ネミディア人のスラム
しばらく更新に日数がかかってすいません。
まだ頑張ってます。まだ書いてます。
よろしくお願いします。
「ごめん、ケリー。俺のせいで結果的に騙して売春させることになっちまって……。これじゃ女衒だ……」
昼休み、スラムへ向かう途中の堤防を歩いていると、ロンが申し訳なさそうに謝った。
「一方的な善意の押し売りは悪意よりもタチが悪い、か……。フィアの言う通りだ。俺が出しゃばって余計な口利きをしたばっかりに、ケリーをより酷い目にあわせたみたいで、ごめん……」
「そんなこと……ない……よ。私は……感謝して……る。字も読めない、計算も出来ない、力仕事も出来ない私に……ロンは働けるところ……紹介してくれた……から……」
ケリーは両手をもじもじさせながら小さな声で答えた。
「でも、俺……」
「妹が、産まれたばかりで……今、大変な……時なの。すごく助かってる。きっと……ロンがいなかったら、私の家族、全員飢え死にしてた……と思う。あ、ありがとう……」
「いや、でも……」
「ねえねえ、ケリーの妹、産まれたばっかりって、赤ちゃんのこと?」
二人の後を歩いているフィアが眼を輝かせて訊いた。
「う……ん。一ヶ月前に産まれた……の。…………見た……い?」
フィアの眼は大きく開き、輝きを増した。
「うん。見たい!」
◆
スラムはカディス中に点在している。特に旧市街や娼婦街など、治安の悪い南東地区に多い。そしてカディス内のスラムの数は年々増加傾向にあった。
何故ならば……
カルタゴの景気や経済成長率が非常に著しい理由は、資源豊富な他国を強力な軍隊で属国や植民地にして、そこから過剰な資源搾取をし、重税をかけているからだ。が……反面、植民地は酷く不景気で、治安も悪い。カルタゴの支配政権から土地や家を強制徴収されたり、生活苦や強盗などから逃げてきた力の弱い者たちは難民となり、食べ物と職を求め、好景気のカルタゴへ、特に首都のカディスへどんどん流入していた。そういった難民たちが毎年、新たなスラムを形成しているのである。
六年前まで国名を“魔法国家ティル・ナ・ノーグ”としていた、現在のネミディアもそのひとつだった。
ネミディアの難民が集っているスラムは、カディスの南東地区をさらに南へ行ったポエニ川の河川敷にある。そこはもう河口近くで、海風が強い日には潮の香りさえ漂ってくる。
だが普段は、不衛生な環境の例に洩れず、強烈な悪臭を放っている。
スラムには所狭しとネミディア難民たちの住まいが建ち並んでいた。それらは家というよりも、小屋と呼ぶべきものだった。薄い板で壁と天井を設えた、大人の背丈ほどの粗末な小屋だ。他にも、柱を立てたその上に、継ぎ接ぎだらけの皮か布を覆せたテントのようなものもある。
フィアは鼻をつく異臭に加え、ボロボロの小屋の群を見た瞬間に、生理的嫌悪感を持った。昨夜の、与太者が集っていた酒場と同じくらい近付き難い。足が勝手に歩みを止めてしまう。
しかし、ロンとケリーは平気な顔でスラムに入っていく。
住人たちは小屋の中でタバコふかしていたり、焚き火で暖をとっていたり、ダイスで賭けをしていたりと、思い思いの時間を過ごしている。誰もが垢だらけの汚れた顔をしており、伸び放題の髪や髭は脂でべったりと固まっている。落ち窪んだ眼は、まどろんでいて塞ぎ勝ちだ。
けれども、フィアが目前を通り過ぎる一瞬だけ、住人たちの希望を失いくたびれ果てたその眼が見開くのだった。行き過ぎた後姿をまじまじと見つめる者さえいた。フィアは正に、掃き溜めに舞い降りた鶴として、スラムの住人たちの目を惹いていた。
少女はそんな彼らの視線を敏感に感じ取った。
「何か、私じろじろ見られてない? 怖いんだけど……」
フィアは怯えてロンに寄り添った。
するとロンの手が、獲物に襲い掛かる蛇のようにするりと、フィアの手を掴んできた。
「お、俺がいるから大丈夫だって。ハ、ハハハハハハ……」
「???」
ロンの手は汗ばんでいて、フィアは少し気持ち悪かった。
しかも背後からは、ケリーが手をもじもじさせながら、ロンと繋いでいる手をじっと睨んでいるようだ。
ケリー母子が住んでいる小屋は、フィアの背丈と同じくらいの高さしかなかった。
そんなみすぼらしい小屋に人が住んでいるというだけでも驚きなのに、ケリーの母親を見て、フィアはさらに驚いた。彼女の歳はおそらくローザとそう変わらないはずなのに、ずっと老けて見えたからだ。過酷な戦渦に続き、その後も長い難民暮らしの労苦によって、実年齢以上に老け込んでしまったのだろう。幾筋もの深いシワが刻まれた顔は、最早老女のようだった。
フィアたちが来たとき、彼女は小屋の前で焚き火に当たっていた。
ロンが、買ってきたリンゴを渡すと、彼女は何度も頭を下げて礼を言った。その姿はまるで物乞いのようだった。
「初めて見る子がいるけど?」
ケリーの母親はフィアに向かって微笑んだ。ロンが両者を紹介した。
「フィアっていうの、可愛い子ね。ネミディアからここまでは大変だったでしょう。これからケリーと仲良くしてね」
同じネミディア人で、身なりもよく、娘と年の近い少女に彼女はすぐ気を許したようだ。
「ロンもフィアもお昼ご飯まだでしょう。パンを焼くから食べていきなさい」
二人の返事も聞かぬうちに、彼女はフライパンを取り出して焚火にかざした。
しばらくして出来上がったものは、ライ麦粉と水を練り合わせた生地を、布のように薄く延ばして焼いたものだった。手に持ちやすいよう、扇状に折りたたんである。間には蜂蜜もソースもソーセージも、何も挟んでない。パンのみである。
ロンは受け取ると三口で完食した。
しかしフィアはパンを持ったまま途方にくれている。
「どうしたの? お腹でも痛い?」
ケリーの母親が心配そうに声をかけてきた。
「アルが、他人から食べ物やお金を貰っちゃいけないって言ってたから……」
フィアの台詞に、ケリーの母親はキョトンとした。ケリーも明らかに不審な眼でフィアを見ている。
「またか……」
ロンは嘆息した。
四人の間にはシラけた空気が流れている。
「ちょっとゴメン」
ロンはフィアの手を引いてその場から離れ、ケリー母子に声が届かないところまで来た。
「なあフィア、やっぱりそれ食べてくれないのか?」
「だって……」
「そりゃ決まりごとを守るのはいいことだよ、でも頑なになりすぎて場の空気が悪くなることだってあるんだ。ちょっと癪だけど、ローザの言う通り、少しは柔軟な対応をした方がいいと思うぞ。それに姐さんのシチューは食べたじゃないか」
「あれは……」
フィアは声を落とし、ばつが悪そうにぽそりと答えた。
「美味しそうだったし……」
「それは……まあ、言いたいことはわかる……けど……」
ケリーの母親が焼いているパンは見た目が貧相な上、お世辞にも美味しいと言えるものではなかった。質の悪いライ麦粉と生活汚水が垂れ流された川下の水を使って作ったパンなのだ。食感は粉の様にパサパサで、変な異臭さえする。きっとアルとの約束事がなくても、フィアはこれを食べるのに二の足を踏んでいただろう。
対してリーナのシチューは一流レストラン並みの絶品だった。パンも上質な小麦粉と活きた酵母を使い、さらにバターまで練りこんでいて、約束を遵守しようとする固い意志さえも瓦解させるほどの、芳しい香りが立ち上っていたのだ。
両者のパンを比べたら、ビンテージの貴腐ワインと水溜りの泥水くらいの差がある。
ケリーの母親から手渡しされてなかったら、フィアは生ゴミとして捨てていたかもしれない。
「フィア、白状すると、俺も本当はこのパン、あんまり好きじゃないんだ。けど……ケリーたちは、普段このパンすら食べられような生活を送っているんだ」
諭すようなロンの口調だった。
「おばさんたちは、そのパンよりもさらに酷いものを口にして、飢えを凌いでいることもあるし、何も食べられない日だってある。そもそもスラム(ここ)じゃ、こんな簡単に食べ物を他人に分け与えたりしないんだ。なのにパンをくれたってことは、おばさんが君を精一杯もてなしてくれてるってことだろ。ローザのように下心があって、はした金を握らせるのとは訳が違う。だからここは素直に、おばさんのもてなしを受けてくれよ。俺からも頼む」
「うーん……でも……アルに何て言われるか……」
ロンが頭を下げて頼んでも、フィアはまだ渋った。
「じゃあこうしたらどうだ。持って帰って、アニキに食べていいか訊くっていうのは?」
ロンの提案を聞くと、煩悶していたフィアがパッと相好を崩した。
「うん。それならいいよ」
「よし、きまりだ。よかったぁ……。じゃあ、この紙袋に入れて持っていきな」
ロンは、さっきリンゴを渡し終えて、空になっていた新聞紙の紙袋を上着のポケットから取り出した。
フィアとロンが紙袋の中へパンを入れていると、少し離れたところからケリーの母親が訝しそうにこちらを見ているのに気づいた。
「この子、今お腹いっぱいだから、家に持って帰って食べるって」
ロンが声を張り上げてそう説明すると、彼女は笑って頷いた。
「ふああっ、ふぎゃぁっ、ふぎゃあー」
出し抜けに、小屋の中から赤ん坊の泣き声がしだした。
「やれやれ、赤ちゃんにもお昼ご飯をやらないと」
ケリーの母親は小屋の中に入っていった。
「ねえねえケリー、赤ちゃんのお昼ご飯って何?」
「? 何を……言ってるの?」
フィアの質問に、ケリーは首を捻った。
◆
ケリーは小屋の入り口に垂れ下がっている布を上げて、フィアを中へ招き入れた。
もともと狭い小屋であるのに加え、隅にはやたらごたごたと無造作に物が置いてあるせいで、さらに狭く感じる。小屋の真ん中に、ようやく大人二人が横になれるくらいのスペースがあり、穴が幾つも空いたボロボロの絨毯が敷かれていた。
ケリーの母親はそこに座り、胸をはだけさせて、茶色い麻布にくるまれた赤ん坊に乳首を吸わせている。
「それが赤ちゃん?」
「そう、マリーっていうのよ」
「へー、これが。ちょっと触っていい?」
フィアの問いに、彼女は微笑みながら頷いた。
ケリーはフィアと共に、足が小屋から出ないよう、肩をすり合わせながら膝をついて座った。
フィアが授乳中のマリーの頭を軽く撫でる。そして興味深げに乳児の顔を覗き込んだ。
「ねえねえ、何でマリーはおば様の胸を吸ってるの? 胸に吸い付くと何かあるの?」
「……おっぱいよ。おっぱいを吸っているの」
戸惑いを浮かべながらもケリーの母親は優しく答えた。
「え? おっぱいってミルクのことでしょ。牛やヤギが出すアレよね。人間もおっぱいを出すの?」
「そ、そりゃあ、そうでしょ。赤ちゃんは歯が生えてないんだから。パンは食べられないもの。だから歯が生えるまで、赤ちゃんはお母さんのおっぱいで育つのよ」
「へー、人間もミルクを出せるんだ。知らなかった。それってすごいわね」
「そ、そうね」
ケリーの母親は苦笑した。
そして隣のケリーは、フィアの台詞に呆然としていた。この子、一体何を言っているんだろう……と。
しかしケリーの冷めた視線など気にした様子もなく、フィアは母親の乳房を吸うマリーを熱心に見つめている。
「あなたも、こうしてお母さんのおっぱいを飲んで育ててもらったのよ」
「そうなの?」
「そうよ。そうでなきゃ、絶対に今こうして生きているはずはないもの」
「……私のお母様……それからお父様も、私が物覚えつく前に戦争で亡くなったから……そういうの、全然知らなかった……」
「えっ……」
ケリーが弾かれたように、小さな声を上げた。
「そう……。それは辛かったわね。余計なこと言ってごめんなさいね」
「ううん、そんなことない。代わりにおじい様に育ててもらったし、おじい様が亡くなった後は、アルがいつも側にいてくれたから、全然寂しくも辛くもないよ」
「そう……」
「ねえねえおば様、ところでおっぱいってどんな味するの? 美味しいの?」
「さあ、それは赤ちゃんに訊いてみないとわからないねえ」
「そっか! ねえマリー、おっぱいっておいしいの? ねえねえ!」
「……」
「おば様、マリー無視してるよ」
「赤ちゃんだから、まだ喋れないのよ。これから言葉を覚えていくんだから」
「へ~、そうなんだ。言葉を知らないなら、本も読めないはず……。不便な生き物ね……」
眉根を寄せたフィアの横顔を、ケリーはじっと見つめた。
身なりや言葉遣いから、フィアは何不自由のないお金の持ちの家で、両親に可愛がられて育てられてきたのだと、ケリーは勝手に思い込んでいた。
でも実際は違っていた。親の顔も知らず、祖父に育てられ、そしてその唯一の肉親すらもういないなんて……。
ケリーは父を亡くし、極貧生活を送っていても、まだ母親と妹がいる。
対して、美人でいい服を着ているが、すでに肉親が一人もおらず、天涯孤独のフィア。きっと彼女は、自分とはまた別種の辛苦を味わってきたのだろう、とケリーは思った。
お互いに、戦争と植民地政策の被害者なのだと知った。すると、初めてフィアを身近な存在として感じることができた。
「あれ、寝ちゃった。可愛い~」
お腹がいっぱいになって寝付いたマリーを見て、フィアは微笑んだ。ケリーも少し笑った。
マリーを起こさないよう、ケリーはそっと小屋を出た。
だがそこにロンの姿はなかった。見回すと、少しはなれた場所で大人の男と話をしている。
「スコットさん……?」
「どうしたの?」
ケリーの後ろからフィアが出てきた。
しかしロンと談笑している男を見た途端、その美麗な顔から見る見る血の気が引いていくのがわかった。
男はグリーンの軍服に、後装実包式の歩兵銃を持っている。カルタゴ兵だ。
カルタゴ兵はロンと共に近付いてきた。
するとフィアがいきなり駆けだして、逃げようとした。が、足がもつれて躓き、側にあったケリー母子のフライパンや焚火を蹴飛ばしながら横転した。
「きゃっ……!」
ケリーが短い悲鳴を上げた。
「ごめんなさい」
フィアは謝りながら立ち上がると、再び走り出そうとする。
けれども、カルタゴ兵は既に目の前にいた。
「い、いや……助けてアル、アルぅっ、いやあああっ……」
フィアは狂乱して叫び声をあげた。
ストーリーが少し中だるみしていないか心配です。
次話は少し緊迫した展開を見せようかと思っています。