娼婦街のしきたり(上)
そこはたくさんの馬車と人が行き交う大きな通りだった。道幅は馬車が六つぐらい並んでも通れそうなくらい広い。そして通りの石畳には馬車の轍が刻まれている。
ロンはそこの歩道を、フィアの後に続いて歩いていた。
前を行くフィアは、人と馬車の多さに眼を見張り、きょろきょろと不審そうに辺りを見回している。おのぼりさん丸出しだった。
二人が今居るのは、カディスの中心を南北に貫く中央大通りだった。大きな祭典や軍事パレードなどが行われる、カディスで一番大きな通りだ。
フィアの行く先には大きな広場が見える。カディスの南広場だ。そこにはカディスにとっての表玄関口とされる南門がある。南門からは、カルタゴ国内全ての地方都市へ通じる街道が枝分かれしている。
ここにきてロンは、あることを確信していた。というか、フィアの様子を見ていて、さっきから薄々感づいていたことなのだが……。それは……彼女は道に迷っている、ということだ。
「なあ、何処に行く気なんだ?」
とりあえず訊ねてみた。しかしフィアは無視して歩き続ける。
むっとしてロンは再度訊ねた。
「何処行くんだよ、フィア」
「馴れ馴れしく呼ばないで、変態。あんたなんかに親から貰った大事な名前を呼ばれると、虫唾が走るのよ」
フィアは歩みを止めてロンを睨んだ。
「ひ、酷えな……。俺にはロナルドっていう名前があるんだ、変態じゃねえよ」
「変態、変態、変態、変態、変態、ド変態のドスケベ! いくら私が可愛いからって、いきなり寝込みを襲って、えええ……えっちなことしてくるのは外道で鬼畜で変態の証よ!」
赤ら顔でフィアは凄んだ。
「自分で自分のこと可愛いとか言うか? それに寝込みを襲おうなんてしてないよ。ただ君を起こしに行っただけなんだって」
「ふんっ、どーかしら。言っておくけどね、私に何かしていいのはアルだけなんだから」
「……え? それって、アニキに何かされたってこと? な、なななな、ナニをされたっていうんだ?」
「とーってもい~ことよ。でも変態には教えなーい」
「ええっ?」
ロンから見たアルの人物像とは、強くて度胸があって頭の回転も速く、クレバーで少し冷淡な部分もあるけれど、根は仲間想いの人情家、だった。何より過去に、みなし児だった自分を救ってくれた上、密輸組織とはいえ居場所と仲間をくれた恩人だ。憧れてやまない人だ。
そんな憧憬の的が、こんな子供にイタズラして楽しんでいるというのか……?
思春期のリビドーとモラトリアムが青少年を歪な妄想に駆り立て、混沌に陥れる。ロンは自分の中で何かが崩壊していくのを感じた。(後日談)
困惑するロンを尻目に、フィアは再び中央大通を南に向かって歩き出す。
「あ、あの~~~……アニキを捜してるんだったら、中洲は反対方向だぞ」
ロンの指摘に、フィアはピタッと立ち止まった。
「それにここからじゃかなり遠いぞ。乗合馬車を使わないと……」
「じゃあ、その馬車に乗せてよ」
まるで女王様が従僕か馬丁に命令するかのような、偉そうな物言いのフィアだった。
だがロンは、年下の女の子にそんな態度をとられても、全く気にしてなかった。
それよりもロンがフィアの顔を見ながら気に止めていたことは、彼女が本当にこの上もない美少女だということだった。
旧市街の中ではリーナが一番の美人だと、大人たちは噂している。ロンも今日までそう思ってきた。だが歳が近いせいか、フィアの方がずっと心惹かれるし、何より一緒にいるだけで胸がどきどきしっぱなしだ。
しかしロンはそんな気持ちを悟られないよう、極めて淡々と語った。
「乗合馬車を使うんだったら金が必要だよ。ここから中洲となると……一ディールはかかるかな?」
「えっ、移動するだけでそんなに?」
その金額は子供の小遣いではちょっと高い。
「好景気のおかげで、カディスの物価は急上昇してるからね。それに俺、商業取引所なんて行ったことないし、場所も知らないぞ」
「あなた、自分の住んでいる町なのに、知らない場所があるの?」
「あのねえ、カディスがどれだけ広いか知ってんの? 行ったことのない場所なんていくらでもあるし、町の人全員と顔見知りってわけでもないんだよ。加えて郊外じゃまだまだ拡張工事が続いてるし」
「そうなの?」
「そう。それに中洲っていったら、ここの中央大通り以上の人混みで、道も迷路みたいに入り組んでいるっていうから、下手すると迷うぞ。俺も、いつもは通り過ぎるだけのところだから、全く土地勘ないし。
そんな街の中から、俺たち二人だけで、たった一人の人間を捜し出すなんて不可能だよ」
「そ、そんな……じゃあ、アルに会えないの?」
フィアは悄然としながら呟いた。まるで捨てられた仔猫みたいな顔で俯いている。そのまま放っておいたら泣きだしそうだ。
「い、いや、そんなことはないって。アニキならきっと夕方になれば帰ってくるよ。だから一日一緒にいられないだけでそんなに落ち込まなくても……」
ロンは慌ててフィアを慰撫した。
「そうだ、中洲は案内できないけど、他のネミディア人なら紹介できるぞ」
「え?」
フィアは顔を上げた。
「南の外れにあるスラムに、たくさんのネミディア人が住み着いてるんだ。しばらくカディスで生活するなら、色々世話になることもあるだろうし、一度挨拶に行ったほうがいいんじゃないかな?
それにフィアと同い年くらいの女の子も結構いるよ。友達になれるんじゃない?」
フィアはロンの顔をじいっと見上げてきた。眩いばかりにキレイな瞳だ。ロンは少女の無垢な眼に、吸い込まれそうな気がした。
「あの……来る? スラムに?」
戸惑いながらロンが尋ねると、フィアは黙って頷いた。
二人は旧市街の中にある、娼婦街の一角を歩いていた。向かって道の左側にある高い壁は、ポエニ川の堤防だ。
「ここがスラム?」
フィアが訊ねた。
「いや、まだこの先。知り合いがここで働いているから、ついでに紹介するよ。フィアと歳も近いはずだし……あ、いた。おーい、ケリーっ!」
ポエニ川の水を引いた水路で、女が五人、洗濯をしている。ロンは彼女たちに向かって手を振った。すると、中の一人が立ち上がって、微笑みながらロンに手を振り返した。
◆
「来たよ、ケリーのボーイフレンドが」
「しかも“おーい、ケリー”だって」
「初々しいわぁ……見てるこっちが恥ずかしくなりそう」
「それにしても昼からお盛んねぇ」
四人がきゃあきゃあと嬌声を上げながら、一番年下のケリーを冷やかす。
「や、やだ……むー……。な、何度も言うけど……ロンとは、別にそんなんじゃ……ない……」
ケリーは照れながら、掠れるほどのか細い声で否定した。
「でも本心じゃそうなりたいんでしょ?」
「その歳でいつまでもお友達だなんて言ってないで、とっととくっついちまえばいいじゃない」
「そうそう。正直、傍から見ているとヤキモキしてたまんないのよ。このあたりで一歩踏み出しておかないと、お互いずっと童貞と処女のまんまだよ」
「ロンは鈍チンだから、ケリーがリードしてやんないと」
「ケリーも最近は女らしい体つきになって、少しは色気も出てきたからさあ、ちょっとはこっちから迫ってみたらどう? そうすりゃさすがにあの朴念仁でもムラムラして、今晩あたりケリーで筆おろしにくるかもよお。うひひひひひ」
「へぇっ……? そ、そんなこと……わ、私……はうぅ……」
ケリーは裏返った声をあげた。しかも洗濯用洗剤のついた両手で顔を覆った。
「ああ、やっぱりケリーにゃそんなこと無理か」
「んふふふふ、そんなに怖がることないって。目ぇつぶっているうちに終わるからさ、さっさとやってきなって」
「いやいやいや、そりゃあんたのときはそうだったかもしれないけどさ、お互い初めて同士だと女は格別に痛いよ。男がよくわかってないから。やっぱり客でもいいからさ、手馴れた人の方がいいと思うな」
「私たち共有の妹、ケリーの初めての相手か……。慎重に選ばないと……」
「やっぱロンじゃ荷が重いかね?」
女たちは寄ってたかって、ケリーの貞操を種にした猥談で盛り上がった。
ケリーは頭から湯気が出そうなほど赤面し、手をもじもじさせながら、ロンが近づいてくるのを待った。
だがロンが近づくにつれ、その表情は徐々に曇っていった。
ロンと一緒に歩いてくる女の子がいるからだ。
女の子の背は自分よりも低い。おそらく年下だろう。でも輝くようなプラチナブロンドの髪をしている。それが黒い服を着ているから、余計に映えて美しく見えた。顔は小さく、仔猫のように愛くるしいパッチリとした黄金色の瞳が強烈な印象を放っている。肌は透き通るような乳白色だ。
「よう、ケリー」
ロンはケリーに笑顔で声をかけた。
対するケリーは戸惑いを隠しきれず、少し上擦った声で返事をした。
「う、うん……。きょ、今日はどうしたの……。リーナさんの……お使い?」
「いや、今日は特別に休みを貰ったんだ。姐さんに、この子の案内するように言われて。
フィア、この子はケリー。君や俺と同じネミディア人で、十三歳だよ」
「この前……十四になった……よ」
「あ、そうなんだ」
女の子は何も言わず、ロンの後ろからケリーを睨むように見ている。
ケリーは女の子の眼力に当てられたのか、落ち着かなくなっておどおどしていた。そして無言のまま、女の子のことをチラチラと観察する。
「えっと……それでこっちはフィア。ネミディアから出てきて、昨日カディスに着いたばかりなんだって。今は姐さんの店に泊まっている。フィアは何歳なんだ?」
「……十一」
ロンの質問に、フィアは素っ気無く答えた。
三人の間にはしばしの間、沈黙が漂った。場の空気が妙に重い……。
耐えきれなくなったケリーが、ロンの袖を引っ張り、耳元で訊ねた。
「あ、あの、ロン……その子、いったい……」
「えーと、前話したことがあると思うんだけど、俺の命の恩人の……」
「ゴラァッ、お前たちっ、何を油売ってんだいっ!」
突然、洗い場のすぐ前にある建物の裏口から、胸元の大きく開けたドレスを着た女が出てきて、かすれた金切り声で怒鳴った。指や首には高価なジュエリーを幾つもつけている。
「サボってんなら金はやんないよ」
ケリーたちは急いで洗濯に戻った。
それを確認すると、女は次にロンをギラリと睨んだ。
スラッと背の高い熟女だった。全体的にスレンダーだが、胸は結構でかい。しかし歳のせいか、首周りと二の腕に余計な肉がついている。括れのあるように見えるウエストも、締め付けているコルセットを外したら、もっと出っ張った腹になるのではないか。
髪は結い上げてキレイに整えている。
かなりの厚化粧をしているが、張りをなくした肌や、頬の筋肉の劣化までは補強できず、全体的にたるんだ二重顎になっていた。また、頬骨が少し浮き出ている。
声がしゃがれているのは、長年の無茶な飲酒で、喉が焼けたせいだろう。
ただ、昔はかなりの美人だったのだろうな、という面影はある
「こ、こんにちはローザさん」
ローザの迫力と剣幕にビビッたのか、ロンはたどたどしく挨拶する。
ケリーは洗濯をしながら、二人の会話に聞き耳を立てた。
「何だいロン、お前かい。私の目を盗んで、若いのにちょっかい出そうとするんじゃないよ。ヤりたいんなら、裏口でこそこそ口説かず、ちゃんと客として正面玄関から来な」
「い、いや、違いますよ……」
「ああ、そうか、ひょっとして酒の注文を訊きに来たのかい? だったら今日は間に合ってるよ。っていうか、酒の値段をもっと安くしろって、ヘレナに言っといとくれよ。そりゃ手に入りづらい高級酒や珍しい酒を斡旋してくれてるのはいいんだけどさ……ったく、足元見やがって、あの帝国女。もしかして、うちに卸す酒だけ値段を釣り上げたりなんかしてないだろうね」
「ま、まさか。ローザさん相手に限ってそんなこと……」
「ふん、どうかね、あの帝国女相手には一瞬たりとも油断できないよ。ともかく、これ以上酒の値を上げたら、仕入先を変えるって伝えときな」
「はあ、まあ、一応は……。あの、それでローザさん、この後の昼休みの間だけでいいんですけど、ケリーを貸してくれませんか? 一緒にスラムに行きたいので」
「ああ? ふんっ、別にいいよ、ケリーならね。でも昼休みが終わるまでに、ちゃんと戻って……んん?」
そこで、ロンの後ろに隠れていたフィアを見るやいなや、ローザの眼の色が変わった。
後半へ続く