14 発作と呼吸
その晩、わたしは再びウームウェル補佐官に案内してもらって陛下の寝室へと足を運んだ。自分から陛下にお会いしようと思うのは初めてで、いつもよりも緊張していた。
部屋の扉の前で、ウームウェル補佐官は前回同様に足を止めた。わたしを一度見てから、けれど何も言わずに部屋の扉をコンコンとノックした。
「陛下、いらっしゃいますか」
それは中にいることが分かっている上での問いかけだったように見えたけれど、中からの返事はすぐにはなかった。いらっしゃらないのではないかと思ってウームウェル補佐官を見上げたけれど、補佐官は扉をじっと見ていて、それからまた口を開く。
「少しお時間を頂戴したく。私はすぐに下がりますので」
数秒待つと、今度は中から陛下の声が聞こえた。感情を浮かべていない声だった。
「……今は出られない、急用か」
「そうですね」とウームウェル補佐官は相槌を打ってから、「陛下がお出ましになる必要はありませんので。このまま少しお待ちください。私はこれで失礼いたします」と一気に言う。
ウームウェル補佐官はわたしを見ると「どうぞ中へ。私はここで」と小さな声で言ってから、緊張するわたしを残して躊躇なく今来た道を戻っていった。
扉の中には陛下がいるようだったけれど、それ以上陛下は何も言わなかった。これはこちらから声をかけるしかなさそうだと判断して、気持ちを整えてからわたしも扉をノックする。緊張から、小さなノックになってしまったけれど。
「陛下、あの、……お加減が悪いのかと思いまして」
別に中に入れなくても良いと思った。気がかりだったから来てしまった。ただの自分のエゴのようなものだった。ここに来てどうしたかったのかは、今も自分でも分からないままだ。
「少し気がかりで、……ウームウェル補佐官に言って連れてきていただいたのですが、……わたくしも今日はこれで、」
失礼しますと続けようとした時、視界に映っていた扉がいきなり開いて、それとほとんど同時に身体を引き寄せられた。そして直後にバタンと扉がやや強い力でしまった音が聞こえる。一瞬の出来事で、とても驚いた。
気づくとわたしは閉められた扉と何かに挟まれて身動きが取れなくなっていた。自分のものではない鼓動を感じて、それが陛下の身体であることを理解する。陛下の心臓の音はドクンドクンと速いテンポでわたしの身体に響いていた。
「なんで来たの」
陛下は感情の乗らない声でそう言った。なのに、なんだか息が荒いような気がした。
「会議でのご様子がいつもと違うように思えたので……」
それ以上でも以下でもなくそう伝えたものの、そこからをどう説明すれば良いのか分からずにいると、陛下はわたしの首筋に顔をすり寄せる。熱くて荒っぽい吐息がかかって、理由は分からなくても陛下には余裕がないのだということは分かった。
なのに、次に聞こえてきた声も平坦なままだった。
「何それ。……何かやらかしたつもりはないけど」
その余裕のない姿と淡々とした声の温度との乖離に、わたしは強い違和感を感じていた。何かを取り繕おうとしているのだろうか。余裕はないのに、それを出さないようにしている。そう考えて、今日の会議でもそうしていたのかもしれないと思い至った。
余裕はないから取り繕って、けれど隠そうとしても漏れ出てしまう。それがあの鋭い視線だったのかもしれない。
「いえ」とわたしが短く返事をすると、陛下はわたしの首筋で深く息を吸い込んだ。そして吐き出す。ゆったりとしたペースで、陛下はそれを何度か繰り返した。わたしはぼんやりと、この間も陛下は同じことをしていたなと思い出す。
「……ちょっと、このままでいさせてほしい」
少ししてから聞こえたその声は微妙に震えていた。何が起きているのかは分からなかったけれど、苦しそうだなと思った。
わたしは「はい」とまた短く返事をしてから、陛下の背中をさすりたくなって手を伸ばす。そっと手を背中に置くと陛下はビクリと身体を揺らした。
わたしはハッとして手をすぐに離した。まずい、何も考えなかったけれど陛下の御身である。わたしから易々と触れてはいけないものだということは考えなくても分かるだろうに。
「申し訳ありませ、」
謝罪の言葉を口にしようとすれば、陛下はそれを素早く遮る。
「触れてほしい」
小さいのに、強い懇願の含まれた声だった。
わたしは恐る恐る陛下の背中にもう一度手を伸ばした。そっと触れると、今度は陛下は震えなかった。手に触れるその背中は陛下の柔和な見た目に反してがっしりと固く、鍛えられていることが分かる。手で上下にさすると、ごつごつとした感覚が伝わってくる。
しばらくそうして手を動かしていると、陛下はやや躊躇している響きでわたしに尋ねてきた。
「……ごめん、抱きしめて良いかい」
わたしは返事の代わりに、空いている方の手も背中に回した。そうすると、わたしの背中にも陛下の腕が回されてぐっと抱きしめられる。陛下の荒い呼吸とは反対に、その回された腕は冷たかった。
わたしはぬいぐるみになったような気分で、しばらくの間姿勢を変えずにそうしていた。耳元や首筋で、長いこと陛下が浅く呼吸を繰り返す音だけが聞こえていた。
女としてのという求められ方ではないように思えた。そういう欲望は陛下から全く感じられなかった。
ただ何か、すがりつくような、助けを求めるような、そんな雰囲気だった。どうしたら良いかはやはり分からなかったけれど、徐々に陛下の鼓動がゆっくりになっていくのを身体で感じていた。
陛下は動かずしばらくそうしていたけれど、息遣いが落ち着いてきた頃、慎重にという様子でわたしから身体を離した。長い時間のように感じられたけれど、実際はそんなに長くはなかったのかもしれない。
すると陛下がわたしの顔を覗き込むような仕草をしたために、陛下とわたしの視線が合った。
「すまない、……落ち着いた」
陛下は完全にわたしから身体を離し、静かに二歩ほど下がる。それでわたしの身体の周りにはやっと自分の意思で身動きできるくらいの距離が生まれた。
「それは、……何よりです」
なんと声をかければ正解なのかがよく分からず、わたしの声は小さくなった。陛下は疲れたように苦笑いを浮かべて、わたしからやや視線を外していた。この表情はよく見る気がする。
「……発作のようなものだ。……私は戦いが苦手でね。ちょっとしたトラウマのようになっていて」
情けない、とでも言いたげな声だった。どういうことなのだろうかとピンと来ず、わたしは返答を迷った。そんな疑問が顔に浮かんでいたのか、陛下は眉を下げたまま続けてくれた。
「……戦場が思い出されるとこうなることがある。最近はほとんど支障もなくなっていたんだけど、タタレドの件はちょっと駄目なことが多いみたいだ」
つまり、今日の会議の時もその発作の反応が出ていたということなのだろうか。皆の前ではそういう姿をさらすわけにはいかない、けれど、それは陛下の中に潜んでいられずに出てきてしまうということか。
今日の会議の内容が具体的な戦略や戦法についてのものだったからなのだろうか、と頭の中では整理ができてくる。たしかに、トラウマを抱えると先ほどのような反応が起きることがあると知識では知っていた。そこはなんとなくしっくりと落ち着く。
ただ、昼間に見た鋭い視線や先日の荒々しい陛下はどうにもその反応とは乖離があるような気はして腑に落ちなかったけれど、わたしからはそれ以上の追及はできない。
「……まだ話せないこともあるんだ」
わたしが考えていることに気づいたのか、視線を外したままの陛下がぽつりと言った。
またわたしと視線を合わせないようにしている気がして、わたしは陛下の顔をじっと窺うと、視線にはおそらく気づいているだろうに、陛下はやはりこちらを見ないのだった。
「わざわざすまなかったね、……今日はもう帰ってくれないかい」
ゆるりとかわされたような気はしたけれど、これ以上わたしが突っ込む理由もなければ権利もない。
先日のような自暴自棄な様子でもないと感じて、わたしは「わかりました」と頷く他なかった。