソファが二つ並んでいて、その反対の辺には二人以上で座れる長椅子の形をしたソファがあった。
陛下の言葉受けてわたしはおずおずと一人掛けのソファに近づいたけれど、陛下がなぜか続き扉へと向かうので「陛下、先におかけください」と言うと「何か飲み物を用意するから先に座ってて」と、とんでもないことを言い出す。
少し辺りを確認しても、ウームウェル補佐官の言っていた通り人払いをしているのか、部屋には陛下とわたし以外は誰もいなかった。
「でしたらわたくしが」
慌てて陛下の方へと向かうと、「良いのに」と陛下は言ったけれど、わたしが「いえ」と首を横に振ると、わたしの立場も考えてくれたのか「じゃあお願いするけど」とすぐに引き下がってくれた。
「何がよろしいですか」
何があるかも分からないし、わたしは陛下と同じものを頂けば良いと思いながら尋ねると、「君は?」と逆に尋ねられた。「陛下と同じものにいたしますので」と素直に答えると、陛下は少し悩んでから「紅茶を」と言った。わたしは頷いて、再度陛下に座っていてもらうようにお願いした。
陛下が長い方のソファに座ったのを確認してからキッチンを見れば、色々な種類の茶葉やコーヒー豆が並んでいた。陛下の好みが分からないため尋ねようかと思ったけれど、ここは陛下の執務室である。指定をされなかったということは、おそらくここにある物はどれも陛下が嫌いなものではないのだろう。とりあえずスタンダードにと思ってダージリンを淹れようとお湯を沸かしてポットとティーカップを用意する。
わたしにはそこまでお茶へのこだわりがあるわけではないし、上手に淹れられる自負も全くないけれど、人並みにはできるようにと教育はされてきた。初めてそれが役に立つような気がした。
ダージリンの茶葉が入った缶をそっと開けると、茶葉の良い香りがした。それ自体は良い香りだったのだけれど、どうしてかわたしはその匂いが受け付けられず、じわりと吐きそうになる。
ぐっとこらえたものの、とっさに茶葉の蓋は閉めてしまった。キッチンの中に香りが残っているのか、それも気持ち悪さを助長して思わずその場にしゃがみこんだ。
食事をするときにも出てくる気持ち悪さと同じものだった。吐くほどではないけれど、ぐっと中から何かが押し出されるような、詰まるような感覚だった。
――やはり、妊娠しているのだろうか。
頭はその結論にたどり着いてしまいそうになって、けれど今、陛下に知られるわけにはいかないとわたしはその結論を頑なに拒否した。
確信度は高くない。そんな曖昧な状態で、陛下に伝えるべきではない。
それに、仮にわたしが妊娠していたとして。
――陛下は、それをどう受け取るのか。
それを想像すると、怖さしか浮かばなかった。
わたしは子ができずに離縁されているのだ。あの夜だって、そういう前提があっての行為だったはずだ。わたしに子ができる可能性があると思っていたら、陛下はわたしに手を出さなかったように思う。
そこで、そうか、と思った。
できないからこそ、陛下はわたしを選んだのかもしれない。
しゃがみ込んだままそんなことを考えていると、陛下の心配そうな声が聞こえた。
「シエナ、どうしたの」
どうしてわたしの状態に気づいたのかは分からないけれど、陛下はすぐそばまで来ていて、わたしが顔を上げるとその表情も心配そうだった。この人はこんなに素直な表情をすることがあるんだな、なんて頭の片隅では思って、しかし取り繕わなければいけないとわたしは表面的に微笑んでみせる。
「申し訳ありません、問題ありません。ここのところ少し、睡眠のバランスが崩れていて」
わたしは陛下に嘘をついた。
睡眠はたくさんとれている。でも、眠気に襲われて寝すぎてしまっているという部分ではバランスが崩れていると言えなくはないかと口にしてから気づいて、嘘ではなかったかもしれないと少し安堵する。
妊娠の兆候になり得る状態を、聡い陛下に伝えるわけにはいかない。
わたしがシンクを支えに立ち上がろうとすると、陛下はごく自然にわたしの腰に手を添えてわたしの身体を支えた。
触れられて、心臓が騒ぐ。意識するなと言い聞かせたのに、わたしは陛下をお慕いしているのだと、触れられたところからその気持ちが広がってしまう。その大きさと圧に負けて、わたしは自分の陛下への気持ちを初めて認めざるを得なかった。見ないようにしてきたのにと、自分対して怒りのようなものも感じられた。
そんなわたしの気持ちなど当然知らない陛下は、その手の力を少しだけ強めてわたしをキッチンから退出させようと誘導を始めた。力の入らない身体でその力に抗えるわけもなく、結果としてわたしは長椅子のソファに座らされていた。
「ここのところ、会議でもあまり調子が良くないのかと思っていたけど……」
とりあえず飲み物はいらないと判断したのか、陛下もわたしの隣にそのまま腰をかけた。座っても距離が近くて、わたしの心臓は収まらない。匂いの元から離れたためか、気持ち悪さはやや収まっていた。
「陛下にご心配いただくようなことではございませんので」
わたしがとりあえずの笑みを浮かべながらやや距離をとると、陛下はじっとわたしを見た。
それからすぐに陛下の表情から柔和さがどこかへと消えて、何か憤っているような表情になっていた。何かまずいことを言っただろうかと考えたものの思い当たらず、けれど何かを言えるわけでもなく、わたしはそのままそこにいる他なかった。
陛下はしばし黙ってからひとつため息をついて、それから口を開いた。その時には会議中のような国王陛下の顔になっていた。いや、それよりも、前によく見ていた人間味のない陛下のような表情に近いかもしれない。
「バダンテールが言っていたことについて聞くか迷ったけど、……嫌なら答えなくてかまわない。答えられそうなら教えてほしい」
他人にわたしのプライベートな部分を晒したくないという気持ちとは別に、陛下には可能ならわたしと元旦那様との関係など知られたくないと思う気持ちがあった。
けれど、バダンテール室長の考えている、べリス家を崩してタタレドの侵略を抑えるという案は今後作戦として使える可能性はあるとわたしも思った。それにはべリス家と元旦那様、その跡取り事情についてを知っておくことも重要であることを理解は出来た。
あの場でのバダンテール室長のやり方には腹が立ったけれどそれは陛下が諌めてくれたし、おそらくバダンテール室長は普段お目にかかれない陛下の前でなんとか手柄を上げようとしたのだろうとも思った。
そして必要なことを情報提供するために、わたしはこの王城に呼ばれたはずだ。
「わたしでお役に立てることであれば、なんなりと」
わたしは覚悟を決めて、隣り合って座った陛下の方へと少し身体の向きを変えたのだった。




