20 疑いと安寧
もしかしたら、もう二度と陛下の御前には呼ばれないかもしれない。
その夜、わたしは自分の部屋に戻ってから自分がしたことを反芻していた。
そしてあの場で聞かされた話も、わたしは何度も思い返していた。同時に国王陛下に対してなんて失礼な態度をとってしまったのだろうということも。
あの場では結局、わたしに気圧された陛下が言い返すことができなかったためにそのままになったけれど、後から落ち着いて考えればありえない事をしてしまったことに不安になった。
それ以降のことを想像してみると、陛下がわたしに対して『これ以上の迷惑をかけられない』と考えたり、『そんなことを言うならトラッドソン家伝令役はやはりもう必要ない』と思ったりするかもしれないと思ったのだ。
しかし、実際にはそれはただの杞憂だった。陛下への態度を咎められることは全くなく、翌日からも変わらず、発作が起きた際には陛下に呼び出されていた。
既に陛下はほとんど毎日発作を起こしているような状態だったらしく、ここ1週間程、わたしは毎日陛下の元へと通うことになっていた。
陛下に頻繁にお会いするようになって分かったことと言えば、発作には程度があるらしいということだ。軽いものだと息苦しさの発作のみが出るようで、重いものだとそれに制御できない破壊的な言動が伴うようだった。
おそらく陛下ご自身の中ではもう少し複雑なのだろうけれど、端的にまとめればそういうことだと理解している。
恐怖や不安が高まった時の息苦しさの発作であれば、呼吸を整えることを意識して過ごすと次第に治まるようだった。
わたしはウームウェル補佐官から声をかけられた際に、陛下の部屋へと向かうだけでよかった。そうすると陛下はわたしを抱きしめたり抱きしめなかったりしながら、とにかくわたしの首筋で呼吸をした。
そこにわたしが居るのと居ないので何が変わるのか、わたしには全くわからなかったけれど、陛下が求めるならと応じていた。
わたしが呼ばれた際に目にしていたのは軽い発作だった。それはちょくちょく起きているようだったけれど、重い発作を見ることはなかった。だから、重い発作はそこまで頻繁には出ないのだろうと思っていた。
そして、そう思っているうちは良かった。わたしはおそらく役に立っていて、陛下もそれを利用している。そう思っていた。
しかし何日かしてから、やっとわたしは気づく機会を得た。
わたしが重い発作を見ていなかったのは、それが起きた時に陛下がわたしを呼んでいなかったからだったのだ。
前回の会議である第9回会議の終わり際、わたしは陛下の様子がおかしいことに気づいた。
会議は夕方には終わったけれど、その後も陛下は夜まではお忙しいだろうと思った。そのためわたしは夜に陛下にお会いしたいとウームウェル補佐官にお伺いを立てた。ウームウェル補佐官はすぐにわたしに許可を出してから、「今夜はひとりで行って欲しい」と言った。
今日は何か用事があるのだろうとわたしは頷き、夜もやや遅い時間になってから陛下の部屋へと伺ったのだ。
すると、そこにはやや自暴自棄で攻撃的な陛下がいた。
部屋に入れてはくれたものの、陛下はわたしを一瞥すらせずに強い口調で「今日は帰ってくれ」と言って引かなかった。その気迫にわたしはどうすれば良いのかも分からず、その日はその場を離れることしか出来なかった。
その翌日、今後そうなった時にまた追い返されてはたまらないという気持ちになって、わたしはウームウェル補佐官に探りを入れた。ウームウェル補佐官の今までの言動から、陛下のご事情については知っているだろうと推測はしていた。そして案の定、発作のことも知っている様子でわたしは少し安心した。
ただやはり、その内に潜む葛藤については、陛下は他の人には言っていないのかもしれないと思った。
前日のことを伝えると、ウームウェル補佐官は難しそうな顔をしながら、破壊的な衝動が出ているときは明確な対処方法がなく、それがやっかいであるのだと教えてくれた。
今までも、陛下は部屋に誰も寄せつけず、ひとりで籠ってとにかく時間をやり過ごしていたという。
会議はその第9回までが終わり、その際に予定通りに開催されたタタレドとの会談についても報告された。今回は襲撃などの妨害を受けることなく開催には至ったけれど、その内容としては友好条約の締結とは程遠く、停戦協定にすらも合意がとれないという結果だった。
会談の場で、タタレドの大臣は考えるそぶりも見せずに条約について一蹴したのだと言う。その報告を受けた時の会議室の空気は重く激しく、会議に出席していた者たちのタタレドへの怒りはさらに増幅されたように感じられた。
交渉は決裂。それならばやはり開戦準備をとなったのが数日前のことだ。
わたしが初めて登城してからもう1か月半が過ぎていた。タタレドがおそらくこちらに仕掛けてくると思われる期限まではあと1か月半しかなかった。
王城内はなんとなく落ち着きがなくなって、その全体が焦燥感に覆われているように感じられた。
*****
そんな中、2週間ほどトラッドソン家に帰っていたニカが中央へと戻って来ていた。
「トラッドソン領の者たちは落ち着いている様子でした。タタレドとの会談も無事終わりましたし。そこでの交渉が決裂したことなんて、平民は知らされていませんから。中央の人々の方がよっぽど戦争への危機感を持っています」
ニカは『引き継ぎのためにしばらく一緒に働く』という体で、新しく入った使用人とある程度関係を作ってから、それとなく話を聞き出してきてくれたようだった。そして同時にトラッドソン領の様子も見てきてくれていた。
「タタレド自体への反発心がもちろんないわけではないでしょうが、平民にとっては元々は良い商売相手ですからね。襲撃事件で反発感情が高まったとしても、元々はそこまで根深くありません。ですから、今はもう感情的には落ち着いてきているようです。それに皆、今結婚して定住しているタタレドから婿として入ってきた男達に対しては友好的な意見を持っていました。タタレド人の婿たちがそろって皆友好的な振る舞いをしているようで、それに好意的な平民が多いようです。」
ニカは頭が良い。平民とも貴族ともある程度つながりがあるし、視野が広いと感じる。
わたしはお風呂上りにニカの淹れてくれた紅茶を飲みながら、ニカからの報告を受けていた。
「それで、本当にタタレド人の婿たちは友好的なの?」
一番知りたかったのはそこだった。敵を懐柔するには表向きそうするだろうと思えたし、そうであればトラッドソン領侵略の危険性はかなり上がる。
そして「そのことなのですが」とニカはそれまでとは違いやや言葉に詰まる。
「表向きそうしているとか取り繕っているとかではなく、……本当に良い人達だという風に見えるのです。新しい使用人から話を聞いたり、色々な確認もこの目でして参りましたが……」
ニカの主張は論理的ではなくて、突拍子のないもののように思えた。どういうことなのか理解ができず、わたしは眉をひそめる。もちろんニカはそれを察して、わたしが口を開く前に考えながらという雰囲気で話を続ける。
「タタレド人の婿と結婚した女性たちは、本当に大切にされているようなのです。……婿たちは強くて働き者で、女性に多くの時間とお金もかけている。子どもが生まれているとなお、その傾向は顕著なようでした」
「それは……表向きそうした方が、という打算からに思えるけれど」
そうするのも当然だろうと思った。良い顔をしてじわじわと勢力を強めておけば侵略の際には有効に働くはずだ。それこそが彼らの仕事だとも言えよう。
「なんと申し上げれば良いのか……。いずれ壊そうと思っているものに、シエナ様ならそこまでたくさんの大切な時間やお金をかけようと思いますか」
「いずれ壊すものなら、そうはしないけれど…」
わたしは首をかしげる。いずれ壊すと分かっているものには、確かにそこまでお金も時間もかけない。けれど、そこを乗っ取るつもりであればそこにある物をそのまま使うということも十分考えられる。ある意味での先行投資ではないだろうか。そこに元よりいた人間のみを排除することを考えれば、おかしなことではないだろう。
わたしのその考えもおそらくニカには伝わっていて、ニカは辛抱強く根拠を並べていく。
「入ってきているのは、貴族階級などではありません。平民ですから、裕福ではないのですよ。しかも結婚相手である女性にも惜しみなく尽くしています。それに動向を見るに、タタレドとのつながりは今はありません。経済的な援助なども受けていないと考えて良いと思います」
どうやらニカが見たものは、想像以上に家族を愛情深く大切にするタタレド人婿たちの様子だったようだ。少し頭が混乱してくる。
そんなわたしを横目に、「しかも」とニカは尚も続ける。
「新しい使用人からの話では、彼女の夫は結婚してすぐの頃はタタレド人同士で集まったり、気に入らないことがあれば家の中でも荒々しい姿を見せていたと言うのです。……それが今ではトラッドソン領を気に入って、本当に落ち着いていると言っていて」
「……それは、どういう?」
わたしがいまいち理解できずに話を促すと、ニカはしっかりと頷いてから口を開いた。
「おかしいと思われませんか。こちらを騙そう、少し先の侵略の時まで尻尾を出さぬようにしようと思っていたら、きっとタタレド人婿は最初から今の友好的な顔でふるまうはずです。けれど、そうではない。順番はそれとは真逆で、彼らが友好的になったのは、こちらでの関係性ができてからなのです」
なるほど、とニカの言いたいことを理解してわたしは考える。
つまり、タタレド人婿が本当に侵略目的でトラッドソン領に来ていて、ある意味間諜のような役割を担っているなら、最初の頃にそんな荒っぽい様子を見せることはしないだろうということだ。
「それは……そうね。少し違和感はある。……タタレド人の婿達が、何か作戦を変えたのか。……それとも本当にトラッドソン領での暮らしにそのまま根付こうとしているのか……」
「もちろん作戦変更を疑おうと思えば疑えますが……。先ほども申し上げた通り、わたくしは十日間ほど使用人の夫の動向を調べておりました。けれどタタレド人同士で集まることもなく、タタレドの間諜と思える動きもありませんでした」
そういうとニカはわたしをじっと見てから、空いたわたしのティーカップに紅茶を注いでくれる。
「……平民としては、タタレドの暮らしよりもトラッドソン領での暮らしの方が良いということ?……タタレド人の婿たちは、トラッドソン領の力になる得るっていうの?」
わたしが結論をまとめて聞くと、ニカは「わたくしの目で見た限りでは」と低い声になった。
「もしそうであれば、その者たちをヴァルバレーに取り込むことで勝機があるかもしれません」
つまり、ニカはタタレド人の婿達がヴァルバレーに寝返る可能性があるというのだ。
それは到底信じられるものではなかった。
しかし、ニカは信用できるわたしの侍女だ。頭も良い。勘も良い。おそらくこの件も、ある程度的を射ているのかもしれないと思えた。
これはちょっと、想定外な方向に話が進むかもしれない。
まずは誰にこの情報を伝えるのが良いだろうかと、わたしの頭は検討を始めていた。




