重たい鞄
ある芝居に同じシーンが出てきた。
気まぐれな人生だと、ニヒリズムの匂いを運びつつ、とうとう「木枯らし一号」は東京の空を舞う。夕日が傾く。谷山をシャベルカーや雑工夫の手を酷使して作った迷路のような急斜面住宅地、蛇のように長い階段。この谷の番外地は行き止まりだらけで、さすがに車も嫌な顔をする。
夕日が人工迷路一帯をオレンジ色に染めた。夕日と迷路というのは良い付け合わせだ。漬物とご飯のようなもの。どこかしらしゃれている。今は営業マンとして働いている。重たい鞄を右肩に掛けながら、歪んでしまった骨格は学生時代を懐かしんだ。
スーパーマーケットで荷降ろしを終え、帰りのわたしはいつも白いシャツとベージュのチノパン、夏は首周りのたるんだTシャツにサンダル履き。
近くに高校があるから……という理由だけで作られた私鉄路線のひなびた駅舎。
体全身が寒気を覚える。県立名門伝統校の門がわたしを食う。誰にでも「嫌だな―」という刹那があるものだ。猪突猛進に行こうとすると、顔が真っ赤になる。吹奏楽部の耳に響く「ボーボー」
チューニングするトランペット。
夕日が真っ赤だ。輝かしい将来が待つ帰り際「学ラン」と顔を合わせないように、右手は宙をつかむ。真っ黒で輝いた目を見てしまうと、入れなくなる。
「わたしは普通科定時制三年、普段着で潜らせていただきます」
裕福な家庭もあれば、温たたかい一杯のご飯さえ口に出来ない家もある。わたしは国家から被害を被り、ある精神科へ強制入院(!)させられ、この情況に陥った。わたしは将来、彼らと同じ道を歩もうと思っていた。だがこの現状だ。
食堂横の壁、盛んに貼られた『早稲田大学理工学部〇〇名』『東大甲群?類〇名』何枚ものりがはがれ、風に揺さぶられていた。わたしは暗黒の殻を、どうしても破りたかった。
最終の四時限目、音楽の先生を待っている。隣にはいつも人気バンド・チェッカーズのような髪型に決め、青いジーンズとジャケット好きの姉がいる優男K。反対側には円満な家庭を持つ陶芸家息子H。彼は友人思いの学習障害児であった。わたしは門を潜る前、こいつらと一緒にされたくないとかんしゃくを起こしていたのだ。毎朝から始まる力仕事、あらゆる苦痛は?夜?への恨みと凝固されていた。
だが、彼らはわたしを仲間だと思って信じている。つぶらな瞳を見ていると両の目がうるんできた。今思えばKは更生したという過去を伏せていたのだろう。Kは「星がきれいだな」と言った。上げた顎に、髭は生えていなかった。わたしの代わりにHが「虫がいっぱい入ってくるよ」と釘を刺した。
「鞄が異常に重いな、会社もちゃんとした場所を廻らせろよ」
かすれた声だけが響く。時計は夜七時四十五分。契約が一件も取れていない。
だがわたしは満足だ。成績がなんだ。自分の部屋へたどり着けば、本が首を長くして待っている。
《読者のみなさん、ただの本ではないのです》
国家資格や語学、その他もろもろの受験参考書だ。やはり経済的事情などで一流大学の門を潜ることは出来なかった。
勉強が好きで、こつこつと成績が伸びて行くのが特に好きだ。傲慢かも知れないが、勉強がわたしに恋をしている。追い越して行くヘッドライトが糸を引くように光り、まぶしい。
この道を歩んで行くんだ。
《重い希望の鞄》
何歳になっても、それを肌身離さず、大切にして行こう。契約書が貯まれば、貯まるほど、わたし自身はもちろん、世の中へ幸福を与えられる気がする。
夕暮れにほのかに漂う校門。わたしにとって一生涯、消えることがない残像だった。