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更紗木蓮 <狂咲の章>

作者: 新界徹志

釈信寺しゃくしんじに鬼がいると下の村々では専らの噂になっておった。釈信寺は久しく無住の寺となっている。この寺はしばしばあるじを失うという不幸に見舞われる。人里離れた山の奥深くに建てた寺に好んで棲まう者など、如何に敬虔な僧であれなかなかあるまい。それでも檀家はふもとの村に十数軒あり、総代を中心に年に数度、一里の道のりを険しい坂を登り集まってくる。寺にはここを開いた高名な僧が彫ったとされる仏像があり、村人達はそれを有難く後生大事にし、それを奉るために難行もいとわず、山を上がってくるのだ。

しかし、いつしか、それも途絶えて久しい。

さきの住職がよわい九十という大往生を遂げてから、暫くは、総代の呼び声で村人達は寺を護ってきた。交代で仏像の汚れを落としたり、境内を掃除したりしておったが、境内の奥から時折、奇っ怪な声を聞くようになり、恐ろしくなって寄りつかなかったのである。檀家の中には、その奇っ怪な声の主を見た者もあると言うが、顔の左半分は焼けただれたようになり、目は潰れ、口元は裂けてダラリと下がっていると言う。七尺もあるという巨体をゆらゆら動かしながら歩く姿はまるで獣か鬼のようだと言い、誰が言い出したのか、幻妖丸げんようまると名付けられるようになった。


幻妖丸は生まれて間もない頃、寺に預けられた。預けられたと言っても、山門の脇に麻布にくるんで捨ててあったのだ。それを見つけた住職の一斎いっさいは不憫に思い、寺で面倒を見ることにした。奇っ怪な容貌も一斎には少しも気にならなかった。

それより、子を捨てた親の不浄ふじょうを忌々しく思った。住職は我が子を捨てる親の卑しさよりも、その心を招いた人の世の不条理をはかなんだ。

住職はその子に音丸と名付け、寺僧じそうとしての修行をつませることとした。だが、音丸は三つになっても言葉を覚えることがなく、ただ呻き声をあげるばかりだった。それでも一斎住職は音丸を側に置いて可愛がった。

音丸も住職になつき、住職が寝込んだ時など、三日三晩寝ずの看病をした。

だが、住職も人なれば、やがて老い、身体も思うに任せぬようになってくる。麓から訪れる檀家の世話でめしには不自由せなんだが、身動きが覚束なくなってくると、忽ち困ったのは糞尿の始末であった。かわやに行こうにも足腰が立たず、どうにもならない。

そんな時、音丸を呼び寄せ、雪隠せっちんを持ってくるようにと指図した。音丸は言葉は話すことはできない上に、十分に理解もできてないでいるが、いくつかの簡単な言葉なら理解することができた。住職は身振り手振りも交えながら、雪隠を持って来させ、それをまた野壺のつぼに捨てに行かせた。それが音丸の日課となり、音丸は一生懸命に努めた。

しかし、音丸は村人達には一向に懐くこともなく、誰かが寺を訪ねてきても、寄ろうともしなかった。音丸を見た村人達が皆、素っ頓狂に悲鳴を上げ、驚くのに、音丸の方こそ怯えてしまい、麓から人が上がってくるのを感じるや、境内の奥の納屋に姿を隠すのであった。

そのため、村人達も住職の他に誰か棲んでいる気配を感じながらも、音丸の姿を認めた者はなかった。住職も、人が来る度に、その悲鳴によって脅かされる音丸が気の毒でならず、誰かが訪ねてくると、そっと納屋に連れて行くようになっていた。

いよいよ住職が最期を迎えるとなった時、音丸はじっとその側に座り、住職が差し出す手を握ったまま一夜を過ごした。翌朝、住職は眠るように静かに息を引き取ったが、音丸はそれが分かっているのかどうか、住職に寄り添ったまま、口をもごもごさせていた。お経でも唱えているつもりなのかも知れないが、それは誰にも分からない。

暫く経って、檀家の者たちがやってきた。音丸はその足音を聞きつけるや、さっとその場を立ち去り、納屋へと隠れた。檀家の者は、住職の亡骸を見つけると、一人の者は村へ下り総代に知らせに行き、一人の者は寺の掃除をした。簡単ながら葬儀を取りすます準備をするためだった。

檀家の者が集まると、それぞれに持ち寄った供物くもつを供え、葬儀を行った。五里離れた村の寺から僧侶を呼び寄せることも考えたが、果たして来るかどうかも分からず、僧侶の居ぬまま、葬儀を納めた。経文をまともに読める者などおらず、ただ、「南無阿弥陀仏」と念仏するだけの葬儀であったが亡くなった住職を偲ぶ心に変わりはなかった。

音丸は納屋の中から、その様子をうかがっていた。窺いながら、音丸はその意味を理解できずに居たが、皆の様子から何某かの感情を写しとっているらしく、音丸の潰れた目からもツーッと涙が伝っていた。


一斎住職亡き後、檀家の者達は相談し、五里先の寺に住職を寄越してくれるよう頼みに行ったが、断られた。その寺でも跡継ぎに難渋していたほどなので、当然のことであった。ほかにも後を継ぐ住職を探し求めたが誰も引き受ける者は現れなかった。

檀家の者達は皆、困り果てたが、どうする術もなく、時をるにつれ、その望みも薄れ、交代で寺を護るようにと決めたのだった。

しかし、困ったのは檀家の者だけではなかった。

音丸はその日その日を暮らす術を失ってしまい、食べるものさえ忽ち不自由した。

檀家の者が供える米や野菜を祭壇から取っては、何の手も入れず、生のまま口に入れて、しのぎを削っていたが、供物も次第に減ってくると、音丸はその辺りに生える草や、木の実を取って口にした。あるいは、麓に下りて、畑のものを取ることもあった。

その姿を見つけた村人達に石を投げつけられたり、くわすきで追い立てられたりするようになった。

だが、音丸に畑の作物を奪うつもりなど毛頭なかった。否、物を奪うという考えそのものが音丸には、野菜を作るということと同様に理解できなかった。しかし、村人にすれば、汗水流して拵えた作物を取っていく音丸が為すわざは盗人以外の何ものでもなく、自身でさえ食うに困っておるというのに、それは断じて許せぬのであった。

音丸はその面妖な顔つきと相俟って、村人から憎まれ嫌われるようになった。いつしか誰呼ぶともなく、音丸は幻妖丸と呼ばれ、村に近づこうものならまたぞろ、鍬や鋤を手にした男どもに追い立てられるような始末となった。


幻妖丸はその奇っ怪な面とは裏腹に、実に心根の優しい男であった。

僧坊そうぼうで育った故、鳥獣や魚介を口にする習慣は元よりなかったが、住職亡き後も、それを戒律のように守ったと言うより、優しさの故に、決して口にすることはなかった。たとえ、目の前で猪が木に頭をぶつけて倒れたとしても、土に埋めて葬ってやるだけで、それを食する考えなど毛頭浮かばなかったのだ。

音丸の奇っ怪な顔つきも、鳥獣にとっては少しも気にならぬ処か、その心遣いが鳥獣に伝わるらしく、いつも境内には沢山の鳥獣たちが寄ってきた。

音丸は住職の居なくなった寺で暮らすことも淋しくはなかった。口を聞けない不自由さも鳥獣立ちと過ごす中では少しも苦にはならなかった。草や木の実を集めてきては、それを鳥獣達と分け与えることもあった。

ひもじい暮らしではあったが、何故か、音丸の体格は骨組みからしっかりしていて、病なども寄せ付けぬほどであった。音丸は麓から寺への道に丸太を埋め、歩きやすいように階段状に設えていった。勿論、誰に教わってでもなく、音丸自身が身に付けた智恵による物だった。音丸は決して頭が弱いのではない。ただ、口が避け、喉の奥までただれているため、思うように音を発することができないだけなのである。その上、耳も不自由で人の言葉を正しく聞き分けることができないので、言葉を覚えるのに難儀するのだ。

だが、頭の中では物事を見分けんぶんし理解することができるので、考えを巡らせ、その通りに身体を使って何事かを為す術は得ているのだ。

寺へ登る道が段々に設えられた時、檀家の者は喜んだが、誰の手によって為されたのか不思議に思った。まさか幻妖丸がそのようなことを為すなどとは思いも寄らなかったのだ。


ある年の初夏、嵐がその辺り一帯を襲った。

三日三晩、大雨が降りしきり、川の水嵩が上がり、今にも溢れ出しそうになった。麓の村では堤が切れることを怖れ、一所に集まり相談をしたが、為す術はなかった。村はこれまでも度々、嵐に見舞われ、折角の作物を台無しにされることがあった。難を逃れた田畑で収穫した作物で辛うじて年貢を納め、その年にまかなう食い分くらいは確保できても、蓄えなどすることは到底できなかった。ある年など、自分たちの食い分まで賄えず貧苦にあえいだこともあった。それだけに村人の不安や怖れは一入ひとしおでないのも当然なのである。

その年の嵐はしかし、それまでのような程度ではなかった。洪水が起こる度に高く高く積み上げてきた堤も一気に崩れるのではと思われるほど凄まじい勢いで雨が降り続き、限界に近づいていた。

村人達が不安な思いで過ごす中、堤の側を何度も行き来する影があった。人影にも見えるし、熊のようにも見える。大層な巨漢であるだけは確かである。その影はどうやら、付近の地面から大きな石を掘り起こし、堤に積み上げているようであった。

大粒の雨が殴りつけるように降りしきる中、その巨漢は何度も石を掘り起こしては堤に積み上げた。誰の助けも得ず、只管、作業に勤しむ姿は村人の胸を打ったが、誰も手伝おうとする者はなかった。しかし、誰もそれを責めることはできないだろう。そんなことをすれば忽ち命を落とすのは目に見えているからだ。そこで、命を落とすくらいなら、今年の収穫は諦める方が良い。そう考えるのが尋常というものなのである。

巨漢は休もうともせず、堤に石を積み上げ、さらに積み上げしていった。夜中よるじゅう降り続いた雨も明け方にはようやく収まり、巨漢のお陰でどうにか川の氾濫も抑えることができた。村人は田畑が荒れずに済んだことを喜んだ。

村人は村を救った巨漢に感謝した。

立派に積み上がった堤に近づいてみると、その上に横たわる巨漢の姿があった。疲れ切って休んでいるのだろう、人々はそう考えた。俯せになった巨漢の側に寄ってみて、村人達は驚いた。それは幻妖丸であった。

村人達が忌み嫌い、邪険にしたあの幻妖丸の姿に相違なかった。村人の一人が、幻妖丸を起こそうと、身体に触れた。その身体は既に冷たくなり、息は絶えていた。

幻妖丸の周りには木蓮の花がまるで、その亡骸を弔うように一面に敷き詰められていた。


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