23 真っ白とシチュー
気づけばそれまでの濃密さが嘘みたいな日々が過ぎていて、どこか焦りもあるのに頭はぼんやりとしていた。
今日もわたしは早めにニカの待つ部屋へと帰宅していた。帰ると夕飯の支度は既に終わっていて、部屋の中は暖かい空気で包まれていた。今日のメニューはシチューのようだ。徐々に寒さが増してきていて、ニカは温かいものを作って待っていてくれることが多くなっていた。
「シエナ様、もうご夕食になさいますか?」
寝室に荷物を置いてからリビングへと向かうと、ニカに声をかけられた。
まだあまり、お腹はすいていないなと少し考える。まだというか、ここの所あまり食欲が湧かないことが多かった。あまり、仕事らしい仕事をしていないからかもしれない。
「そうね、……ちょっと少なめでお願い」
今日もおそらく時間が経っても強い空腹を感じることはないだろうと思ってそう伝えると、ニカは眉間に皺を寄せる。ここの所のわたしの様子には、もちろんニカも気づいているだろう。
「シエナ様、最近少し体調がよろしくなさそうに見えますが」
わたしはそれを苦笑いでやり過ごすことにして、「実家でもそんなものだったと思うけど」と苦し紛れに呟く。「もう」と言いつつ、けれどニカはとりあえずは見逃してくれた。
わたしは違う話題にしようと、続けてニカに話しかける。
「実家と言えば、……この間の会議、情報収集室からの報告でニカの言っていたことの裏付けのような話があって」
わたしが席につくと、ニカは大きめの深皿に少しのシチューを盛りつける。そして温めたパンふた切れとシチューを一緒に配膳してくれた。それからニカはわたしのそばに立って、わたしの話を聞く体制になる。それを見てからわたしはさらに口を開いた。
「タタレドの婿のほとんど全員に対して、トラッドソン領での生活についての聞き取り調査がされたの。襲撃事件に関して、トラッドソン領民がタタレドへの反発感情を抱いていたから、元タタレド人として生活する上でトラッドソン領で困っていないかどうかを確かめるっていう名目で」
婿たちはトラッドソン領で結婚しているため、戸籍上はすでにヴァルバレー国民になっている。国民の暮らしやすさを追求するのが国の仕事であるので、その聞き取り調査自体に違和感を持った者たちはあまりいないだろう。
ニカは頷いて、話の続きを待っている様子だった。
「聞き取りの結果だけど……、やはり、タタレドの婿たちはトラッドソン領で安定的な収入を確保した上で定住を希望していた者が多かったそうなの。情報収集室の人達は諜報員的な訓練も受けているし、色々な側面から注意深く確認したようだけど、現在のタタレドとのつながりはなさそうだっていう話だった」
結論として言えば、やはり婿たちはタタレドよりもトラッドソン領でこの先安定的に暮らしていきたいと思っているということだった。
調査には皆が協力的で、中には大それた要求などもあったそうだけれど、それもトラッドソン領で暮らしていくために口利きをして欲しいというようなことだったという。
婿たちの要求も暮らしぶりもそれぞれ違ってはいたけれど、調査から婿たちはタタレドへと戻る気はなさそうだという事が見えてきた。各々が違う話をしていることも、タタレドからの指示で口裏を合わせているわけではないことを示していた。
「では、その者たちを囲い込む方向になるのでしょうか」
ニカがそう確認するようにわたしを見ていて、わたしもゆっくり頷く。
「会議では早急に、できる限り要求に応えるようにと決まった。もちろんすべてを飲めるわけではないけど、一定の水準の生活をできるようにと政策部が検討しているみたい」
これは直接的な戦争回避のための案ではないのだけれど、もし戦争になったときにはヴァルバレーの戦力が増えることになるだろう。経済的な、そして定住のための支援策を政策部は検討しているはずだ。
そして会議では更に、婿たちがタタレドに残してきた家族がいるのならそちらをも取り込めないかという意見も出た。タタレド国内にいるタタレド人でもヴァルバレー寄りの立場の者を増やせたら、戦争回避にもつながるかもしれない。
わたしがわざわざ言葉にしなくても、おそらくニカもこの辺りは理解しているのだろう。ニカはじっくりと頷いていた。
「ウームウェル補佐官に、トラッドソン家の使用人は優秀ですねと褒められたの。さすがニカ」
わたしがニカに笑いかけると、ニカは肩をすくめて見せた。
「ユーノルド様が、わたくしたちを受け入れてくださっているお蔭ですので」
「これからも頼みますよ」
わたしがそう言えば、ニカは「はい」と頭を下げてからキッチンへと戻っていった。
父上は政策や詰めは甘いけれど、たしかに人を見る目はあると思う。トラッドソン家の使用人たちは優秀だし、人柄も良い。そんなことを考えているとちょっと実家で働く人々が恋しくなって、ふうと一つため息をついた。
目の前のシチューからはふわりと湯気があがっていて、おいしそうに見えた。けれどその匂いを嗅いでも食指は動かない。ただ食べないとニカに余計心配をかけるなと思って、スプーンにシチューをすくって口に運んだ。
咀嚼して飲み込むと、少し気持ち悪さがせりあがってくる。味はおいしいのになと思いながらやり過ごす。ここのところ、胃が受け付けないことが多くなってきているような気はしていた。
ふとカレンダーを眺める。もう完全に秋になっていて、部屋の空気も冷たい。開戦の可能性が高い日付まであと3週間と迫ってきていて、その間にわたしがやらなくてはならないことは……と思考を巡らせているうちに、わたしの中で急激に違和感が大きくなった。
待って……、と頭の中で計算して、その違和感の元に気づいた。
そういえば、月のものが来ていない。
気づいて、頭の中が真っ白になった。
あれほど毎月正確に来ていたはずのものが、計算上もう1週間は遅れていた。あまり気になっていなかったのは、ここ1週間程、月のものの前触れのようにお腹の奥が少し痛むことがあるためだった。だからそのうち来ると思っていたけれど、……それはいまだに来ていない。
……まさか。
……そうだ、心的な負担や環境の変化などで予定がずれることもあると聞く。そのせいかもしれない。自分を落ちつけようとそういう風に考える。
けれど……と、どうしても頭の中では反論が出てくる。
こちらに来てすぐの時期であればともかく、王城に来てからもずれることなく正確に来ていたのだ。そして、ここ最近は負担を感じる程の働きはしていない。言うまでもなく、仕事も少ない。
わたしは思わず、自分の下腹部に手を当てていた。
元旦那様との間に子ができないと焦っていた10代、「今回こそは月のものが来なければ良い」と毎月思っていたものだけれど、そんな思いもむなしく、若かったあの頃からきっちり毎月正確に巡ってきていたのに。
いや、今考えれば抑圧されていただけで、あの頃のわたしもどこかで元旦那様の子は孕みたくない、きちんと来て欲しいと心の底では思っていたのだと思うけれど。
きっちり毎月正確に来ていたことを思うと、残された選択肢はひとつなのではないかと頭が勝手に働いてしまった。
同時に、いやでも……とまた反論する。
わたしには9年間、子ができなかったのだ。
実質的には20歳過ぎまでの5年間だったけれど、少なくともあの頃はいつできてもおかしくなかったはずだった。それだけ頻繁に、元旦那様はわたしを求めていた。20歳を過ぎてからは年に数度あるかどうかで、確かに子を成す可能性が低かったのは事実だけれど。
……まさか、ね。
わたしには子を宿す能力がないはずなのだ。だから、おそらくこれは杞憂なはずで……。
落ち着かなければ、と先ほどよりも深いため息をついた。気づけば急に鼓動が早くなっていて、目の前がくらくらした気がした。
ちらりとキッチンにいるニカを盗み見ると、ニカは何か作業をしていて、わたしの様子には気づいていないようだった。よかったと少し安心する。ニカが今のわたしの様子を見ていたら、おそらく何か伝わってしまっていただろうから。
とりあえず、あまりストレスを感じないように気を付けながら、月のものを待とう。
自分ではそう結論づけて、若干の気持ち悪さを感じながらも、わたしはシチューを食べることに専念した。