10 怒りと欲望
陛下の寝室はしんと静まり返っていた。ウームウェル補佐官が部屋を出てからは既に2時間ほど経っている。時刻は22時過ぎだ。
遅くなるだろうとウームウェル補佐官が言っていた通りではあるけれど、わたしは父上からの手紙をとっくに読み終えて、頭の中での整理も一通り考え終わったところだった。これ以上の作業は紙とペンがないと難しいけれど、あいにく持ってきていなかったためやや手持ち無沙汰になっていた。
そこでふと浮かんできたのは、部屋に来た際にウームウェル補佐官が言っていたことだった。国王陛下に退室を命じられる可能性はあるとしても、それを拒否してほしいとはどういうことなのか。少しだけぼんやりとしながらその事に思いを馳せていると、それは突然に中断されることになった。
部屋の扉が、ガチャリと音を立てて動いたからだ。
「オグウェルト、いるのか」
そう言いながら扉を開けたのはもちろん、ここ二週間ほど直接は話す機会もなかった陛下その人だった。そして、その言葉に疑問が浮かぶ。オグウェルトとはウームウェル補佐官のファーストネームだったはずだ。
何かが噛み合わない気持ち悪さを感じた。
わたしはどう答えるのが正解かわからず、反応が一歩遅れた。返答は浮かばなかったけれど、反射的にソファからは立ち上がっていた。
そして迷いなく寝室へと入ってきていた陛下と、間違いなく視線が合う。その直後に陛下は一瞬目を瞠ったように見えたけれど、すぐにその端正な顔の眉間には皴が寄った。この表情は見たことがなかった。てっきりまた何かしら調子の良いことを言われるのだろうとばかり思っていた。予想外のことに、思わずわたしは焦る。
バタンと大きな音を立てて扉が閉まったことで、わたしは陛下に対して礼をするどころか、既に目が合ってしまったことに気づいて急いで頭を下げた。陛下から何か言葉をかけられるだろうと思ったけれど、少し待ってもそれすらもなかった。
しばらくしてそろりとわたしが顔を上げると、陛下はもうわたしのことを見ていなかった。その顔に浮かぶのがどんな感情なのかはっきりとは汲み取れなかったけれど、わたしからは忌々しげな表情に見えた。
「どうしてここに?」
陛下はその顔のまま、低い声でわたしに聞いた。疑問形のような、そうでないような響きだった。
わたしはさらに戸惑う。けれど表情には出さないようにしなければといつもの癖で思った。
「陛下がお呼びだと、ウームウェル補佐官から伺って……」
そう言ってから、ウームウェル補佐官が何と言っていたかを思い出す。補佐官は「これは陛下からのご命令ではないのですが」と言った。
そして、はたと気づく。もしかして、わたしは勘違いをしていたのだろうか。あの言葉は、陛下が「これは命令ではないが」と言ったのではなく、『陛下自身が言っているわけではないが』という意味だったのだろうか。
「あいつ余計なことを」と陛下はうめくように言った。わたしは恐る恐る陛下へと視線を向ける。何気ない様子を装おうとしたけれど、うまく行ったかはわからなかった。
陛下はちらりとわたしに視線を寄越してから、すぐにそれを外した。それからひとつため息をついて、「それで」と言う。
なんとなく怒気のようなものを孕んでいるようなその声に、身体がびくりと震える。その反応は隠しきれなかった。
内心はどうあれ柔和に振る舞っている陛下も見たし、会議での人間味のない陛下も見た。
けれど、これはどちらでもない、中では底が知れない感情が渦巻いているような姿に見えた。
「君は、どんなつもりでここに来たの」
じり、と陛下はわたしの方へ寄る。わたしは思わず陛下から視線を逸らした。自分の表情を取り繕える範囲を超えているくらいに危険だと、わたしの頭の中で警告が鳴っていた。そんな声の響きだった。
「この間のことは忘れた?また何かされるかもしれないと思わなかったの。……本当に、命令だと思えばなんでもするんだね」
陛下は言葉数多く、わたしの顔を見ずに言葉を差し向けてくる。わたしに向かって言っているのに、それは独白のようにも聞こえた。
直観的に、怖いと思った。わたしは陛下から視線を逸らしたまま、1ミリも動けなかった。陛下にまとわりついている威圧感に飲み込まれているような感覚が身体を覆う。それは何か得体の知れないものを含んでいるように感じられて、身が竦む。
答えないわたしに、陛下はさらに続ける。口を挟ませないようにしているようにも聞こえた。
「じゃあ、私が抱かせろと言ったら君は抱かれるの?」
ぐっと距離を詰められる。陛下はもうそこまで来ていた。わたしは声も出ない。
それと同時にどこかで感情とは切り離されてぼんやりと俯瞰しているわたしが出てきて、この陛下の中にあるものはなんなのだろうと現実味なくそれを眺めていた。もう完全に、自分がどう見えるかを意識している余裕はわたしにはなかった。
ぐっと左手首を掴まれて、わたしは思わず顔をしかめた。痛みすら感じるような、全く加減のない強い力だった。
「ねえ」
そのまま引っ張られて、わたしは陛下の胸板にぶつかる。陛下はわたしを抱き留めなかった。わたしの身体は震えることさえできなかったけれど、掴まれた腕から伝わる身体の強ばりには陛下も気づいているはずだった。
けれどこの間とは違って、陛下はその行動をやめようとはしない。
「何も言わないなら、本当にするよ」
耳元で囁かれるそれは怒っているような、けれど喜んでいるような、どうにも判別のつかない抑えられた声だった。わたしはただただ、動けずにいる。手首は痛いような気がするのにはっきりしなくなっていて、なんだか傍から物語を見ているような気持ちになってきていた。
陛下は唐突に振り向いて、腕を持たれたままのわたしはその動きのままに強く引っ張られた。抵抗など、全くできなかった。
わたしを寝台の前まで引っ張ってきた陛下は、そこでも何も言わないわたしの肩を両手で強く押した。わたしの視界からは陛下の姿が消え、代わりに高くて広い天井が映った。
わたしはなされるがまま、気がつけば寝台に仰向けに寝転がることになっていた。
ボスンと鈍い音を立てて、寝台はわたしを受け止めた。
そして身体の全てが動かなくなってしまったと思っていたわたしはそこで、自分の心臓がどくどくと鼓動を強く打っていたことに気づいた。
現実感のないこの部屋の中で、わたしの気持ちがやっと少し追い付いたような気がした。
わたしはどうして、こうされているんだろう。そして、陛下はどうしたのだろう。その思いも鼓動を感じる度にぼんやりとした靄の中から抜け出してきて、わたしのはっきりとした思考として存在しはじめる。
自分の思いのままに何かを他人に強要する人ではないはずだと思った。腹の底は知れないけれど、他人を痛めつけるような人ではない、ような。
何を根拠にかは分からなかったけれど、わたしの直観はそう言っていた。長いことそういう風にわたしを扱ってきた、元旦那様とは違うと感じたのかもしれない。
仰向けのわたしの顔の上に影が落ちてきて、同時に寝台はギシと鈍い音を立てる。見上げると、陛下はわたしの身体を覆うように手と膝をついた姿勢でわたしの上にいた。少し冷静になったわたしは、陛下の目を見つめる。
「陛下、どうされましたか」
口を開いてみると、声は落ち着いているような音になった。実際、なんだかわたしは落ち着いていた。
久々にまともに発されたわたしの声に、陛下はぴたりと行動を止めた。わたしには視線を合わせないで、少し口の端を上げる。それは自嘲するような表情に見えた。
「……嫌になったかい?」
先ほど感じていた怒気のようなものは薄くなっていて、わたしの身体を竦ませる響きはもうない。「いいえ」とわたしは口を開く。
「陛下には、わたしを抱く気なんて元からないようですので」
それを聞いて陛下は「はは」と力なく笑った。心なしかその顔色が悪いような気がした。
「何言ってるの、私は君を抱きたいよ。君が欲しい」
けれど、それは本心ではないような気がした。何かを隠すための、ポーズのようなものなのではないかと思った。
視線が合ったのは、中にわたしがいることに陛下が気づいて驚いた表情を浮かべたあの時だけだ。ずっと合わない視線からは、わたしを欲しているようには感じられなかった。
むしろわたしには、陛下がわたしを見ないようにしているように思えた。