12 侍女と有能
「おかえりなさいませ、シエナ様」
陛下の寝室での一件からは二週間ほどが経った。
わたしは今日も夜も深まった時間になってから部屋へと戻ってきていた。玄関の扉を開ける前から空腹を刺激する美味しそうな匂いがしていて少し嬉しくなる。
ガチャッと勢いよく玄関の扉を開けるとそこにはニカがいて、わたしを出迎えてくれていた。ニカはちょっとツンとした美人顔のわたしの侍女である。年齢は23歳だったと思う。
そう、そして件の間諜にとわたしが考えたトラッドソン家の使用人である。
「ありがとう、とても良い匂いがしてお腹が鳴りそう。すぐ着替えてくるから」
わたしがそう言うと、ニカは「かしこまりました」と頷いてからキッチンへと戻る。わたしは早く着替えようと部屋へ向かった。
この二週間で戦略会議は第3回までが終わり、各方面の様々なことが検討されていた。
まず第2回会議でタタレドへの間諜の派遣が無事に決まり、その三日後に開催された第3回を迎える前には既に派遣されていた。第3回の会議では間諜からの報告で上がってきた情報も共有されるという速さで、間諜派遣は実行された。
間諜に関しては、わたしが考えた思いつきの穴だらけな案を元にはしていたけれど、会議でそれぞれの部署からの意見が吸い上げられ、それを取りまとめた形で合意がとれた。
結論としては、時間がないため間諜は三人に増え、ひとりはタタレドの商隊に忍び込み隠密行動をとりながら情報収集を、あとの2人はヴァルバレーの西から他国をひとつ経由しヴァルバレー人であることを隠して街中で情報収集を行うということになった。わたしが最初に考えた、囮のようなことをして攫われるようなデメリットを犯さずとも、プロの間諜は立ち回れるということだった。
会議を受けてわたしは父上と交渉し、情報の伝達手段としてタタレドとトラッドソン領の間に建つ検問所でのやりとりができるようにと手配した。
べリス家の息もかかっている場所ではあったけれど、検問所に新たに直属部所属の役人を適当な身分にカモフラージュして派遣し、その役人がべリス家には分からないように情報のやりとりを請け負ってくれることになっていた。
そこからは何度か情報が上がってきているため、今のところはうまく行っているようだった。同時に、間諜が検問所に近づけない場合には伝書鳩も併用することになっている。
情報収集のためのこれらの作戦は、ある程度上手く機能し始めている様子だった。
この件で、わたしは改めて国の役人の凄さを思い知った。わたしの頭で考えつくことは会議の出席者ならおそらく誰でも考えつくし、わたしの案では実際には使い物にならない。間諜の件は「トラッドソン家伝令役主導で実行された」と表面上は取り扱ってもらっていたけれど、これはそもそもがグランデ将軍の策略だったのではないかとわたしは思っている。
わたしに考えさせて、どれくらいの手腕であるかを見定めると同時に、うまく行った際にはわたしがある程度この会議の中で認められるようにとの配慮からだったのだろう。そうでなければ、はじめからグランデ将軍が間諜を用意するようにあの場で発言すれば良かっただけだ。
第2回、第3回の会議でわたしに求められたのは戦略の提出というよりも、そのやりとりの中から今後必要になってくるであろう情報を見定めることだった。おそらくこれが本来のわたしの立ち位置なのだろうと理解したため、わたしはできる限り、会議での各部の発言からくみ取れることを頭に叩き込んで全体像を把握できるようにと務めるようになった。
その中で分からないことを後々調べて理解することに、今は一番時間がかかっていた。
そして情報の収集という点においては、父上やトラッドソン家の臣下からの情報はもちろんだったけれど、トラッドソン家の使用人たちからの情報にも興味深いものは多かった。そのおかげで、貴族としての立場では手に入れられない平民の日常のことも、わたしの手元には多く入ってきていた。
たとえば、以前に陛下が言っていた庶民とタタレド人の結婚の件の詳細もそのひとつだった。
今日の夕飯は鶏肉のトマト煮込みのようだ。着替えてダイニングへと戻ったわたしに、ニカは温めなおしてから湯気の立つ煮込みをサーブしてくれる。
ニカについては、間諜としては使わないとわたしが決めた。ニカからの返事は「お役に立てるならどこへでも」というかなり肝の据わったものだったけれど、三人も間諜をタタレドへ向かわせるなら専門知識のないニカは不要だった。
ただその気概を見せるという目的もあってか、第2回の会議の日にニカはわざわざ中央へと来てしまった。そして間諜としての働きが不要になったと伝えても「わたくしは中央でシエナ様のお世話をいたしますので」とそのままわたしの部屋へと転がりこんできたのだった。
なので、ここ二週間ほどはわたしの生活の質はぐんと上がっていた。正直な話、それはとてもありがたかった。
熱々のトマト煮込みをふーふーと冷ましているわたしに、ニカは苦い顔をする。
「シエナ様、今日もお帰りが遅いです。もう少し早く帰れないものなのですか」
ニカはトラッドソン臣下の重鎮の娘だ。一応貴族ではあるけれど、位は高くない。ほとんど名ばかりの貴族である。
トラッドソン家は他の貴族に比べて、あまり役職や位のようなものにはこだわらない。父上が貴族然とした人間や雰囲気を嫌うためにそうなっているけれど、それは自体は良いシステムだと思っている。
そしてトラッドソン家の臣下はその父上の考えに賛同している者たちばかりなので、ニカの家も例に漏れず、ニカは小さいころからほとんど平民のような生活をしてきたらしい。けれど傍らでは政治も学び、武術も心得ている。そして生活能力もある。おそらくどこへ行ってもわたしよりも重宝がられるのはニカだろうと思う。
「最近忙しくて。色々な調べものをしてると、いつの間にか時間が経ってるの」
ニカはすぐわたしに小言を言う。わたしの方が年上なのに。そう思いながらわたしが言い訳をすると、ニカはため息をつく。
「やはり最初からついてくるべきでした。シエナ様がお一人で生活できるはずありませんもの」
ただニカのこの物言いは使用人が皆できるものではなく、わたしとの信頼関係があってこそ。
わたしは苦い笑顔を浮かべながらトマト煮込みを口に入れる。温かくておいしいそれは、わたしをホッとさせた。一人でいるときは何もせず食べられるものを用意して、それをそのまま食べるだけの味気ない食事でやり過ごしていたから尚更沁みる。
「夜の一人歩きは危ないのですよ。トラッドソン領より治安は良いとは言え、中央だって物騒です」
ニカは小言を続ける。トラッドソン領でも夜に出歩くことがあったわたしからすればそこまで気を張ることでもないという気分にはなったけれど、これは普通の令嬢の考え方とは違うのだということは自分でも分かってはいる。
「誰か、送ってくださる方はいないのですか」
やや探るような顔になって、ニカはそんなことを言う。
そういえば陛下にも以前、「この時間は自分は外には出られないから送れない」というようなことを言われたなと思い出す。ただ、それはそういうのではない。
「……いるわけないじゃない」
そう返事をすると、出来てしまったしばしの間にニカは何かを感じ取ったらしい。その綺麗な口元がにやりと弧を描いた。
「あら、誰かいらっしゃるのですね」
陛下を思いついてしまった時点で、もしかして不敬ではないかとわたしは苦い顔になる。せっかくのおいしいトマト煮込みだったのに、一瞬で台無しである。
無言のわたしにニカはにやにやと顔を寄せてくる。普段は冷静そうな見た目をしているのに、こうしてわたしのことに首を突っ込むとき、ニカはそれはもう楽しそうにするのだ。嫌な侍女だなと心の中で悪態をつく。
「シエナ様もまだお若いですし、トラッドソン家の跡取りもすくすく成長しています。……もう1度結婚されても良いのですよ」
わたしの頭の中には陛下が浮かんだままだったため、『陛下と結婚』とわたしの頭が勝手にイメージを作り始める。そもそも若くないし、違う違うと突っ込みながら慌てて首を振ると、何も言っていないのにさらにニカはにやにやとしていた。
嫌な侍女だなとは思うけれど、感情を押し殺した9年間を経ても、わたしはこうしてニカの前では安心して感情を露わにできる。わたしにとってはとてもありがたい存在だった。
ただ今は、このままではわたしの分が悪いことは間違いがなかった。
わたしは急いでトマト煮込みを食べてから、「今日はもう下がって。あとはお風呂に入って寝るだけだから」とニカを部屋へと押し込んだ。実際、明日は第4回会議である。早く寝なくてはいけないし、とわたしは心の中で何に対してか言い訳したのだった。
陛下のことをそういう目で見たことはなかったけれど、あの感情に囚われた陛下を見た夜以来、時々ふと今は何を考えていらっしゃるのかと気になることはあった。
窺おうにも陛下は相変わらず会議では全く発言をせず、人間味のない顔と声でその場を取り仕切るだけだった。内心もなにも、窺えたものではない。
ウームウェル補佐官に聞いたところによれば、陛下は会議前に各部署とのやりとりを必ずしているそうで、その打ち合わせの場でしか発言をしないのだそうだ。
わたしにはそれが何故なのか分からなかったけれど、会議中の人間味のない陛下を見るとわたしはあの夜のことを思い出し、今は大丈夫なのだろうかとどこか気にかかるのだった。