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よるのはじまり

作者: 紅天狗茸

 彼女の双眸が開き、瞳孔に光の粒子が流れ込む。無作為につなぎ合わせたフィルムを高速再生するようにイメージが彼女に流れ込む。南洋の珊瑚の岩棚。花の蜜を吸うハミングバード。さらに速く速く。発芽し、ぬるぬると成長するゼンマイ。暁から黄昏、プトレマイオス、コペルニクス。遺伝子のらせん構造。量子もつれを起こす二つのクオーク。マクスウェルの悪魔の笑い声が響くと全ての出鱈目がたちまちホワイトアウトする。


 ーーバックボーンネットワークログイン完了。エリア、ジェイ・ピー。


 彼女はそこに立っていた。黒髪の一本一本、神秘的なやや切れ長の目、そして七部丈のコルネットスリーブからのぞく華奢な腕。その腕はおそらく何かを愛でることしかできないであろうと想像させた。

 直感と不安と脱げかかったあどけなさ。それがフタミ・イサリ。

 朝靄。広大な麦畑を背負った巨大クマムシたちはじれったくなるような速度で行き交う。畑の麦たちは一様に頭を垂れ、滑らかな曲線を描いていた。

 ーーグーン……。

 径の大きなタムを素手で打ち鳴らしたような音。それが遠くから一度。おそらく巨大クマムシ同士が衝突したに違いない。彼女は満腔一杯に空気を吸い込む。生まれて初めて息を吸うように。あちらこちらでクククと小さな音。細いパイプをごく少量の液体が通過する音に似ている。その音の犯人は微小のピクセル。それが舞い上がっているのだ。このピクセルが次の瞬間にどこから立ち上るのか果たして予想出来る者が居るだろうか。それら全てに息吹が感じられ、一片の虚構も感じさせない。

 少年は待ちくたびれたように伸びをすると、手脚を解すように体を動かす。小さくトントンと飛び跳ね、切れの良い動きでイサリを見見上げた。イサリは申し訳なさげに肩を竦めた。

「昨夜遅くまで宿題やっていたら起きれなかったよ! ごめんね、ホマレ。待っていてくれたんだね」

 ホマレは両の手をパンと叩き、左拳を握って頷いて見せる。続いて白い歯を覗かせて、イサリを手招いた。

 イサリは身軽に岩と岩を飛び移り、ホマレの差し出された腕に受け止められた。イサリは地表へと降り立つと思いきや、ホマレは彼女を背負って駆け出した。イサリは半纏姿の背中で、手脚をばたつかせて頭を軽く左右に振った。

「どうしたの? どうしてそんなに急いでいるの? ホマレ、私も走れるから大丈夫だよ、下ろして! 小さな子供みたいで恥ずかしいよ!」

 イサリは、すきっ歯を覗かせホマレに向かってそう叫ぶと、ホマレはこう答えた。

「どうしたもこうしたも、あれが半端じゃない速さで逃げているんだ。サリの足では追い付けないからこうしている。それに……」

 ーーヒュッ、トトトト

 風を切る音。彼らの目の前の地表に小ぶりな四本の矢。三枚羽。甲矢が三本。乙矢が一本。

 ホマレがそう言い淀んだ矢先の事だった。

 背高泡立草の影に身を潜めるようにホマレは立ち止まった。イサリはホマレの肩を叩くと、周囲で一際大きな岩を指差した。二人はシンクロするように小さく頷く。

 風に揺れる草花。地鳴りのような振動。東からクマムシが近付いてきたようだ。地平線から顔を覗かせ始めた太陽が力を振り絞るように光を放っている。辺りは橙色に染まっていた。

 黄色い花房が大きく揺れた。地に刻まれた長い影。

 少年は地を蹴って直線を描くように前進した。

 降り注ぐような、無数の矢。ホマレはイサリに覆い被さり、唾液を飲み込むように喉を動かした。

 仰け反るように動く、ホマレの身体。一本、二本と矢は次々に彼を貫いた。

 沈黙が辺りを包み込んだ。力無く横たわるホマレたちの周りには、身を低くして弓を番えた小人たち。その数は優に百を超えていた。慎重に円を描くようにじわじわと小人たちは侵入者へと近づいてゆく。

 周囲には甘い香り。

 小人たちの間に俄かに動揺が走った。鼻や口を覆うような仕草を見せる者や、その場を離れようとする者。ばさりばさりと次々に倒れ始めた。

 岩場から二つの影。小人たちの中心には数え切れない矢が突き刺さった土人形の亡骸。

「あれを守る為にこんな奴らまで。にしても、サリのセレマも怖いもんだ……」

 そう言ってホマレは、おどけたような素振りを見せた。イサリは拗ねたように口を尖がらせ、眉根を上げた。

「私はホマレの方が化け物だと思うけれどね。……欠けたページの為に番人か。ホマレ、匂いはまだ近く?」

 黒目がちな瞳はイサリを捉えると、顎をしゃくって見せた。


 ホマレとイサリは、揃って怪訝な表情で首を傾げた。どんなに近付こうとしても、一向に近付ける手応えが無かったからだ。前と思えば、後ろに。下と思えば上に。狐に摘まれるとはまさにこの事だった。ようやく十代を迎えたばかりの二人には荷が重い試みなのかも知れない。

 それはイサリが目的に近付こうとすればする程、観察者に干渉されるように障壁が立ち塞がることに似ていた。

「サリ、そのグリモワールのページを全て集めるとどうなるんだ? それで本当にお前の母さんを見つけられるのか?」

 イサリは答えに窮したように押し黙ると、俯向くように流れてゆく風景に目線を泳がせた。手にした書物を抱き締めるようにして。

 ホマレの俊足でも追い付けないことを悟った二人は、イサリのセレマで座標転移を繰り返している。そのようなことを長時間繰り返していては、何れイサリの力も尽きてしまうだろう。ホマレは案ずるような視線をイサリの背中に向け始めていた。


 イサリは冥界の門番の言葉が過っていた。そして人の心を試すように、嫌らしくほくそ笑む表情がイサリに向けられた事を。

 ーーお前の母はここにまだ来ていない。こんな場所まで無駄足だったな。噂によるとダンタリオンの書架にならば、あらゆる情報が記されていると聞くが。セレマイトの小娘、このグリモワールをお前にやろう。欠けたページを集めた時、書架の扉は開かれる。……さあ、私の気が変わらぬうちにそれを持って帰るが良い


 不意にイサリの背中はホマレにぐいと押された。

 ホマレは後方へと大きく跳躍を見せる。よろよろとイサリの手を付いた先には、震える小人が一人。小人は命乞いをするような視線をイサリに向けている。

「あの、僕は何も悪いことしていないですから。どうか、食べないでくれませんか。お願いします。あっ!」

 ホマレは小さな体を素早く摘み上げると、しげしげと品定めするように小人を眺めた。弓を番えていた小人とは容貌が異なり、人間に近いが随分となりが小さい。やや耳が大きなところが特徴だ。

 ホマレは掌の上の物の怪に頻りに鼻をひくつかせ、座り込んでいるイサリを見遣った。

「こいつ、俺から一定の距離を保つセレマを使ってやがったな。イサリ、こいつから、その本の匂いがするんだ」

 イサリはホマレの言葉に反応し、小首を傾げた。そして、小人に向かって手にした古びた書物を見せ、声を掛けた。

「私は、フタミ・イサリ、そっちが私の友達のアテルイ・ホマレ。私たちはこのグリモワールの欠けたページを探しているの。あなたはページを持っているんだよね? ホマレは、この本と同じ匂いを嗅ぎ分けることが出来るから間違いないと思ってる」

 小人はペルと名乗った。そして、たじろぐような素振りを垣間見せ、やがて大粒の汗を額から垂らし始めた。蛇に睨まれた蛙のように動きを止めていたが、抑えるに抑え切れないのか目を白黒させて呼吸を乱している。

 イサリとホマレは顔を見合わせた。

 ホマレはにんまりと笑みを浮かべる。彼の指先はペルの背中を撫で回すように動き始めた。

 ペルは身を捩らせて、ホマレの指を払いのけようとする。次第に顔を紅潮させ唇をわなわなと震わせた。ペルは一分もしないうちにカラカラと笑い出した。

「ひい! くすぐったいです! ああ、やめて下さい! やめて下さい、ホマレさん! 僕の知っている事は全て話しますから! 洗いざらい喋ります、誓います! 自由になるために僕は何でもします!」


 クマムシの背に広がる広大な畑。小麦たちはしなやかに揺れていた。

 一行は、黒い獣の寝姿を物陰から盗み見していた。ペルによると、その獣に囚われていたが命からがら逃げて来たという。ペルの身体から臭うのは囚われている際の移り香ではないかと。獣はグリモワールの失われたページの化身であり、打ち倒さなければ得ることが出来ないらしい。

 放り投げられたペルはイサリが巧みに受け取った。ホマレの首に掛けられたペンダントが揺れる。

 ホマレは堪え性が無い。イサリが引き止める間もなく、獣の前へと飛び出していった。

 獣は跳び上がり、巧みに空で身体を捻った。着地するや否や、低い唸り声を上げて、ホマレを威嚇している。

 ホマレの両手には紐の両端に球がぶら下がった得物。二拍三連のリズムをホマレは手元で刻み始めた。

 紐は自在に伸び縮みし、獣の頭部や胴を掠めてゆく。まるで投擲武器のように。

 空を踊る残像。次第にホマレの武器は緑の光を帯び始めた。

 ホマレに向かって襲い掛かる獣。後脚を突っ張らせ、ホマレに覆い被さるように伸び上がった。

 このまま前脚で捕らえられたら、鋭い牙の餌食になるのを待つばかりだ。

 咄嗟にホマレは右脚を蹴り上げる。獣の前脚は辛くも払い除けられた。

 グルルと牙を剥き出しに、ホマレの前をゆっくりと横切る獣。その瞳は爛々と輝いていた。引き締まった体躯は、それだけで威力を誇示し続けている。

 俄かに鼻に纏わり付くような、甘い香りが漂い始めた。

 しかし獣は何事も無かったようにホマレと格闘を続けている。

 イサリはぐっと歯嚙みするような表情を見せた。

 それに加え、ホマレの攻撃は何度も獣を貫いている筈だが、効いている様子も見られない。

 総毛立つような様子で、骨の芯から震えが止まらない。そう言わんばかりのペルは囁いた。

「……もう良いでしょう? 僕は、その本のことはどうでも良いのです。だから」イサリは逃げ腰のペルの口を塞ぎ、イサリが後の句を継いだ。

「僕は逃げる、と言うのかな?」そして、獣の弱点を知らないかとイサリは尋ねた。知らないならば、どうやって逃げ仰たのか説明をして欲しいと。イサリはペルを指の腹で撫でた。ペルを落ち着かせるように。

 小さな口からすうっと息が吐き出された。ペルは顎を撫で回すような仕草をイサリに見せると、視線をぐるりと回した。

「僕が逃げ出した時は、獣の耳の近くで大声を上げて、片目を突き上げました。怯んだ隙に畑の近くの用水路に飛び込んだんです。……参考になるかどうか分かりませんが」

 上目遣いのペルはそう言い終えると、ぶるっと身震いを見せた。その瞬間を生々しく思い起こした所為だろうか。

「……ひょっとすると水が苦手なのかも知れないね。そうじゃなかったらペルは逃げ切れなかった。そう私は思うよ」

 イサリはそう告げると、座標転移した。そしてホマレの背中へ何かを描くように指先で触れた。

 ホマレの顔や首筋に藍色のラインが浮かび上がり、やがて手の甲まで広がってゆく。イサリのセレマとホマレの血液が混じり合い、ホマレの体内を駆け巡っているようだった。

 精悍。少年をそのように形容しても差し支えないだろう。

 それは曲線を主体に構成された呪術的紋様を形作った。少年の瞳はうっすらと青味を帯びる。

 少年の身体は発達途上であるが、そこから繰り出される動きは黒い獣をも上回った俊敏さを見せた。ペルは思わず唇を舐めた。

 ホマレの打撃が獣へ触れる度に、水しぶきが飛び散ってゆく。ホマレの頸動脈を噛み切ろうと躍起になる、尖った牙。次第に獣の動きは精彩を失われてゆく。

 イサリは汗ばんだ胸元にペルを仕舞い込み、手で空を切り始めた。

 牙を覗かせて喉の奥から咆哮を上げる獣。彼の四肢には蔦。イサリの仕業だろう。

 獣は完全に動きを封じられた。

 すかさずホマレの踵が獣の頚椎に向かって振り下ろされる。

 黒い霞のように獣は風に散っていった。

 ホマレは湿ったヴェラムらしき物を拾い上げると、誇らし気にイサリに向かって、それを掲げた。

 それと同時にイサリは立ち眩みを起こしたかのように膝を突く。短時間にセレマを連発するにはまだまだ未熟。彼女の身体は正直に物語っていた。


 ホマレは屋敷の通用門をそっと開けた。彼は忍び足で中庭へと通り抜ける。

 そこには楡の木。澄み渡った空。太陽は南中を迎えようとしている。

 ホマレは、ぶるりと肩を震わせた。彼が振り返ると真白いエプロンに黒いワンピース姿の女性。

「ホマレ、言ったでしょう。もう、こっそりと忍び込まなくても良いんですよ。堂々と正面玄関から入って来なさい。お嬢さんのお友達としてね」

 顔にこびり付いた微笑みは崩れないまま、ホマレを手招きした。


 ぷんと漂う古い書物の香り。

 イサリはベッドに横たわっていた。ぽってりとした唇の隙間から、すうすうと寝息が漏れている。

 彼女はしばしば度を越してしまう事があった。仮想空間と言えど、過度な負荷は命取りになることすらある。

 日頃からイサリに「無茶をするな」とホマレは釘を刺されていたが、ホマレから見ればイサリの方が無茶をしているように感じられた。既に鬼籍の人と諦めていた肉親が、実は何処かで生きているかも知れない。それを確かめるためとはいえ。

 いっそ諦めてしまった方が、彼女は前向きに生きられるだろう。そのようなことをホマレは口が裂けても言えなかった。

 壁から、ぬっと顔を出す三匹のランセット。輪郭がはっきりしない、生命体か、単なるノイズなのかすらはっきりしない存在。見える者には見えるが、触れることすら普通は出来ないもの。

 ホマレは腕を伸ばして、それの身体をひと撫でした。シュッと身体を縮めるランセット。

「ホマレさんは、イサリさんとは、仲が良いのですか?」

 ホマレは素早くその声の主を確かめると、ヘッドボードに腰掛けているペル。ホマレはもう一度目を凝らすようにペルを見た。それは拡張現実に表示された映像とは異なるように見える。

「お前、いつの間に。……サリと初めて会ってから、もう一年は過ぎているな。仲が良いとか悪いとか考えた事はないけど。それがどうしたって言うんだ?」

 ペルは物思いに耽るように天井を見上げ、小さな瞳をくいっとホマレに向けた。

「ずっと一緒に居たい。そうは思いませんか?」

 その問いに、ホマレは居心地悪そうに、頬を掻くような仕草を見せた。ホマレはこれ迄の事を思い起こしていた。暇さえあればイサリに会っていた事を。彼女の母親探しを手伝うという名目で。イサリに会う理由なんて、彼自身、本当はどうでも良かったのかも知れない。

「……いや、なんだそれ。藪から棒だな。そんな風に考えたことは無いな」

「でも、イサリさんと一緒に居たら楽しい。そう思っているのでは?」ペルは、にんまりと大きく口を開いて笑ってみせる。

 イサリの小さな寝息。ホマレは、彼女の寝顔をそれとなく眺めていた。

「僕らの故郷では、まじないのペアリングを互いに左手の薬指に付ける事で一生添い遂げることが出来る。そういう言い伝えがあるんです。……これはお二方への僕からのお礼です。もう僕はあの黒い獣に怯えて過ごさなくて良いのですから」

 ホマレの掌にはペアリング。ペルは意味深な笑みを浮かべると、イサリを見遣って姿を消した。

 呆気に取られたような面持ちで、ホマレはベッドサイドに腰掛けていた。

 ペルが去り際に付け加えた「ただし、二人が契りの指輪を嵌めたら、もう外せない」という言葉。それをホマレは思い起こしたのか、自らの左手薬指に嵌めることを躊躇っていた。

 ーー本当は、イサリは俺を友達だなんて思っていないのかも知れない

 ホマレはどこかでそう考えていた。何故なら、たまたま食べ物欲しさに忍び込んだお屋敷がイサリの住処だったのだから。ここに通して貰えているのは、寛大な使用人の計らいなのだと。


 ティーポットへ沸騰した熱い湯を注ぐ。大粒の泡がぶくぶくと浮かび上がってくる程度の温度だ。

 ティーカップはお湯を注いで、予め温めたものを用意する。ポットで蒸らす時間は茶葉によって異なる。大体、二分半から三分強といったところだ。しっかりと茶葉が開いた頃合いを見計らって、カップへと注ぐべし。

 彼女はそう教わった。彼女は誰にそう教わったのだろうか。

 彼女の母親だろうか、或いは彼女の友人だろうか。リビングルームで彼女はそれを思い出そうとしたが、断念した。

 そして彼女は思わず舌打ちした。

 何故なら業務連絡が彼女のオーグメント・リアリティに飛び込んできたからだ。

「タクさん、間が悪いなあ。せめて一杯飲み干してからにして欲しかったな」

 そう呟きつつも、彼女は雑誌を流し読みするように字面を撫でてゆく。届いたことを知ってしまった以上、見ざるを得ない。

 第三メガフロート。音楽ホール。明々後日の夕方に迎えに行く。

 それだけで満腹感が彼女を襲った。とはいえ、仕事自体を彼女は嫌いではない。ただ、時には解放されたいというのは人情だ。久しぶりにカレンダー通りの三連休だったのだから。

 さて、彼女にとって、更に間が悪い事にオートマトンが作動したとアラートが上がっている。

 彼女は些かぬるくなってしまったカップの紅茶を喉へと注ぎ込んで、アラートを確認した。

 紅茶の中でも特にアールグレイは、熱いものに限る。それが彼女の拘りだったのだが。

「ああ、よりによって先代から引き継いだものじゃないの。確認しに行かなきゃ。ああ、もう!」

 他人から引き継いだオートマトンには遠隔命令が効かない事がしばしば起こり得る。彼女と先代のセレマは相性が悪く、先代のオートマトンを彼女は上手く制御出来ない。彼女は既に経験済みの事だった。

 彼女は口を真一文字に結ぶと、ソファへと身を投げ出すようにした。

 どさり。彼女の体重を受け止めたソファは小さな悲鳴を上げた。音も立てずに揺れている、ティーポットに残った紅茶。

 黒猫は昼下がりの安息を乱され、ソファからテーブルへとひょいと退避した。


 目を覚ましたイサリは、大きな鳥籠のような場所に閉じ込められていた。傍にはペルが心許なく佇んでいる。そこはバックボーンのどこかのようだが、位置すら特定出来ない。硬質の光を放つ鈍色の柱は等間隔に並び、隙間は然るべく開いている。しかし、その隙間にイサリが体を差し込む事も叶わなかった。イサリなら兎も角、ペルにすれば大き過ぎる隙間だったが、ペルですら押し返された。そして、彼はもんどり打つ。イサリは彼を掌に載せると、彼女の左肩へと彼を置いた。

「イタタタ。大丈夫ですよ。イサリさん。僕が保証します。ホマレさんなら此処を見つけ出してくれる筈ですから。それにあの指輪もあなたに嵌めてくれるに違いありません。あなたはホマレさんと離れたくないと望んでいるように、彼だってそう望んでいるんですから」

 イサリは夢だと思っていたが、ペルは本当にイサリの意識に入り込んでいたらしい。彼女は他愛もない夢だとばかりに、その小人に向かって洗いざらい心の内を語ってしまっていた。

 イサリはそれを思い出したように、赤面する。不覚を取ったと言わんばかりに。

「ご心配無く。誰しも、イサリさんのようなことは経験があるんですから。僕も故郷に大事な人が居るんですよ。でも内緒にしてくださいね。うふふふ。僕らは共犯者なんです」

 訳知り顔をぶら下げた小人はイサリにそう囁きかけた。イサリは苦虫を噛み潰したように、顔を顰めた。

 イサリは図らずもこの小人と秘密を共有してしまった事もそうだが、この鳥籠の中では座標転移も効かない事を思い知り、気落ちしていたのだ。他のセレマを試すほど、彼女は回復もしていない。手も足も出ないとは、まさにこの事だった。

「イサリさんはセレマイトですよね。セレマが使える。そしてこの途轍もなく大きな鳥籠も恐らく高度なセレマです。何らかの理由で僕とイサリさんはそのセレマに閉じ込められました。口惜しいことですけど」

 ペルはそう前置きを述べると、彼なりの分析結果を続けるようだった。イサリは冷えた床に座り込んで膝を抱いたまま、視線だけを左肩の方へと動かした。イサリは続きを催促するかのように、鼻から息を吐き出す。

「もう試したかも知れませんが、セレマを使った念話は出来ません。ならば、あなた方のナノ・ニューラル・ネットワークでしたっけ? それならどうでしょう。それも駄目ならホマレさんの事を強く思うんです」

「念話もカンファレンスも駄目。……ペル、強く思うって、念話とどう違うの?」

 イサリの問いに、ペルは通信経路が違うのだと答えた。イサリは小首を傾げる。

 念話はセレマ空間と呼べる空間を、カンファレンスはネットワークを経路とし、思いはそれらよりも原始的なものだと。ヒトや動植物が本来備えた、忘れ去られたコミュニケーション手段だとペルは補足した。続けてペルは、深い想いこそが忘れ去られた経路を伝送路として機能させることが出来る唯一の手段だと、説明した。

「ヒトは親しい間柄になると口付けするらしいですが、イサリさんは、ホマレさんと口付けした事がありますか? その時に湧き上がってくる気持ちの奥底を辿ってゆくと直ぐにみつけられるんです。僕は、そう予想しています。何せ僕はヒトではありませんからね。……あ、ああ、もしも、びっくりしたのならごめんなさい。でも、このままここに閉じ込められていたら、イサリさんの肉体は死んでしまう可能性があります。だから……」

 イサリは居ても立っても居られないと言わんばかりに立ち上がり、巨大な牢獄の中を歩き始めた。深い溜息と共に。

 あと三時間もすれば、日は落ちることだろう。その頃には、ホマレはいつものように帰ってしまうに違いない。イサリはそう思った。彼女とペルの窮地など知る由も無いのだから。足元から体温を奪い去られ、彼女の心が凍てついてしまうのは時間の問題だった。


 イサリはずるずると足を引き摺るようにして歩いた。歩いても歩いても、何もそこには無かった。彼女は何かがある事を期待している訳でもなく、じっとしているとどうにかなってしまいそうだから、そうしていたに違いない。

 ふとイサリが視線を前に向けると、楡の木が一本。その木は、見慣れた中庭を彼女に思い起こさせた。


 彼女がホマレを見初めたのは、彼女の部屋の窓越しだった。

 中庭を見下ろした拍子に、彼と彼女の視線は交わった。

 彼女は、同じ年頃の男の子がそこに居る事に驚いて、カーテンをぴしゃりと閉じた。

 彼女は、自らの心臓が踊るように脈動している事に気付いていた。

 その日は、ただそれだけだった。


 初めて言葉を交わしたのは、その三日後だった。

 手毬が窓から飛び込んできた。

 彼女はそれに気を取られていた。

 気が付くと、楡の枝から窓枠にひょいと飛び移り、仁王立ちするホマレ。

 この世を統べる王のように偉そうな振る舞い。

 イサリは、クラスメイトとはまるで勝手が違う彼に戸惑った。

 その時何を話したのか、舞い上がったイサリは覚えていない。

 ただ、彼はイサリを「サリ」と呼んだ事を彼女は記憶している。

 それは彼女の母が彼女を呼ぶ時と、同じ呼び方だった。


 初めて手を繋いだのは、その翌日だった。

 いや、抱き上げられたと表現した方が正確なのかも知れない。

 ふと彼女が何かに躓いた拍子のことだ。

 ホマレらしい俊敏な動きを彼女に見せ、彼女は彼の両手で抱えられていた。

 彼女は、つい手荒に彼の頬を引っ叩いた。

 彼に負けたような気がして、彼女は悔しかったのだ。

 ホマレは怒るでもなく、鳩が豆鉄砲を食らったかのように目を丸くしていた。


 そうして、うらなりのようだった彼女は日に日に生気を取り戻していった。

 しかし、彼女は恐れを抱いていた。

 もしもグリモワールの欠けたページが集まってしまったらと。

 彼女の母親の消息が判明して、目的を達成してしまったらと。

 ペルの一件で手に入れたページを含めると、残り一枚。もう先が見えている。

 これが終わってしまったら……。


 やにわに牢獄の天蓋は大きな衝突音を放った。

 二度、三度と空気を伝わる振動は、イサリとペルの身体を震わせる。

 ペルは口角泡を飛ばすように何かを叫んでいる。

 イサリにはペルが何を言っているのかまるで聞こえていないかのように、彼女は一点を見据えていた。

 イサリは見た。

 弾け飛ぶ天蓋を。その向こうから聞こえる叫び声の主を。

 イサリは独りでに空中へと座標転移をしていた。目の前には彼女が待ち焦がれた存在。

「ホマレ!」

「サリ!」

 イサリは精一杯その手を伸ばし、ホマレの手を掴もうとする。二人の手は届きそうで届かない。

 ホマレは更に肩を前へと遣る。指先が触れ合った。ホマレの左手にキラキラと光るものが見えることにイサリは気付いた。

 イサリは指先でホマレの指を引っ掻くように曲げた。それにホマレの手が絡み付くように包む。

 汗ばんだ手と手。この機を逃すまいとお互いが示し合わせたように強く握り合った。

 お互いがお互いを手繰り寄せ、ペルはホマレの肩へと飛び移った。

 ペルは何かを耳打ちすると、ホマレは真剣な面持ちで、こくりと頷く。ホマレは懐を弄り、イサリの左手首を支えるように握った。

「ずっと! ずっと一緒に居て欲しいんだ! サリ!」

 途端に瞼へ熱いものを湛え始めたイサリは、一度、二度と大きく頷いて応えた。

 目尻から千切れては浮かび上がり、また千切れては浮かぶ透明なきらめき。


 彼女の左手にリングが輝いた時、拙い触れ合いの全てが終わりを迎えた。

 ーーゴーン、ゴーン、ゴーン

 どこからか二人を祝福するかのように鐘の音が轟いた。続いて、嘲るような笑い声が響き渡った。


 自由落下運動は、重力を忘れてしまったかのように死を迎えた。

 そこは仮想現実なのか現実なのか判別が付かない。

 辺り一面、激しい熱気を帯びた旋風に包まれた。続いて、暗闇の渦がホマレとイサリに迫り来る。うねりに逆らうように二人は固く抱き合っていたが、いよいよそれも続かなくなったのだろうか。イサリがそれまで見た事もない表情を、ホマレは一瞬だけ露わにした。その憂いを宿した眼差しは、イサリの心を締め付けたに違いない。そしてホマレは、切なげな笑みを浮かべた。

「ごめん、俺、さっきあんな事言ったばかりなのに。泣かないでくれ。それから、絶対に無理はするなよ。俺はいつもお前の事、心配だったんだ……」

 かつてない程に優しい声がイサリの耳に残された。ホマレの指先がイサリの目元を拭うように動いた刹那、二人の身体は離れてゆく。

 磔のホマレ。彼の身体は空間の一点へと吸い寄せられていた。

 ホマレはありったけの力を込めて、彼の首にぶら下がるペンダントを引き千切り、イサリに向かって放り投げた。

 放物線を描いて、イサリの視界から無情にもそれは消えてゆく。

 その光景は、彼女にこれから起きてしまう事を悟らせた。

 ペルの高笑いが響き渡ると、ホマレに向かい合うように小さな体が暗闇に浮かび上がる。

 イサリには、ホマレの背後に、はっきりと見えた。一対のフクロウのような丸い瞳が。それはイサリをあざ笑うように細められた。

「チギリの指輪。お前たちが付けたのはそう呼ばれるものだ。血液の血、切断の切ると書いて、血切りの指輪。俺は目出度く、この小僧の魂をその身体から抜き出すことに成功したのさ。その身体は、俺が依り代として頂いてやるよ。見込みがありそうだからな」

「止めろ! 止めてくれ!」


 イサリが思い出せるのはそこまでだった。そこから先、どのようにして元の世界へと舞い戻ったのか全く記憶していない。

 抜け殻のようになったイサリの傍には、見慣れない仔猫のような生き物。まるでホマレの代わりだと言わんばかりにイサリの部屋に居座っている。口を開けばまるで保護者のように小言を漏らす厄介者だ。

「イサリ、セレマもろくに操れない今の君では、あまりにもリスクが高い。分かっているだろう? まさかセレマが駄目ならイメージ・マニピュレーションを会得しようなんて馬鹿げた真似しようとしているんじゃないよね」

 イサリは否定出来なかった。言葉の通り、彼女はかつてのようにセレマを巧みに制御出来ないからだ。セレマを発動する前に、何かに相殺されるように力が弾け飛んでしまうのだ。

 彼女は手近なフォトフレームを手に取ると、使い魔に向かって力任せに投げ付けた。

 壁から鈍い音。

 フォトフレームは床へ落ち、かたりと音を放った。

 使い魔は、煙のように消えたかと思えば、再び元の姿に戻る。毛むくじゃらの片耳をひらひらと動かす、澄まし顔。

「魔術師に種明かしさせるような野暮な真似は止めておくれよ。それ相応の準備が、君には必要だろう? 僕はそう言いたいんだ。僕の仕事は君を守ることなんだから」

 そう言い終えた使い魔は、身軽にラックから床へ。そして、口に咥えたものをそっと置いた。

 イサリはそれを貪り見た。はっと息を飲むようにして。

 ホマレの首にぶら下がっていた、ソロモンの結び目のペンダントトップ。


 いつしかイサリの身長は伸び、すきっ歯は矯正された。大人びた表情を見せるようになった少女。

 ようやく彼女にも、セレマとは似て非なるものがどのような原理で成り立つのか、片鱗が見えたらしい。

 イサリはふと考えた。

 もしも冥界の番人に再び相見えることが叶うとするならば、どのようにイサリを嗤うのだろうかと。


 彼女の眠れない夜は、これから始まるのだ。

拙い文章を最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

作文程度の経験しかなかったため、勉強になりました。

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