番外?2
夜桜が見たい。僕は唐突にその衝動に駆られた。
午前中の入学式の時、桜を見ることはできたけど、ゆっくり鑑賞している暇はなかった。
しかし、今は夜の20時。とっくに門限など越えているし、両親がおり、正直に外出したいと言えば禁止されるか、一緒についてくるかするだろう。
僕は一人で誰にも邪魔されずに桜が見たいのだ。
桜を観ているときはね、なんていうかこう自由で救われてなきゃあいけないんだ。
となれば、家族の目を盗んで外に出るほかないだろう。
帰ってきた時に出かけたことを悟られてもいけない。
これはバーチャスミッションなのだ。
僕は両親に、明日に備え早々に眠ることを告げ、隙をうかがった。
両親はテレビのお笑い番組に釘づけだ。
渾身のネタをすべらせてしまった新人芸人がプライドを捨てた変顔を披露し白けかけた場を盛り上げていた。
両親は大笑いだ。
いかん!僕も笑ってしまっては任務が水泡に帰す。
騙して悪いが仕事なんでな。行かせてもらう。
僕は口元を手の平で抑え極力足音を立てないよう、猫背でそろりそろりと廊下を通りぬける。
玄関を出ようとしたところで背後からジャーという音が聞こえた。
「お兄ちゃんどこいくのかなー?」
全身が総毛立った。
どうやら妹がトイレに入っていたようだ。
「ええと夜桜を一人で見に行きたいんだけどダメ……かな?」
夏美は唇に人指し指を当てて
「ん~お兄ちゃんの誠意次第かなぁ」
にんまりと言った。
「いいじゃないか。取引に応じよう。」
「じゃあ、お兄ちゃんとのデート権を1回おくれー。それで黙っててあげる。」
要するにお出かけしたいってことか。
たやすいことだ。僕はそう心の中で厳かに言って、了承した。
夏美のアシストを得て僕は外に出る。
帰りはスマホで連絡をして両親に気づかれぬよう家に入れる手筈にしておいた。
町内には桜がふんだんに植えられた公園がある。そこに行くとしよう。
僕は周囲を警戒しつつこそこそと歩きだした。
数分で公園に到着し、僕はその光景に思わず歓声を上げた。
「わぁ」
ソメイヨシノとシダレザクラだ。
満開の桜が僕の頭上をまるで星空のように覆っている。さらにその上空を本物の星空が、満月が、花びらをほのかな光で照らしている。
日本人は千年以上も前から桜の美しさをあらゆる語彙でもって讃えようとしてきたけれど、足りない。圧倒的に足りない。
この美しさを表現するには言葉はあまりにも不自由すぎた。
だから僕は敷地内の全ての桜の花の美しさ、甘い香りを少しでも体で感じたくて、手を広げてステップを踏んだ。
この日入浴を終えた俺は火照った体を冷ましたくて外で軽く体を動かすことにした。
目的地は近所の公園でいいだろう。
あそこは桜が名物だからな。その内千秋と加奈子を誘って花見をしてもいいだろう。
ジャージに着替えた俺は汗をかかない程度に軽くジョギングを開始した。
公園に入るとそこには先客がいた。
千秋だ。声をかけようとして俺の体は固まってしまった。
頭上の桜を見上げて手を広げ、くるくると踊っている。
こないだ着ていたものだろう桜の花びらの色に似た純白のブラウス、同じ色の足首の上までを覆うスカートを身につけている。
まるでドレスに身を包んだ別世界の姫君のようだ。
彼女が一歩足を運ぶ度に、夜の春風がささやく度に水色の髪がふわりと靡き、月光を吸収して妖しく輝く。
俺の錯覚か?彗星のような粒子を髪の中からきらきらと宙に撒き散らしている。
スカートがひらりと舞うたびに白く細い柔らかそうなふくらはぎが覗いた。
彼女の瞳は桜の花だけを映して、その生命の美しさをただただ祝福しているようだった。
月明かりが彼女の横顔を照らして、彼女の歓喜の表情を俺にあますことなく伝えてくれる。
妖精さんと誰かがつけた愛称はこの場では的確にすぎた。
俺は幻想的な風景にすっかり目も心も奪われてしまっていた。
声をかけたら、彼女に気づかれてしまったら、この世界が泡沫のごとく消えてしまうような気がして、息を殺してこの光景に見入った。
いつまでそうしていただろう。
孤独な舞踏会を終えた千秋が棒立ちになっていた俺の存在に気づいた。
「ヒロト?」
「ああ、悪い。邪魔したか?」
「ううん。どうしたの?こんな時間に」
「ここは桜がきれいだろう?その内みんなで花見がしたいと思ってな。
ジョギングもかねて下見に来た。」
「いいね。楽しそう。」
春風に靡く髪を指で抑えながら彼女が俺に優しく微笑みかけた。
今の少女の顔と男だった頃の千秋の顔が頭の中で重なり、俺は心臓が一瞬、鷲掴みにされたような感覚を覚えた。
早鐘を打ち始めた心臓に心の中で叱咤して、俺は会話を続けようとする。が、続かない。
元々俺は雄弁な方ではないのだ。
幼馴染の気安さ故か千秋と無言で一緒にいても俺は全く苦にならない。
俺達は公園のベンチに並んで腰を下ろした。スカートがシワにならないようお尻から膝までを抑えて座る女らしい仕草にドキリとした。俺は赤くなる表情を悟られまいと満開の桜に見入った。
会話という肴などなくても俺の隣にはこの景色にひけをとらない絶世の美少女がいる。
これ以上を望むのは罰あたりというものだ。
不意に千秋の指が俺の手を握った。
再び心臓が跳ねた。
冷たくて柔らかい指の感触が神経を通じて俺の脳に過剰なぐらい情報を送りつけてくる。
「ヒロトの手。大きいね。」
「そうか?他のヤツと比べたことがないから分からん。」
俺は冷静になろうと必死だ。
「うん、大きいよ。それにゴツゴツしてるし、あったかい。僕は結局男らしい筋肉がつかなかったから、うらやましかったんだよ。」
千秋が白魚のような指を絡ませてくる。
あったかいのはお前のせいだ!と喉から声が出かかったが、俺は無理やりそれを飲み込んだ。
心臓が酸素と血液の不足を訴えている。
心臓がエネルギーを消費し、熱量を際限なく上昇させている。
俺の理性は酷使に耐えかねて、
心臓の冷却を完全に放棄した。
俺の男としての友情が熱暴走でガリガリと削り取られていく。
「もう、戻ってこないものにクヨクヨしてても仕方ないだろ?
今あるものを受け入れて前に進むしか俺達にはできないんだからさ。
千秋はそれができてきてるじゃないか。」
「そうだね。前に言ってくれた通り少しはがんばってるつもりだよ。
ん……ヒロトあったかい……」
千秋が俺に肩を寄せて頭をもたれかけてきた。
彼女の軽い体重が俺に預けられる。脳が痺れるような甘い香りが俺の鼻腔をくすぐった。
上質な絹糸のような髪が俺の肩を伝ってジャージごしでもその感覚を伝えてくる。
千秋の肩を抱き寄せてその肢体の感触を堪能したいと腕が動きそうになる。
「すぅ……」
いつの間にか千秋は寝息をたてていた。
理性はとっくのとうに限界だったが、千秋が俺のことを信頼して体を預けてくれているという事実が俺の頭蓋に瀑布のごとく冷や水を浴びせかけた。
バカたれが!俺は千秋に何をしようとしていたんだ!親友なんだぞ!
俺の中の何かが手遅れにならない内に家まで運んでやろう。
そう決心した俺は千秋を背中におぶった。
大きすぎず小さすぎることもない絶妙な2つの双丘の感触が俺の背中にあたった。
それらは俺の背中の曲線に沿って縦横に形を変え、天上の刺激を与えてくる。
6ケタ7ケタする高級布団でもこれだけの快楽を味わうことは決してできないだろう。
しかし、一歩歩くごとに揺れる双丘は俺の理性に対して地獄の責め苦に等しいものを与え続けた。
俺は沸騰しそうになる精神を機械生命体にして千秋の家まで必死で歩いた。
「ヒロト…いつもありがとう…むにゃ…」
千秋の寝言にはっと現実に引き戻された。
……それはこっちのセリフだよ。お前のひたむきな姿に勇気をもらっているのは俺も同じだ。
俺は玄関の前で待ち構えていた千秋の両親に背中の彼女を預け帰路についた。




