2話 美しい娘よ泣いているのだろうか
家に着くと僕は家庭菜園の視察をすることなく玄関に直行した。
抑え込んでいた体の熱と動悸がさらに昂ってきている。
家族に気取られぬよう平静を装ってリビングにいる母の夕子と今年から中学3年生になる妹の夏美に「ただいまー」と声をかける。
「おかえりなさい」
「おにーちゃんおかえりー」
「晩御飯できてるけどどうする?今日はお父さん仕事で帰れないみたいだから先に食べててって。」
「ご飯は後にするよ。疲れちゃってて食欲がないんだ。ベッドで休みたいから2人とも先にどうぞ」
「顔色悪いみたいだし眠った方がよさそうね。何かあったらすぐに母さんに言いなさいよ」
今は主婦だが元看護士だった母さんは僕の体調不良をすぐに看破した。プロから見て悪い症状が出ていて病院に運ばれやしないかとヒヤヒヤする。
「うん、そうする。おやすみ」
自室に戻るなり僕は着替えることもせずベッドに倒れこんだ。
体が焼けるように熱い。
体内の熱量を少しでも排気しようと、背中をくの字に丸めてせわしなく息を吐き出す。
人間って体温がいくつまで上昇すると命の危険にさらされるんだっけ
永遠にも感じられるような苦痛が僕を苛む。
こんな思いをしたのは小学生の頃インフルエンザにかかった時以来だろうか。
あの時同様、僕はただただひたすらに耐えた。
僕の忍耐が功を奏したのか、
2~3時間ほどで体の熱も動悸も嘘のようにおさまっていた。
体調不良が解消されたことによる激しい疲労と安堵のせいか、眠気がやってきた。
よかった収まったみたいだ。これで家族に迷惑をかけないで済むかも。
ほっとした僕は泥に沈むような深い眠りに落ちていった。
翌朝、
カーテンの隙間から朝の日差しがやってきたことで僕は目を覚ました。
時計を見ると午前8時。
僕が普段起床することにしている6時から完全に寝過ごしている。
寝坊など今の心境からすれば些細なことだ。
生きてるって素晴らしいことなのだから。
生の実感を噛み締めつつ体を起こした。
昨日お風呂に入らなかったので、寝汗による体の匂いが強く、下着とジャージが湿っていて気持ち悪い。
寝汗による水分が乾ききっていないためかジャージと下着がピッチリと張り付いている。
特にトランクスははち切れそうなぐらいゴム紐が延びきっていて腰回りをぎゅうぎゅうと締め付けているので激痛を感じた。
ジャージの手足の部分が露出していてきつく感じる。
一晩でずいぶん縮んでしまったようだ。
自室の鉢植えと家庭菜園の世話は後にしよう。
まずはシャワーを浴びないと。
僕は自室を出て、バスルームに直行した。
あれ?ドアノブの位置こんなに低かったっけ?
心なしか目線が高いような気がする。10センチぐらいかな?
もしかしてあの花の蜜に身長を伸ばす作用があったとか?
だとすると怪我の功名だろうか。
10センチ伸びても男の中では低い方だけど、それでも加奈子ちゃんと同じぐらいの目線になるし、身長160センチ台なら成人男性でもそれなりにいる。
みんなに子供扱いされないで済むようになるかも。
遅れていた成長期が来たのだ!不自然極まりないけど。
ウキウキしてきた。後できちんと測ってみよう。
それにしても頬にかかる髪がうっとおしい。
重みも感じる。
変な寝癖でもついてしまったのだろうか。
シャンプーすれば直るだろう。
勢いよく浴室のドアを開けジャージのジッパーに手を触れる。
手足は伸びているのに細さは相変わらずだ。
すんなりジッパーは動いた。
昨日1日屋外にいて日に焼けたはずなのにやけに白いな……
ジャージの上着を脱衣カゴに脱ぎ捨てTシャツを脱いだところで僕の意識は凍結した。
僕の胸板は昨日寝る前までは筋肉のかけらもない頼りない平坦な代物だった。
しかし、そこにはお椀のような美しい曲線を描いた乳房が自己主張していた。
これまでの人生でお目にかかったことのない本物の胸に僕は思わずみとれてしまう。
胸から下に視線を移していくと、
ウエストに昨日まで存在しなかったはずのくびれがあった。
唖然としていると背後から声がかかる。
「誰かいるの?」
振り向くとそこには夏美がいた。
起きてきたばかりなのだろう、パジャマ姿で寝ぼけ眼をこすっている。
「ねえ、夏美。これって何かな?」
夏美は僕の上半身をまじまじと見つめた。
「おっぱいだと思いますけど、それも綺麗で理想的な大きさの。」
「じゃあ僕は一体誰なんだろう?」
「えっと、どなたですか?」
質問に質問で返すなァーー!!
疑問文には疑問文で答えろと学校で教わっているのかァーとまくしたてたくなるのをぐっと飲み込んだ。
休日いつも惰眠をむさぼっている妹が今日に限ってなぜ早起きしているのか。
僕の着ているジャージの下半身を見て誰のものか察したらしい。
「おにいちゃん?」
「たぶん。小原千秋としての記憶があるから。」
どう考えても男のものではない上半身に再び視線を戻す。
贔屓抜きに美しい少女の裸身だ。
自分のものでなければ脳内に永久保存物だっただろう。
それにしてもさっきから喉から出る声が普段より甲高いな。
成長期?がきたのに声が高くなるなんて現象聞いたことがない。
頭の中で提示されるいくつかのヒントが点となり、やがて線でつながっていく、僕自身に起きていること、それらをまとめていってあり得ない結論に至り寒気が走る。
「イヤァアアアアア!!!!」
僕は叫ぶ。受け入れようもないおぞましい現実に。
<○> 0 → <○> 1
僕の甲高い叫びにリビングからドタドタと音が聞こえてくる。
母さんだ。
血相を変えてやってきた母さんは僕の姿を目に写した瞬間ドバドバと鼻血を噴出した。
鼻を咄嗟にハンカチで抑えながら母さんが言う。
「そのジャージ。あ、あんたもしかして千秋?」
「う、うん? 」
どうだろう?僕自身それが揺らいできたよ。
2人に胸を見られていることに気づいた僕は反射的に腕で胸を隠しつつ、(母さんの出血量が増した)想像が現実でないことを祈りながら鏡を覗き込んだ。
そこには美少女が立っていた。恥ずかしいような怒っているような驚愕しているような泣いているような、それら全てが混ざりあった複雑な表情をしている。
顔の造形は僕の面影が多少残っているんだけど、髪は背中にまで届く長さで色はあの日見た花弁のような淡い水色をしており、艶やかな艶を放っている。
瞳の色まで髪に合わせてか同じ色だ。
妹はマンチカンのようなくりっとした茶色い瞳に母さん譲りの気品ある顔をしている。
なかなかの元気っ子で家族としての贔屓を抜きにしても美少女だが、猫っ毛のような髪質のセミショートの黒髪だ。
断じて外国人でもありえないような髪色はしていない。
つまりこの少女は妹ではない。
隣に目をやると妹は妹のままだ。
髪を染めてもカラコンをしているわけでもない。
したがって鏡の中の美少女は僕……ということになる。
元々女顔だった僕の顔は細部までより女の子らしいパーツに変化しているようで誰が見ても男と誤認する人はいないだろう。
男の時に女の子と間違えられることはあったけどさ。
僕は嫌な予感がして下腹部に手をのばす。
はいているトランクスの隙間を空け中を覗き込む。(母さんの出血が増している)全盛期の残光、エンチャントしたカー○スの曲刀だってこんなに出血しないぞ。
残念ながら15年間を共にした僕の相棒は別れを告げることもなく姿を消していた……
嫌な予感の的中を確認した僕は天井を仰ぎ目頭を抑えて涙を流した。
僕が苦悩する様の一部始終を見ていた妹が助け舟を出した。
「とりあえずシャワーを浴びてきたら?落ち着くかもよ」
「ハイ!ハイ!ハーイ!私、立候補します!」
母さんが小学校低学年の学童のごとく手を上げた。
「千秋君わぁ、その体の洗い方を知らないと思うのでぇ、私が洗い方をレク…」
「絶対にイヤ」
母さんがこんなに変態だったなんて信じられないよ……
僕はなるべく体を見ないようにしつつ、ジャージのズボンとトランクスを脱いで浴室に入りカギを閉めた。
蛇口をひねり温水が出るのを確認してシャワーを浴びる。
温かさに心がほぐれ、少しずつ冷静になってきた。
母さんオススメ無添加のボディソープをスポンジにとり泡立てる。
元々なまっちろい肌だったがより白くなり、陶器のようななめらかな美しさだ。
スポンジで肌をなでると想像していた以上のしっとりとした柔らかな触感が手に返ってきた。
「ひゃん!」
男の子のものとは異なる質感に思わず女の子のような声が出てしまう。
いや、体はもう女の子なんだけどさ。
自分自身の体の敏感さに戦慄しているとスリガラス越しに母さんの声が聞こえる。
「千秋ぃ~着替えここに置いといたからねー」
「あ、ありがとう母さん」
「どういたしまして~」
目を強く閉じ、手のひらの触感を感じないようにしながらできるだけ丁寧に体を洗う。
男の頃になかった部分を洗う行為は僕の精神を高名な宮大工さんのカンナがけのごとく容赦なく削っていく。
髪を洗おうとしたところで、また声が聞こえる。
「千秋ぃ~シャンプーの後はトリートメントを使うのよー」
「そこにあるジョレームってやつ使っていいからー」
僕は日本の国民的男性アイドル台風が女性向けにプロデュースするトリートメントを手に取る。
小さなボトルだ。僕の髪は長くなっているし、母さんも長い。
毎日使っていたらすぐになくなっちゃいそうだ。
これ一本で千円はするのだから女の美容ってお金がかかるんだなあと思った。
後で髪を切ってもらうよう進言しよう。
両親にはできるだけ負担をかけたくない。
僕は母さんのアドバイス通りトリートメントをした後3~5分を置いてから落としすぎない範囲?で髪を洗い流しバスルームを出た。
女の子が入浴に時間を要するわけが身をもって理解する日が来るなんて誰が想像できるんだろう……
体と髪をバスタオルで拭う。
質量の増した髪から水分をとるのはなかなかの重労働だった。
脱衣所では母さんが待ち伏せしているということもなく着替えが置いてあった。
母さんが用意した着替えは女物の下着とノースリーブのシャツにフリルをあしらった袖のついた純白のワンピースだった。
これを僕に着ろと?
最初バスタオルを腰にまいたまま自室に戻るつもりだったので自分で着替えを持ってこなかったことを後悔した。
ブラジャーはないがパンツはある。女性がはくものだ。
これをはいてしまったら僕は一線を越えてしまうような気がしてものおじしてしまう。
とりあえずシャツはユニセックスものなので着た。
目の前にパンツをぶら下げて観察する。
どうやら卸たてのようだ。
今の僕の背格好は母さんに近いから母さんが自分に買い置きしたものだろう。
パンツをつかんだまま僕はしばし葛藤する。
だが、春とはいえ朝は寒い、冷えてきたことで脚が震えてきた。我慢も限界だ。
シャワーを浴びたばかりで気がひけるがトランクスを脱衣カゴからひっつかんで足を通した。
足の太さ自体はさほど変わっていないように見える。
身長がのびたおかげか長くなっているのが実感できる。
しかしトランクスを太ももまで上げた時に気づいた。お尻がつかえてトランクスが上がっていかないのだ。トランクスのゴムは限界を迎えている。
これって体が大きくなったのもそうだけど、女の子の体型に変化してお尻が大きくなったっていうこと!?
通りで痛いわけだ。
結局どんなにがんばってもトランクスをはくことができず僕はしぶしぶ女物のパンツを手に取った。
トランクスよりも小さく見えたそれは僕のお尻の形にフィットするようになじみピタッとしてなんだか気持がよかった。
「なじむ。実によくなじむぞ」
僕が女の子だったらそう言えたのかもしれないけど。僕は男なので素直に喜べない。
そしてワンピース。今の僕の姿は女の子だ。だから着ていても誰も不審に思わない。
でも母さんの期待に答えるのはイヤだし、着てしまったところを夏美に見られるのもイヤだ。
かといって下着姿を見られるのもイヤだった。
背に腹は代えられないのだ。
ワンピースは僕の心に語りかけてきた。
「君、いい加減に袖を通したまえよ。
君は正しく、そして幸運だ。」
衣類が口を聞くなんて僕はおかしくなってしまったのだろうか。
想像を超える神秘に邂逅してしまったことで啓蒙が高まったせいに違いない。
僕は心を殺しワンピースを手に取った。
正しくもなければ不幸でしかないんだけどさ。
どうやって着るのだろうと眺める。
ワンピースの背中のジッパーを下ろす。
ジッパーを下げるなんて動作に性別なんて関係ないだろうが、
女性の服を脱がしているような錯覚に僕の手は緊張に震えた。
ゆっくりと足をスカート部分に入れ。袖に腕を通す。
シュルシュルと衣擦れの音が脱衣所に響いた。
仕上げに背中のジッパーを探す。肩の関節が男の時よりも格段に柔らかくなっているものの元々不器用な僕はうまくチャックをつまめない
ついとんとんと小刻みにはねてしまう。
「おねえちゃん、かわいい」
いつの間にか夏美がこちらの様子を見ていた。
なかなか戻らない僕を心配して見にきたのだろう。
それよりも今お姉ちゃんって言わなかったか?
「手伝ってあげよっか?」
「う、うん」
夏美は女としては先輩なのだ。素直に任せることにした。