お涙頂戴チョコレート
俺の彼女の話を聞いてほしい。
誰にともなくそんなことを思う午後十一時のベランダ、煙草の一本や二本吹かせられたら良かったんだけど手にあるのは棒状チョコ菓子が一袋。
そろそろ煙草の煙を燻らせる恰好良い大人になれなかったことを受け入れはじめる年頃で、複雑ながらも自分の子供舌に正直に生きることを決めていた。
彼女は長風呂の真っ最中で、こうして俺が時々夜中に一人黄昏れていることを多分知らない。約五時間遅れの黄昏だ。
ぱき、と小気味よくチョコ菓子を噛み切る。
一人で食べると減りが遅いようで早いようで遅い。
彼女の話を、あまり人にしたことはない。
初々しい高校生とかならともかく、今更他人の恋愛に興味を示すやつなんていない。少なくとも俺の周りには。
汎用的な文句で説明してそれだけだ。
そんなありふれた言葉で語り尽くせるような女じゃないんだけど、とか思っているのは多分俺が恋人だからで普通に贔屓目なんだろう。
人間、どいつもこいつも似たような奴らばかりだ。特別だと思っているのはいつだって当事者だけ。
俺たちもそんなどこにでもいる彼氏彼女だった。
いや、過去形じゃない。普通に現在進行形。今日だって俺の家で二人で微妙にシーズン前な鍋をつついたし。
ただ初恋とか一目惚れとか、そんな特別なことはひとつもなかった。
お互い初めて関係を持つ相手というわけでもなかったし、友達の友達の紹介みたいな感じでなんとなく付き合って、付き合い続けて今に至る。
ただ漠然とこのまま彼女と籍を入れるんだろうなという予感だけがあり、だけどそんな話を彼女としたことは一度もないから実際はどうなのかはわからない。
俺の一方的な思い込みなのかもしれないけど、だとしたらちょっと悲しい。
彼女はなんとなく馬が合うけれど趣味が合うというわけではなかった。
価値観は大分違うし、気はそこそこ程度にしか合わない。
俺が、一生彼女のこの部分を理解できないんだろうなと思ったのは一点だけだ。
彼女の趣味、というと彼女に否定されるひとつの習慣的な何か。
彼女はいわゆる悲劇的な恋の話が大好きだった。
小説、ドラマ、映画。なんでもござれ。
大好きというとまた「それは、なんていうか、ちょっとちがう」と不本意そうに、だけど代わりの言葉を探し出せず困った顔をするのだけど。
便宜上だから勘弁してほしい。
不治の病、交通事故、あの手この手で引き裂かれる恋人たち。死が二人を分かつまでを言葉通りに描いた物語。
ケータイ小説の全盛期を目の当たりにしたらしい彼女は今も、謎の嗅覚でその手の話をピンポイントで買ってくる。
別に読書家というわけではないらしい。
話題になった小説の話を振ってみても反応は薄いし、俺の習慣的に買っている漫画雑誌も手持ち無沙汰にちら見する程度。
だが彼女と本屋に行くと麻薬探知犬のように「これ」と手に取る。
本人にもその理屈はよくわかっていないようで。
多分、無意識にパターン化して傾向を把握しているんだろうけど、俺は彼女の本棚を眺めても共通点がちっともわかりそうになかった。
帯があるのはわかりやすいんだけど。『あなたはきっと涙する』とか。
だが帯で当てようとしてもほとんどは彼女曰く「それは全然ちがうもの」らしいから、やはり俺には無理らしい。
彼女はそれを『お涙頂戴モノ』と呼ぶ。
売りに違わず、彼女はきっちりと涙する。
「こういうのは、綺麗に泣けるからいい」
と、顔色ひとつ眉の形ひとつ変えないまま、はらはらと涙をこぼす。
しゃっくりも鼻水もない、目薬みたいな泣き方。
そしてさらりと涙を拭って、彼女は何事もなかったかのように『いつも通り』に戻っていく。
「あなたはこういうの、嫌いな人かと思っていた」
別にそんなことはない。確かに少し……苦手ではあるかもしれないけど。
「でも、俺も。君がこういうのが好きなイメージはなかったな」
お涙頂戴なんて制作側の意図が透けて見える、と唾棄する方が似合ってる。
我が恋人ながら、価値観は結構きつい。性格はそうでもないから衝突したことはないけれど。
「好き、とは違うのかも。気に入っている話とかはあるけど。私、全然。愛してない。愛せない」
鑑賞ではないのだと、摂取だと。
「無くちゃ生きていけないの。あなたにとってのチョコレートみたいなものだよ。チョコレートひとつひとつに対して、愛を囁ける? パフェにケーキにアイスクリーム、ビターにミルクにホワイト。違いはあれど結局、全部同じ」
ああ、なるほど。と頷いた。
「薬か」
「あるいは煙草。お酒にしては浮かれ度が足りない」
「違いない。チョコレートでは酔えないから。『好き』よりも『無くちゃ困る』だ」
日に日にすり減る何かを埋め合わせるための何かが人生にはどうやら必要なんだ。
俺にとってはチョコレートで、彼女にとっては嘘の涙で。
決してお互いではなかったあたりが自分たちらしい。
「自分でもちょっぴり悪趣味なんじゃないかと思うよ。正真正銘、私は泣くために読んだり見たりしているわけできっと物語を好きな人には『不誠実だ』とか『浅ましい』って言われるんだろう。だからなんだ、って思うけどね。だから人には言わない。どうしてなのか……理由もよく答えられないし」
「俺が、チョコレートの良いところを答えられないように?」
「うん。それは『チョコレートだから』に尽きるでしょ」
「ああ。ただ、その味に中毒症状起こしてる」
「強いて言うなら。無理矢理に理由を考えるなら。きっと、全部嘘だと思い込めるからだと思う。わかってはいるんだけど。実話を元にした悲恋って売り文句は最近あまり見なくなったことが、現実にそんな結末がなくなったということにはならない。警察署の前の交通事故件数の看板の中にも、大きな病院の普段足を運ばない階にもそういうのはいっぱい、あるはず」
一体、幾つの仲が引き裂かれてきたんだろうね。
引き裂かれて行くんだろうね。と表情の浮かばない顔で彼女は言う。
「だから私は、最低最悪不謹慎。ニュース欄で泣かないことが精一杯の誠意」
彼女の指向を知ったのは何度目かのデートの時だった。
半端に浮いた時間を潰すために入った映画館は見事に俺の嗜好から外れたものと合致したものは満席という状態で、どうしようかと彼女に問えば控えめに、顔色を伺いながら悲恋映画と名高いものを指差した。公開から結構時間が経っていたため席は二つ並んで空いていた。
この手の話を見るのは随分と久々で、新鮮味は十分に俺を楽しませた。いや、楽しむような話じゃないんだけど。
そしてエンドロールの流れる中、彼女の横顔を見た。
静かに涙を流す彼女の横顔はとても綺麗だった。
もしかしたら彼女のことをはっきりと想い始めたのはあの時なのかもしれない。
人の泣き顔に惚れるなんて本当どうかしてる。
いつか本好きの友人は言っていた。
フィクションの摂取傾向は望もうと望まなかろうと価値観にバイアスをかける、と。
それを真に受けるならば、少年漫画と連続ドラマの『色々ありましたがめでたしめでたし』な絶頂期で終わりを迎える運命の恋と真実の愛の観念が俺には潜在的に刷り込まれているんだろう。
だがきっと、「私のことを愛してる?」なんて聞いてこない、地に足ついた彼女の恋愛観はもしかするとひどく悲観的で終わりの象徴そのものなのかもしれない。
「あのさ。こういう話に、自己投影とかしたことあんの」
「もしも同じことがあなたや私に起こったら、ってこと?」
いつかそう聞いたことがある。
俺がその手の話を少しだけ苦手とするのは、つい重ねて気を病んでしまうからだと思う。
現実世界を舞台にした話の生々しさは共感と没入感だけじゃなくて時々、そういった同一視を引き起こす。
「多分、無意味だよ」
その返事で彼女はしないことを知る。
「全部作り話だけど、人なんてどうせみんな同じようなことしかできないんだから。私はこの、文章と同じように運命のいたずらを、自分の無力さを、嘆いて嘆いて泣くだけ。まったく同じようにね」
レンタルDVDはとうに再生し終わって、もう随分と昔の予告編を流すだけになっていた。
俺はポテトチップスの残りかすを袋から流し込み、彼女はソファの上でそっと膝を抱えた。
「でも多分、それは……すごく、すごく汚い泣き顔なんだろうなあ」
そばかすの浮いたすっぴんで、へらりと彼女は笑った。
風呂上がり、髪をほんのりと湿らせた彼女がベランダに入ってきた。
こんな時間なのに甘ったるい缶チューハイをぷしり、と開けて。
明日、目が覚めるのは昼になるんだろうな。
チョコ菓子の最後の一本をのぼせ顔の彼女の口に突っ込んで、俺は彼女の缶に口をつける。一口だけ。
弱い炭酸と桃の匂いが喉にこびりついた。
「なに考えてたの」
「いや、運命の恋なんてろくなもんじゃないよなあって」
「はは、違いない」
欄干にもたれかかり、彼女は安酒をジュースのように嚥下した。
俺は空になった袋を細く折りたたんで結ぶ。
都会の星空はお世辞にも綺麗だと言えないけれど、控えめにぽつりぽつりと光を放つ青暗い夜空を俺は嫌ってはいなかった。
次回の流星群はいつになるんだろうか。
明るすぎるこのベランダで見えない星に願いをかけるのは目を瞑って当たりくじを引くようなもので、多分それは案外違いがないんじゃないかと思ったりも、する。
「酔いが回ってきたかな」
「ふふ、一口で? あなたは本当にお酒に弱いね」
「いいんだよ」
甘ったるい後味を流し込むために、彼女の缶にもう一度口をつける。
中に入ろうか、と彼女が言って、俺は頷いた。
名前も知らない一等星に背を向ける。
彼女の、綺麗な泣き顔だけを見たい。