クーデターの夜(上)
ディド三世は死を覚悟して眼を瞑った。しかしいつまでたっても、魔導士の剣が自分の喉を貫く感触がない。おもむろに瞼を上げると、魔導士は剣を途中で止めている。しかも視線はあさっての方角を向いていた。
国王もつられて、魔導士の視線の先を追った。
それは七色の空に映し出されている、メルカルト宮殿の映像だった。ディド三世は眼を見張った。
王宮内の広間には、多数のカルタゴ兵がなだれ込んで、来賓たちを拘束している真っ最中だったからだ。抵抗する者や、王宮から逃げ出そうと試みる者には、背後からライフルやガトリング砲の無慈悲な斉射が加えられた。それは相手が閣僚であれ、貴族であれ、女であろうともだ。
燦爛とし、優雅さと豪華さを誇るメルカルト宮殿の壁や床は緋色に染まり、次々と屍の山が築かれていった。
しかも犠牲者のほとんどが親国王派の人々だった。
国王の口を塞いでいた花の茎が離れていく。魔導士が首を傾げながら訊ねる。
「これもパーティーの催し物か? 随分と斬新だな」
「ば、馬鹿を言うな……」
「……ということは」
考えられる答えは一つだけだった。
「……まさか、クーデター……?」
「あれが首謀者か」
自身の近衛兵に先導されて、血の海と化したパーティー会場に、口髭を蓄えた身長二メートルの偉丈夫が乗り込んできた。
「ハンニバル・バルカ……。俺の言った通りになったな……」
魔導士は呟いた。
「なるほど、閣僚や地方領主が多数出席するこの舞踏会を襲えば、カルタゴの行政と軍を迅速に全て牛耳れる。……俺と狙いどころが同じ奴がいて、しかもそれが最大の仇敵とは、皮肉だな。いや、これも運命か……?」
ディド三世は茫然自失としている。
「陛下はハンニバルがこの日を狙っていたとも知らずに、奴の兵をガトリング砲や大砲付きで王宮に招き入れたってのか? 俺から身を守るために、別の危難を懐に呼び込むとは……つくづく救えんな……」
魔導士は呆れている。
「……殺せ」
ディド三世はポツリと告げた。
「余は、王としても男としても、自分にほとほと嫌気がさした……。こうなった後では、万が一生き残っても、何の未来もない……。どのみち死しかないのなら、ハンニバルの手にかかるより、お前の剣で貫かれた方がよい……。余にとって、もはやそれが唯一の救いだ……」
だが、そこまで気落ちし、生きる気力さえ失っていたディド三世が、ただ一つだけ大きく反応するものがあった。
魔宮の空に、歩兵銃と突撃槍を持ったパティードレス姿のイサベルが映る。
「イサベル!」
ディド三世は悲壮な声を上げた。
彼女はわずかな私兵を率いて、王宮内で唯一、ハンニバルの兵に抵抗していた。可憐なその姿には、魔導士も「ほう」と感嘆したほどだ。
「……流石は鋼鉄の乙女。勇ましいな……」
「……クラン=アルスターよ……こんなことを頼めた義理ではないが、娘だけは助けてはくれないか? 余が与えられるものならば、マテリアルギアの株でも何でもやる。捕らえた難民も解放しよう。……頼む……」
国王は胸の奥から搾り出すような声で切願した。
「……悪いが陛下、俺があんたの望みを叶えると思うのか?」
「……やはりダメか……」
ディド三世は観念したように目を瞑った。同時に涙が頬を伝う。
「死ぬのが唯一の救い? ふざけるな、だったら貴様をこの地獄から逃がして堪るか。……この世という地獄からな……」
すると、国王を地面に縛り付けていた草花の茎が、引き潮のように離れていった。上体を起こして訝しむ国王に、魔導士は言った。
「さっき、難民を解放する上、マテリアルギアの株も只でくれると言ったな。本当か?」
「で、では……」
「……ラストチャンスだ。いいか覚えておけ、次はないぞ」
◆
ハンニバルの兵を相手に、唯一善戦していたイサベルの親衛隊だったが、多勢に無勢ではどうしようもなかった。一人、また一人とイサベルを守るために倒れていき、とうとう抵抗を続けるのはイザベル一人きりになってしまった。
その彼女もまた、メルカルト宮殿内の湖畔にある、東屋へと追い詰められていた。
たかが一兵卒の手にかかるなど、王女としての矜持が許さない。辱めを受けるなどはもっての外。イサベルは手にしていた歩兵銃での自決を決意した。
その時だった。雑兵を押し退けて斧槍を持ったハンニバルが彼女の前に現れた。
「ハンニバルっ!」
彼を見た途端、イサベルは思わず叫んだ。
闘将……戦鬼……戦争の英雄……国民の支持を一身に集める英傑……
……そしてイサベルの母をたらしこみ、慰み者にした色魔。
さらに、主である父を裏切った逆臣でもある。
クーデター発生直後に、イサベルは国王を王宮から緊急非難させようと、父の自室を訪ねていた。だが父はそこにいなかった。その後も八方捜索したが、父は王宮の何処にもいなかった。おそらく既にハンニバルの手にかかってしまったに違いない。
……この男だけは許しておくわけにはいかない。絶対に……。
ハンニバルに対する憎悪の炎が、彼女に自決を思いとどまらせた。イサベルは歩兵銃を捨てると、ランスを両手に持って構えた。
「日増しに増長していくあなたを見ていて、いつかこんな日がくるのではないかと思っていましたわ。昨日も、ネミディアのスラムを襲ったことを私の命令だと説明したそうですわね。よくもそんな出鱈目をいけしゃあしゃあと……。
魔導士を捕まえろとは言いましたが、誰が無辜の民を襲えと言いましたっ!」
イサベルの言葉を聞くと、ハンニバルはニィっと不敵な笑みを浮かべた。
「やああぁぁぁーっ」
イサベルは雄叫びを上げながら突進した。
だがハンニバルはランスの穂先を悠々と片手で掴んだ。もう一方の手に持つハルベルトを振るうことはおろか、避ける必要さえなかった。
「お……おのれっ」
イサベルは力を込めてハンニバルの腕を振り払おうとするが、丸太のような豪腕はビクともしない。
逆にハンニバルの方が、軽々とイサベルを振り飛ばした。
王女は東屋の柱に叩きつけられた。倒れ伏した彼女のドレスのスリットから、艶かしい太ももが覗く。
王妃エリッサとは違う、若々しい娘の肉体を目の当たりにしたハンニバルが舌なめずりする。
イサベルはハンニバルの好色な視線に気づいた。むざむざと手篭めにされる気など毛頭ない。柱に打ち付けられた背中が痛む中、気力を振り絞って立ち上がろうとした。
その瞬間、ハンニバルや兵たちの眼前からイサベルの姿が突然消えた。
兵たちは全員呆気にとられた。目の前で人が消えるという信じがたい事実に。
だが、過酷なネミディア戦役を生還したハンニバルだけは、唯一この不可思議な現象に検討をつけていた。
「これは……まさかネミディアの魔法……?」
春までには完結させようかな、と思っています。
いや~、長かったです。




