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朽ちぬ願い

作者: うゆ

 私が会社員になって、間もなく二十年が経とうとしている。今の私は、まだ二十代の青臭い、けれど純粋で実直な志を持ったあの気持ちをすっかり失って、社会の荒波にのまれた中年のオジサンになってしまった。

 時々、家の古臭い冷蔵庫で中途半端に冷やされたビールを、誰もいない薄暗いリビングで何かを噛みしめるようにちびちびと飲みながら、「自分はこの二十年で何をなくしてしまったのだろう」と考えることがある。


 希望? 期待? 願い?


 そうして一人で悶々と考えて、「あれは違う。これは違う」と否定しては、社会で生きるうち身につけてしまった、後ろ向きな考え方に嫌気がさす。だから、まだ若くて何も知らなかったあのころの出来事に思いを()せてしまうのは、自分の防衛反応だろうか。



 暗く湿った、そして少し冷たい土の感触。

 腐り汚れた、銀色がむきだした袋の表面。

 細く(ねじ)った、白い紙のシワを伸ばした音。

 そこに書かれた、小さくて丸っこい文字を思い出す。

 そしてそれらを思い出しては、自分の存在を、やけにちっぽけに感じてしまうのだ。










 ――二十年前。就職が早々に決まって浮かれていた私は、その浮足だった気持ちのまま、K村という郊外の村に、避暑がてら訪れていた。

 村の途方もなく続く林道には、木々が触れ合う乾いた音やさわやかな風が吹きわたる音が響き、当時の私にはそれだけで清々しく、新鮮な気持ちが心を満たしたことをよく覚えている。

 

 その奇妙な光景を見たのは、その林道を抜けた神社でのことだった。

 

 形ばかりの印象を受けるその神社には、おみくじ売場など、神社にありそうなものはなく、塗料の赤と錆びた色が混じった鳥居のすぐ前に、賽銭箱と御堂があるばかりの簡素な造りだった。

 私が歩みを止めたのは、その古びた賽銭箱の前に、一人の女性の姿を認めたからだ。

 女性は独特の落ち着いた後ろ姿で、これから参拝を行おうと、右手に何かを握りしめていた。はじめ賽銭であろうと思ったそれが、絵の描かれたパッケージつきの何かだと私が気付いたころには、彼女は賽銭箱のにそれを投げていた。


「あの……失礼ですが、今、何を投げられたんです?」

「あぁ、お菓子さぁ。『キルンチョコ』っていうな」

 自重気味な私の声に振り返った女性は、それがさも当然のことであるかのように、地方訛りが混じった特徴のあるダミ声で言った。

「あんた、ここの村の住人じゃなかんと?」

 私が「ええ」と答えると、彼女は目じりにしわが見える顔を悲しげに歪めて、「じゃあ、キルンちゃんの話、しらんとね」と続けた。

「キルンちゃん……ですか?」

 そして彼女はどうしてお菓子を賽銭箱に投げたのかを話し始めた。同時にそれは、何十年か前に亡くなった、幼い少女の物語でもあったのだ。



 その少女の名前はタミといった。タミは当時、既に過疎化が進んでいた村で、唯一の七歳の子だった。そのため同い年の友達を持ちたくても持てなかった彼女は、村の大人たちに何かと気に掛けられ、可愛がられた。

『キルンちゃん』というあだ名は、『キルンチョコ』という、村の駄菓子屋で売られていたチョコを彼女がよく買っていたと、その駄菓子屋のお婆さんが他の大人たちに話していたからだ。

 彼女は親からもらったというお金で、単色で描かれたチョコの絵が袋についたお菓子を買った。そしてその中から、薄いオブラートに似た白い紙に包まれた、平たくていびつな形をしたチョコを取り出し、その場で世界一のおいしさを堪能するように、キラキラした大きな目をいっぱいに開いて、食べていたという。「その姿があんまりおいしそうだったから」と、『キルンちゃん』というあだ名がついたらしい。


 しかし、理由はそれだけではなかった。


 お婆さんは気が向くと、もう一つおまけにそのチョコを彼女にあげようとしたそうだが、キルンちゃんは「ううん。あたしイッコでいいの」と何かを我慢するようなもじもじした声で断ったそうだ。「どうして?」とお婆さんが聞くと、「お願いは一日イッコだもん」そう強い調子で言うから、お婆さんは何事かと驚いた。

 実は彼女がチョコの包み紙を使ってお願いをしていたのだ、とわかったのは、駄菓子屋のお婆さんがその話をした3日後だった。キルンちゃんの友達だという一つ年下のクルミが、お婆さんに『密告』しにきたのである。

「あのな、キルンちゃんはな、なんか白いカミにいっしょうけんめい文字書いて、そんでそれをぐりぐりにこうやってまいて、そんでまたいっしょうけんめいお願いしてんよ」

 クルミは自らの手をぎゅうぎゅうと握って、キルンちゃんが紙を捩る様子を表現した。

「そんでそのカミを、どこかにかくしとんよ」

 駄菓子屋のお婆さんは、さらにどんなお願い事をしているのかも聞こうとしたが、どうやらキルンちゃんは、そういったことは彼女にさえ教えなかったらしく、クルミが知っていたのはそれだけだった。


 これがキルンちゃんの名前の所以である。


 大人たちは願い事についてそれ以上詮索せず、暖かな目で傍観していた。だからその後も、キルンちゃんは駄菓子屋に通い続けた。そしてその度に大きな目を開いてぱくぱくチョコをほおばり、ぎゅうぎゅうに捩った包み紙にお願い事を書いていた。


 しかし、不幸は突然訪れた。


『神社付近で消えた子どもがいる』という一報がクルミによってもたらされたのは、湿った雨が降る日の夕方だった。

 厚い雲がおおいきって、暗闇に近くなった神社の森の中、「ねぇ、かくれんぼしようよ」というキルンちゃんの言葉で、二人でそれをすることになったクルミは、じゃんけんをした結果、オニをやることになった。


「きちんと十、数えてよね」


 数えた後、クルミは一生懸命に彼女を探し始めた。木々の一つ一つをしらみつぶしに探し、ときどき木に登っていないかを確かめながら、神社を基点に歩き回った。もちろん神社の御堂や賽銭箱の中も隅々まで探し、だんだん暗くなってくると、「キルンちゃーん! もう出てきんとー!」と叫びながら歩いた。そしてそのうち雨が降り始め、先々の木々が視界に入らなくなり始めたころ、クルミはいよいよ困って、村に続く林道を駆け足で通り、近くの大人たちを呼んで事を伝えたのだった。

 捜索はすぐに行われた。雨具や懐中電灯を持った大人たちが、続々と森の中に入って行った。皆が必死に名前を叫び、探した。しかし、強く降っていた雨がやがて上がり、新しい太陽が昇って陽が降り注ぎ始めても、キルンちゃんは見つからなかった。


 結局、彼女の願い事はなんだったのか。


 それから何十年と経った今でも、それは誰にもわからない。




「『ひ・み・つ』って、言ったと」

「何がです?」

 長い沈黙のあと、彼女――神社に参拝をしていた女性は呟くように言った。

「なにをお願い事しとんのって言うたら、キルンちゃんはそう言ったと」

「そうですか……」

 何ともいえぬ沈黙がまた訪れる。葉々の隙間から覗き込む日差しがだんだんと陰ってきた神社の周りには、いつの間にか鳥たちが思い思いの木々に集まって、さえずりを交わしていた。

「消えること……」

「はい? 何て……?」

「消えることがキルンちゃんの願いだったんかな……」

 それは私にというより、自分に問うようだった。彼女は、チョコが消えていった賽銭箱の穴の中をぼんやりと見つめる。年齢とともに重ねて寂しさが、顔のしわに刻まれているようだった。当時の私からすれば、それはあまり見たことのない、人の表情(かお)だった。

「消えること……。どうしてです? 彼女――キルンちゃんには何か思いつめるようなことなど……」

「あったんよ」

 それが、あったんよ。と彼女は繰り返す。

「あの子の家はね、父親がいんくて、片親で育ったんよ。そんでな、その母親ってのがどうも……」


 虐待してたって話よ。


「キルンちゃんの母親は村の人間じゃなかったしな。村になじめんくて、そのストレスみたんなものをキルンちゃんにぶつけてたん話よ」

「そんなまさか」

 と口で言いつつも、物語の中でキルンちゃんが訛りのない標準語を話していたのは、その母親の影響なのかと合点した。同時に、彼女が嘘をついてるようではないと思った。

「だからキルンちゃんのこと、みんな必要以上に気にかけとったんかなと、あたしは思うと」

「でも……」


 彼女は幸せそうに毎日チョコを食べてたんでしょう?

 彼女は楽しそうにクルミちゃんと遊んだのでしょう?

 そんなの、家庭で傷を受けながらできることではないでしょう?


 そういったことを言おうと、私は口を開いたがそれは結局声にならなかった。

 いや、私が何を知っているというのだ。ただ、話を聞いただけじゃないか。本当に彼女が虐待を受けていたかどうかも、彼女が包み紙に自らが消えることを願っていたかどうかも、結局はわからない。

 もしかしたら、と私はさらに思った。かくれんぼをしようと言いだしたのも、彼女がクルミの目の前から消えるための口実だったのかもしれない。だから彼女は、「きちんと十、数えてよね」と念を押すようにクルミに言ったのかもしれない。

「だから、お菓子を投げてるんよ」

 しばらく黙っていた女性が、ふいに口を開く。

「まだ、願い事を書き続けれるようにな。キルンちゃんがいなくなったんは、このあたりだったんから。そう、こんな天気でな」

 彼女の言葉に呼応するように、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。さっきまでいた鳥たちは、また気まぐれにどこかへ行ってしまい、木々のそこらじゅうから雨が跳ね返る音が聞こえ始めていた。


「あんた、このあとどうするん?」

 しかしそれは……、とお菓子のことについて疑問を呈しようとした私を遮って、女性が軽い調子で言った。 私は特にどうするあてもなく、ただ首を横に振った。あたりはだいぶ暗くなっていた。鬱蒼と茂った草木が、急に無愛想なものに見えてきて、そして、ふと、「あぁ、宿に戻らないとな」と思い出す。

「宿に……」

 

 信じられないものを見たのは、私がそう言いかけたときだった。

 

 目の前に少女がいた。紫色の帯できれいに結んだ、夏祭りのようなピンクの着物を着て、小さなわらじを履いている。髪の毛はすべてきれいに切りそろえられ、こぼれおちそうなくらいの大きな目――。

「キルンちゃん……」

 女性は恐る恐ると言った様子で、御堂と賽銭箱の間に佇む彼女に語りかけた。

「キルンちゃんよな」

 少女は佇んだまま、彼女の問いかけには反応せず、まばたきもせず、こちらを凝視していた。「キルンちゃん、あたしよ、わかる?」その声にも答えず、やがて少女はきびすを返すと、神社の奥に続く林道に向かって走り出した。


「待って!」という彼女のかすれた声が、森に響き渡る。私はいつの間にか走り出していた。


 あたりには雨の激しく叩きつける音と、私がぬかるんだ地面を蹴り出す音だけが聞こえ、前方を走る少女の足音は聞こえない。後ろから、どたどたという荒い足音が聞こえてくる。おそらくさっきの女性のものだろう。

 少女はまるでペースを変えずに、森林の中を次々と抜けていった。そして、しばらく駆けた後、ある一か所で止まった。私は水滴を滴らせる体を止め、少女を見る。

 少女の目は何かを訴えかけるようにしばらく私を見た後、崩れかけた崖のような場所に目を移し、そこで木が倒れて折り重なったところに目を向け、そしてもう一度私を見た。私はその澄みきった目に吸いこまれそうになりながらも、彼女の意図を汲み、大きく頷いた。すると彼女は満足そうに幼い、無邪気な笑顔を浮かべ、やがて消えた。

 しばらくして追いついた女性は、荒い息を整えながら、「キルンちゃんは?」と私に聞いてきた。しかし、私はその問いに答えることなく、急いで先ほど少女が見つめていた場所へと向かった。


「そこ、あぶないと!」


「ここにいるんです!」


「誰が?」


「彼女が――キルンちゃんが!」


 その時の私が感じていたのは何だったのだろう。未知の出来事に対する冒険心だろうか? それとも不謹慎な好奇心だろうか? いずれにしても妙な使命感が、体を打ちつける雨のように確かに私の中で沸き起こっていた。

 私は断崖のすぐそばに駆け寄ると、そこに居座っていた、大量の木の残骸を手で少しずつどけた。それはおそらく長い年月を経て積ったもののようだったが、「ここにいるんだな」と言って、一緒に木をどけ始めた女性の協力もあり、すべて避けるのにそれほど時間はかからなかった。


「これは……」


 余計なものが取り除かれた地面の一部分だけ、少し盛り上がっているところを、私は見つけた。


「キルンちゃん!」

 私がそこの土を掘る前に、女性は手が汚れることなどお構いなしに、水が浮き始めている土を掘り始めた。急いで私も続く。濡れて粘土質になった土は、あっという間に私の爪の中に進入し、指の先を汚していった。しかし私は夢中で掘り続けた。そこに何があるか具体的にはわからなかったが、何より少女の無言の訴えに報いてやりたい、という気持ちが、私の心を支配していた。


 あっ! という彼女の鋭い声が上がる。同時に、彼女の手元に何か銀色のものが、土にめりこんでいるのが見えた。

「お菓子の、袋……」

 私の声に、彼女が息をのむ様子が見えた。

「これは……もしかして」

 私は袋のまわりの土を丁寧にどけ、すでに朽ち果てようとしていたそれを手に取った。少し溶けたアルミの表面に、はげかけた単色の絵。かろうじて残った茶色の一つの文字。意識的にレタリングされた『ル』の文字が、私の目を吸い寄せた。

「やっぱり……」

 それが話に聞いていたチョコのお菓子であることは、もはや明白だった。

「するとこれは、彼女が埋めた、と?」

 女性は少しためらいがちに、頷く。そして突然何かに気づいたように、ハッと顔を上げる。

「その中! その中を見てみ!」

 彼女は私が握りしめていた袋を指し示した。その勢いに驚きながらも、私は袋の中を見る。くしゃっ、という音を立てた袋には、こよりのようにねじれた白い紙が入っていた。私は震えそうになる指をその中に突っ込み、慎重にそれを取り出した。


「これを……」


 彼女は信じられないといった面持ちでそれを受け取ると、雨にさらされていることも忘れて、ゆっくりとそのねじれをほどき、開いた。紙には、小さくて細かい字が、やや丸っこい、子どもっぽい字で書かれていた。



『むらのおじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん、くるみちゃん、おかあさん。みんながしあわせになれますように』



 彼女の手のひらの上で、その文字が濡れ、滲んでいく。それが降り注ぐ雨のせいなのか、それとも女性の嗚咽と共に流れる涙のせいなのか、私にはわからなかった。



 その後、涙に暮れる彼女を連れて宿に帰った私は、もやもやした疑問を抱きつつも、都会の喧騒の中へ戻って行った。

 

 結局、キルンちゃんは虐待されてはいなかったのだろうか。幸せだったのだろうか。


 一つだけわかるのは、『キルンちゃんが自分で消えることを願った』なんて、誰も心からは思っていなかったのではないだろうか、ということだ。もしそうなら、包み紙のついたお菓子を投げ入れても、意味はないはずだ。もう、願いはかなっているのだから。

 だからきっと、彼女たちは(――あの女性はクルミちゃんだったのだろうか)、キルンちゃんの願い事が、何か彼女らしいことを書いていることを知っていたのだろう。もちろん『天国で幸せになってほしい』という自分たちの願いもこめて。

 二十年経っても、わかるのはこれくらいのことだ。あのとき都会に帰ってすぐに立てた推測は――うやむやになって、もうとっくに消えてしまった。


 まだ年端もいかぬ純粋な七歳の少女は、何を思ってそれを書いたのか。


 その気持ちを失った私には、わからないままなのかもしれない。


読んでいただきありがとうございました。

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