9 公と私
翌日、わたしはウームウェル補佐官に「相談があるためお時間を頂けないか」とお願いして、昼過ぎに話す機会をもった。
そこでは、昨日マーガー副室長からの助言でタタレドに間諜を置けないかと検討したこと、それに関係するべリス家とタタレドの情報について、そして間諜の候補としてはトラッドソン家の使用人を考えていることを伝えた。
「トラッドソン家としてそれで良いのであれば、こちらとしては口を出すことは何もありません」
ウームウェル補佐官の反応は、「一般人がやることではない」と驚いていたマーガー副室長とは反対だった。予想とは異なる補佐官の反応に、わたしはやや面食らう。マーガー副室長の反応を見ても、何か言われるだろうと思っていたのだけれど。
しかし考えてみれば確かに、これは国のための情報収集ではあるけれど、わたしが個人的に動かすのであればトラッドソン家の私的な采配ということになる。
国としての采配ではないのだから、ウームウェル補佐官に相談する必要もないということだ。その点に気づいて納得しながら聞いていると、少し間をおいてから「……ですが」とウームウェル補佐官は続けた。
「それをトラッドソン家だけの手柄としなくて良いのであれば、王城内の間諜訓練を受けた者に協力させることも可能かと思いますが」
ウームウェル補佐官から飛び出したのはわたしにとって意外な言葉だった。つまりそれは、国の采配として間諜を置ける可能性があるということだ。
「タタレドに、国から間諜を派遣していただけるということですか?」
そもそも、タタレドには国の間諜を置いていないと先日の戦略会議で聞いた。だからてっきり、そうするつもりがないのだと思っていた。だからこそ、こちらでどうにか手配しなければと思ったのだ。そこに、トラッドソン家の手柄にしたいなどという気持ちは一切ない。
「ええ、要請があれば整えられます」
すんなりと頷くウームウェル補佐官に、「ですが」とついわたしの口は先走る。
「情報収集室のマーガー副室長は、間諜は難しいのではとおっしゃっていて。間諜の取り扱いは情報収集室でしょうから、国としては難しいという判断なのかと……」
けれど、「いや」とウームウェル補佐官は躊躇なく首を横に振る。
「間諜は直属部の管轄です。すべて陛下の直接の指示で動いている。陛下しか把握していない者もいますから」
そうだったのかと、わたしは目を丸くする。なるほど、マーガー副室長が間諜についてをあっさりと諦めようとしたことにも頷けた。自分の管轄ではないし、陛下に頼めるわけでもないと踏んだのだろう。
ということは、わたしはここまで細かく悩まなくても「間諜を派遣したいのですが……」とウームウェル補佐官に初めから聞いてみれば良かったという話になる。少し肩透かしを食らったような気分だった。
しかし、お願いできるというのならありがたい。
わたしは背筋を伸ばしてから、ウームウェル補佐官をまっすぐ見る。
「それでは、タタレドへ間諜を派遣するための要請をしたいのですが、ウームウェル補佐官から陛下に上申していただけますか」
ウームウェル補佐官は「ええ」とすぐに頷いて、「明日までには陛下に確認します」と言った。
これで一気に、タタレドに間諜を置くことがかなり現実的になってきたように思えた。ニカには手紙を送ったけれど、もしかしたらニカの出番は不要になるかもしれない。そう思うと少し安堵の気持ちが浮かぶ。少なくとも無理はさせなくて良いだろう。
肩透かしは食らったけれど、今までになかった視点を得たのは収穫かもしれなかった。トラッドソン家のわたしとして動くのか、国王に仕えるトラッドソン家伝令役のわたしとして動くのかは、その都度はっきりさせてから動いた方が良いということだ。
ウームウェル補佐官は不慣れなわたしにこうして教えてくれたけれど、他の人であれば内心で「この件はトラッドソン家の手柄にするのだな」と思って終わりなはずだ。気を付けなければと気を引き締める。
そして王城内の組織について詳しく把握しておかないと適切に動けないのだと実感したわたしは、その日の午後は資料室にこもることにした。登城前にとりあえずと大雑把にしか把握していなかった王城内のことについて、どの部署で何をしているのか、誰が何を管轄しているのかなど改めて隅々まで確認したのだった。
*****
翌日。日が暮れてからウームウェル補佐官はわざわざ情報収集室までわたしを訪ねてきてくれて、間諜に関してまずは陛下からの許可が下りたと伝えられた。
今回タタレドに向かう間諜についての存在は、戦略会議の出席者にも情報を開示すると陛下が決定し、次回の戦略会議で詳細を詰めるとのことだった。そのため、その時までにトラッドソン家でも間諜を手配するかどうかを決めるようにとの伝言が伝えられた。
「わかりました」とわたしが礼をすると、ウームウェル補佐官は「それでは失礼」とすぐに立ち去ろうとしたけれど、数歩歩いてから何故か歩みを止めた。どうしたのだろうと思っていると、ウームウェル補佐官は再びわたしを見た。
「これは」と言いかけ、ウームウェル補佐官はじっとわたしの顔から視線を外さない。
「これは、陛下からのご命令ではないのですが」
間諜についての話の続きだろうかと首を傾げながら待つと、ウームウェル補佐官にしては珍しく何かを迷うようなそぶりで一瞬の間があいた。しかし、すぐにいつもの真面目そうな顔に戻る。
「……明日の夜、時間を作っていただくことはできますか」
聞こえたのは、登城した最初の日に陛下から尋ねられたことと同じような内容だった。
その言い方から、おそらく陛下がまたわたしを呼んだのだろうと想像がついた。ウームウェル補佐官はそれを伝えるようにと言われたのだろう。「命令ではない」と言うけれど、陛下が言えばほとんど何でも命令のようなものではないかと内心で独りごちる。ただ、命令ではないと言いつつもニカに手紙を送ったわたしも同じようなものではないかと苦い気持ちが浮かんだ。
*****
そして翌日の夜。
ウームウェル補佐官に言われた通りに、わたしは陛下の寝室へと向かっていた。今日はウームウェル補佐官が陛下の部屋まで送ってくれたため、ひとりの時にされる入り口での確認や侍従の案内はなかった。見た感じ、ウームウェル補佐官はここを自由に出入りできるようだ。
陛下の側近だからだろうかと思ったけれど、そういえばウームウェル補佐官は公爵で王家の遠縁でもあったではずだ。
この短い期間を王城で過ごしただけでも、ウームウェル補佐官が陛下の右腕として有能な人材であり、同時に陛下からの信頼が厚いことはありありと伝わってきていた。
そんなウームウェル補佐官は、扉の前で足を止めて陛下の寝室の扉に手をかけた。それからわたしを振り返る。
「陛下は今日、おそらく遅くなると思います。中で待っていていただけますか」
わたしは「承知いたしました」と頷く。ちょうど父上から『人攫い事件』に関する情報が返ってきていたところで、その手紙を持ってきていた。そのことについて整理する時間に充てようと算段をつける。
ウームウェル補佐官は慣れた手つきでその扉を開けて、中の明かりをつけた。間接照明と、ソファの近くの明るい照明も。
わたしが中に入ると、ウームウェル補佐官は「待っている間、座っていていただいて構いませんので」とソファを示す。陛下の部屋で勝手に座って待つのはどうなのかと少し思ったところだった。わたしはありがたく頷いて、ウームウェル補佐官を見送ろうと扉の方を向くと、補佐官がまたわたしを見ていることに気づいた。
「なにかございましたか?」
わたしが尋ねると、ウームウェル補佐官は一度視線を逸らしてから、またわたしを見て意を決したような表情になった。
「これは、私からのお願いなのですが。……もし陛下が退室を命じても、今日は一度それを拒否していただけませんか」
その言葉の意味を、わたしはすぐには理解できなかった。
思わず「え?」と聞き返すと、ウームウェル補佐官は首を一度横に振って、「いや、……なんでもありません、聞かなかったことに」と口を閉ざす。どういうことなのかと聞きたくて口を開きかけると、ウームウェル補佐官はそれに気づいていたようだったのに「それでは失礼」とすぐに扉を閉めて出て行ってしまった。
陛下が退室を命じても、一度拒否する。
どういうことだろうと戸惑った。
陛下が呼んだのに、退室を命じるのは何故なのだろう。部屋から出て行ってと部屋の主に言われてそれを拒否した方が良い理由なんて、あるだろうか。
言われたことを咀嚼できず、わたしはウームウェル補佐官の言ったことを頭の中で何度か繰り返した。ただ、しばらく考えてもよく分からなかったので一度それは放っておいて、とりあえず今は父上からの情報を頭に入れることを選んだのだった。