魔女の孤独
孤独を感じる瞬間っていうのは、一人きりの時じゃなくて、相対的に見て、自分の方が孤独なんだと思い込んだ時なのではないでしょうか……。
と、哲学的なことを云っておりますが、そんな感じのフィアのエピソードです。
オイルランプの灯心に灯った炎が揺れた。ランプからはバターのような香りが漂っている。
とうに日は暮れていた。
フィアはベッドに寝そべって、ランプの灯りの下、もう長いこと読書に集中していた。旅程の暇つぶしに、アルに買ってもらった本の中で一番面白かった恋愛小説だ。旅行中に買った本は読み終わったら、また旅先の別の古本屋に売って別の本を買うようにしてきたのだが、その本だけは売らずに手元に置いておいた。
既に二回通り読み返していたが、アルが部屋から出て行った後、暇に飽かしてまた最初から読み始めた。そして読み始めたら止まらなかった。
フィアが祖父と共に住んでいた隠れ古城には、お堅い学術書や魔導書、あと神話時代から続く歴史書くらいしかなかった。
人里に出て初めて読んだ、ドラマチックでロマンチックで先の展開が読めない大衆小説は、フィアにとってかなり刺激的だった。すぐ夢中になった。特に恋愛小説が好きだ。
でも、小説と同じことをしてアルに迫っても、抱き合ったりキスしたりという展開にはならないのが、唯一の不満だった。
何がダメなのだろう……?
そのうちとうとう三回目が読み終わってしまった。
本を閉じて、創作された世界から戻ってくると、階下がずいぶん騒がしいのに気付いた。本に没頭している間に、かなりの時間が経ったみたいだ。窓の外は真っ暗だし、お腹もすいた。
でもアルはまだ部屋に戻っていない。自分一人をほったらかしにしたまま……。
急に不安になってきた。
フィアは無意識のうちに、左の親指を吸いだした。
もしかしたらさっきのケンカで私のことが嫌いになって、それで帰ってこないのかもしれない。
アルに捨てられたのではないか、という思いが頭をよぎる。もうじっとしていられなかった。フィアはベッドを降りて、部屋を出た。
階段を下りていくと、酒飲みの男たちの騒ぎ声が段々と大きくなっていった。
階段から店内の様子を窺う。暖炉と天井から吊るされた複数のランプの灯りが、酒飲みたちの喧騒を照らし出している。フロアには円テーブルが六つあり、それぞれに三人から五人くらいの客が座っていた。L字型のカウンター席は七割ほど埋まっている。客の男たちはどれもガラが悪い。薄汚れた服を着ていて、酒の味をよく確認もせず水のようにがぶがぶ飲みながら、品のない馬鹿笑いをしている奴らばかりだ。
そこでエプロン姿のリーナは、たった一人で調理も給仕もこなし、忙しく立ち回っている。
フィアは、ガラの悪い男たちばかりが集まったこのフロアに下りていくなど、怖くてとても出来そうもない。
仕方がないので、階段の上から目を凝らしてアルを捜した。
…………あ、いた!
アルはカウンター席で、店の客の中でも特に強面でガラの悪そうな大男と、酒を飲みながら談笑している。
◆
アルはフレッドの差し出した葉巻を口にくわえ、マッチで火をつけた。
「へぇ、こいつは美味いな。今まで吸った中で一番美味いかも」
ふーっと、アルは長々とした煙を吐いた。
「だろぉう。こらぁな、帝国から海を渡った先にある南方の新大陸で栽培されたタバコだぁ。一口吸ってわかっただろうがぁ、カルタゴ国内で取れるタバコよりもずぅっと美味ぇ。
今ぁこういう嗜好品が貴族や金持ちの間だけじゃぁなくて、巷でも流行ってんだぁ。質の落ちた粗悪品ならぁ、乞食でも手が出せるくれぇの安値なんだぜぇ。もちろん、これは最高級品だぁ」
フレッドも、手にした葉巻の端を黄ばんだ犬歯で食いちぎって吸い口を作り、火をつけた。
「他にも茶や綿や香料料とぉ、カディスで今一番儲かってんのあ、こういうのを船で外国から仕入れている貿易会社ぁ…………にぃ投資している奴らだぁ」
言葉を吐くたびに、フレッドの口からは酒臭い息が洩れる。
「アル、おめぇも株を買ってみねえかぁ? 俺がぁ一から手ほどきしてやるぜぇい」
「俺が? 旅続きで所定の住所も持たない外国人でも大丈夫なのか? しかもネミディア人だぜ」
「大ぃ丈夫に決まってんだろぉ。株はなぁ、身分も経歴も人種も関係ねぇんだ。
俺を見ろよぉ。威張れた話じゃあねぇが、俺だって元々たぁカタギじゃぁなかったぁ。だがぁ株を始めたことで、密輸業なんてぇ胡散臭ぇ商売から抜け出してぇ、今や真っ当な投資家だぁ、ガハハハハハ。
会社はなぁ、金を出してくれる奴なら、誰でもありがたがってくれるんだぜぇ。だからアル、さっきリーナに見せてた宝石を俺に預けろやぁ」
「へ?」
「俺に投資すればぁ、半年で元金を倍にしてやるぜぇ」
「よしなよ、ギャンブルなんて。アル、絶対渡しちゃ駄目よ」
カウンターに戻ったリーナがきつい口調で咎めた。するとすぐにフレッドが反論した。
「だからリーナ、株はギャンブルじゃねえって何度も言ってんだろぉ」
「ギャンブルよ、株なんて!」
「ギャンブルじゃねえ!」
「ギャンブル!」
「違ぇ!」
「でも投資に失敗して破産したり、借金苦で首吊った人もいるのよ。ギャンブルじゃない。
そもそもお金は汗水たらして稼ぐものよ。それを楽して稼ごうなんて考えてると、そのうち罰が当たって、無一文になるのがオチよ」
「俺ぁそんな間抜けじゃねえっ! おいアル、おめぇどうなんでぇ? 興味あるだろ、株」
「うーん…………正直、興味がないって言ったら嘘になるかな……」
「おお、さすがはアルだぁ。おめぇなら分かってくれると思ったぜぇ」
フレッドは破顔して、アルの背中をバンバンと何度も叩いた。
対してリーナは剥れだした。
「何よ、アルは私よりもこのヒゲオヤジの肩持つっていうの? 冗談でしょ。株を初めてからこの人、店の経営も運び屋の仕事も全然しなくなっちゃったのよ。代わりに一日中、株と配当金の話しながら、お酒飲んでゴロゴロしてるだけ。おかげでこんなにぶくぶく太っちゃって……もう豚よ、豚。そんな奴が二人に増えたら…………私、頭がおかしくなっちゃうわ」
リーナは苛立ちを隠そうともせず、バーカウンターの下から、二人が吸っているのと同じ葉巻を取り出して、吸い始めた。
「何言ってやがんでぇ、リーナぁ。危険な道を幌馬車引いてぇ、びくびくしながらわずかな密輸品を隠して運んだってよぉ、雀の涙ほどの稼ぎにしかなんねぇじゃねえかぁ。そらぁおめぇもよぉく知っているはずだろぉ。もう馬車の時代は終わったんだよぉっ。
今ぁ蒸気船や鉄道で遠いとっから大量輸送する時代なんだよぉっ。今ここで大きく稼ぐためにゃぁ、腕っ節だけじゃぁ駄目だぁ。頭ぁ使わねぇとなぁ。ソニーだってそうだったろぉ。頭ぁ使ってぇ、稼ぎを増やしてたじゃねえかぁ。それに倣ってるんだよぉ、俺ぁ」
「ソニーの名前を、こんなことで引き合いに出さないでっ!」
リーナはこれまでにない攻撃的な眼で、フレッドを睨みつけた。
「そりゃ、ソニーは頭がよくて人使いも上手かったけど、でも、部下だけ働かせて、自分は楽して儲けようなんて考える人じゃなかった。いつもみんなの先頭に立って、体を張ってた。だから周りもついてきたんだ。株の投資とは全然違う。私は認めないよ、金さえ出せば働かないでも稼げるなんてせこいやり方は!」
「ふんっ、何でぇ。誰に似たんだかぁ、おめぇは本当に頭が固ぇなぁ。もういいや、俺たちだけで話を進めようぜぇ、アル。
今ぁ株で損することは絶対にねえぜぇ。配当金も株価も右肩上がりだぁ。何せ国中好景気なんだからなぁ。証拠にこのコートを見ろよぉ」
フレッドは自分の毛皮のコートを指差した。アルはコートの手触りを確認した。
「いい毛皮だな」
「テンの毛皮だぁ。こんな高級品、一昔前ぇは貴族しか着れなかったはずだぜぇ」
さらにベルトのバックルには金を使っているし、ブーツはエナメル製だ。コートの懐からは懐中時計のチェーンが見える。
「確かに……昔と変わって随分おしゃれになったんだな、オヤジ」
アルは苦笑いした。
「そうだろぉう。ガハハハハハ」
だが着ている服とは対照的に、髪や髭にはあまり手入れがされておらず、脂で固まって、八方に乱れて伸びていた。顔も埃と垢で薄汚れている。しかも彼の物腰は野蛮で野卑で、品性の欠片も見当たらない。
服の高級感に着る者の品位が追いついておらず、それが全体的にアンバランスで、滑稽に映った。
毛皮のコートだって、高貴な貴族が纏えば優雅な装飾品に映るのであろうが、フレッドの場合は山奥に住むキコリかマタギか熊か、もしくは雪男にしか見えない……。
どんなに稼いでも、どれだけ裕福になっても、出自の卑しさや教養の低さは、毛皮程度では隠しきれるものではないようだ。フレッドのファッションからわかるのは、彼がにわか成金だということだけだ。
しかしフレッドは自分が他人にどんな風に映っているのか、よくわかっていないらしい。アルのお世辞がよほど嬉しかったのか、得意顔でさらに語った。
「他にもよぉ、うちの店の品揃えが三年前ぇより増えたんで、景気の良さがわかんだろぉ。ぶどう酒やラム酒以外にも、色々な酒が出せるようになったんだぁ。今飲んでるビールもそうだぁ。それにこのランプの油ぁ。いい匂いがすんだろぉ?」
「ああ、さっきから気になっていたんだが、バターみたいないい香りだな」
「鯨油だぁ。毛皮やタバコもそうだがぁ、三年前にゃぁ貴族や金持ちにしか手に入らなかったものが、今じゃぁ庶民が日常で湯水のように使ってんだぜぇ。それぐれぇ国中に物と金が有り余ってんだぁ。これだけ好景気なのはぁ、何でもネミディアの銀鉱から大量にとれる良質の銀のおかげらしいぜぇ」
アルが口元に近づけたジョッキを止めた。
「やっぱ、ネミディアを植民地にしたのぁ大きかったんだなぁ。あの時軍部が決めた北方征服政策は間違っちゃあなかっ……」
「ちょっとフレッド!」
アルの前で、ネミディアを植民地にしたことを、得々と語るフレッドの無神経さにリーナが叱責した。
「ん……? あ! あ……ああ……す、すまん、お前とロンはネミディアの出身だったな……」
フレッドはばつが悪そうな顔をして謝った。
「いや、気にすんなよオヤジ」
アルはジョッキに残っていたビールを一気に飲み干した。
「戦争で負けたんだ、仕方ない……。それよりも驚いたよ。度胸と腕っ節だけの人かと思ってたオヤジが、こんなに流々と経済を語るなんてな……」
そう言って二人に笑みを向けると、乾いた声で笑った。
突如、店内の喧騒を裂きさくように、怯えと哀切の入り混じった甲高い少女の悲鳴が響いた。
アルが振り向くと、階段近くの席の酔っ払いに腕を掴まれているフィアがいた。フィアは掴まれた腕を必死で振り解こうとしている。
「いやっ、放して、放してぇっ」
「そんなに嫌がることはねえだろう。お嬢ちゃんも一杯飲めよ。楽しくなるぜえ」
顎が尖っていて、窪んだ眼窩の下にクマのある酔っ払いの男が、ラム酒の入ったジョッキをフィアの鼻先へ近づける。酔っ払いの体躯は細身だが、手はゴツゴツと節くれ立っていて、服の袖には焦げた跡がある。何かの職人だろう。男の、職人として長い年月をかけて鍛え上げた無骨な指が、過酷な手仕事など全くしたことのないフィアのか細い腕に食い込んでいる。
彼と同じ円テーブルについている他の三人の男たちも、囃し立ててフィアを席に誘っていた。
さらに、この場末な酒場には不似合いな色白のブロンド美少女が、巣から落ちた雛鳥のような悲哀に満ちた矯囀を上げていることに、店中の客の視線が集まりつつあった。
「ちょっと、その子は従業員なんかじゃないのよ」
カウンターの中からリーナが注意する前に、すでにアルが立ち上がっていた。
アルは騒いでいる二人の前まで行くと、無言のまま腰に提げている剣の鞘で、フィアの手首を握っていた酔っ払いの手を打ち据えた。
途端に男はカラスみたいなダミ声で悲鳴を上げ、フィアの腕を放した。
「アル!」
フィアはアルの太ももに飛びついた。その目尻は薄っすらと滴が溜まっている。
「痛えな、この野郎!」
対して酔っ払いは、酒の勢いで気が昂ぶっているのか、手を痛そうに振りながら、アルを焦点の定まらない眼で睨みつけてきた。
「刀持ってるからってびびるとでも思ってんのかあっ、ああんっ!」
ヒュッ
風が吹きぬけるかのような音を立てながら、アルの剣が鞘走った。
目にも止まらぬ速さで抜き放たれた剣の切っ先は、酔っ払いの喉もとに突き付けられていた。酔っ払いはアルの抜刀の凄まじい速さと迫力に、酔いも一瞬で醒めたらしく、戦慄して立ち尽くしている。
そして、あれだけ騒がしかった店内の客たちも静まり返り、この様子に固唾を呑んで見入っていた。
すると男が手にしているジョッキの底から、何故か突然ラム酒が漏れ始めた。次の瞬間、木製のジョッキはいきなり縦に割れ、真っ二つになった。中の黄色い液体が、一斉にバシャッと床へ零れ落ちる。ジョッキの斬り口は、漆を塗ったかのように滑らかだった。
アルはおもむろに剣を鞘へおさめた。
酔っ払いは縦半分になったジョッキの取っ手を持って唖然としていた。が、アルの鋭い眼光に睨み付けられると、気圧されて後ずさりした。その際、自分が座っていた椅子につまずいて、後ろへ派手に転んだ。
うずくまって、床に強打した後頭部を両手でさする酔っ払いの姿に、店中が爆笑に包まれた。
アルはフィアの手を引いてカウンター席に戻ってくると、自分が使っていた椅子にフィアを座らせた。椅子は少女には高くて、足が床についていない。
隣のフレッドが興味津々でフィアの顔を覗く。フィアは、フレッドの強面を見ると、瞬時に顔を逸らした。
「どうして部屋でおとなしくしてないんだ?」
アルは屈んで視線の高さをフィアにあわせると、困惑した口調で訊いた。
「だって、アル遅いし……何してるのかなって、心配になって……」
「ああ、ちょっと話が弾んでな。悪いけど、もう少し待っててくれないか」
「……アル、私もう眠い」
「じゃあ、先に寝てていいぞ」
しかしフィアは椅子から降りようとはせず、俯くと、黙って自分の親指を吸い始めた。
緊張したときや、不安なとき、また考え事をしている最中に、フィアはよく親指を吸う。そうすると心が落ち着くのだそうだ。さらに、この仕草は、気のそぐわないことに対して上手く言葉で訴えられないときなどにも見せることがある。
以前からアルは、みっともないからやめろと言っているのだが、今日までまだ直るに至っていない悪癖だ。
アルは、フィアが素直に一人で部屋へ戻る気がない、戻りたくない理由があるのを察した。
「どうしたんだ? また前みたいに、手を繋いでくれなきゃ寝れないっていうのか?」
「ちっ、違うっ。そうじゃなくって……」
「じゃあ、何だよ?」
フィアは両足をプラプラと振り子のように振って、口を尖らせた。
「んー、何? ひょっとして夜は怖くて一人じゃ眠れないのかな?」
リーナがカウンターの中から身を乗り出し、微笑みながらフィアに訊ねた。
「じゃあ、お姉さんが添い寝してあげようか?」
「おお、それいいんじゃないか。どうするフィア?」
リーナの意見にアルも賛同して笑った。
だが当のフィアは瞬時に表情を険しくした。
「うっさい、余計なお世話よ、オバサン」
フィアが敵意むき出しで吼えた言葉に、リーナはキョトンとした。
隣のアルとフレッドは、予想もしてなかったフィアの暴言に、大口を開け顔面蒼白になっている。
「一人で寝れるわよ、ガキじゃないんだから。ブース!」
「なっ……ブ、ブス……オ、オバ……」
リーナのジョッキを持つ手が次第に震え出す。
「お、おい、フィアっ。 お前、何てこと……!」
しかしアルが咎めるのも聞かず、フィアは椅子から下りると、階段のところまで一気に駆け抜けた。
階段の前にはさっきからんできた酔っ払いがいたが、「邪魔よっ!」と一声して突き倒すと、荒っぽい足音を立てて二階へ上っていった。
おまけに階段の途中でもう一度、リーナに「ブース」と罵声を浴びせていった。
「そ、その……リーナ、すまない。フィアには後でよく言って聞かせるから……えっと……その……怒りを沈めて……」
アルは恐る恐る謝った。
「あと、リーナはまだまだ若くてきれいだ……よ。ほ、本当に。だ、だから……気にすんな。な!」
ついでにフォローも入れて。
「オ、オホホホホホ……いいのよ、アル。私は大丈夫。所詮、ガキのたわ言なんだし。ホホホホホホ」
震える声で、リーナは精一杯微笑んだ。
だがその笑い声は、肺と横隔膜が引き付けを起こしたようで、尚且つぎこちなく、異様に甲高かった。目尻や鼻の頭の青筋はヒクヒクと痙攣していて、明らかに精神衛生上の無理が見て取れる。
すると、やおら持っていた木製のジョッキの側面に爪先を立てて、無理矢理食い込ませると、一息で縦に引き裂いた。バキバキバキと木の裂ける音に、アルとフレッドは絶句した。ジョッキは終いに、リーナの手の平の中で完全に圧壊され、木っ端になってしまった。
「あら、やだ、私ったら……」
リーナは歪んだ笑顔で、床に散らばった、元はジョッキだった木屑の掃除を始めた。
アルは慄然とし、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。それからフレッドにそっと耳打ちした。
「お、おいオヤジ、リーナの奴、随分丸くなったんじゃねえか? 昔だったら相手が女子供だろうと、あんなこと言われたら問答無用でなます切りにしていたはずなのに」
「俺が言うのもナンだがぁ、おめぇが抜けてからのこの三年間、苦労の連続だったからなぁ……」
アルがドアを開けると、部屋の中はオイルランプの灯りで煌々と照らされていた。
しかしフィアは、ベッドの上で頭から足の先まで布団を被って、ウサギのように丸くなっている。
「フィア、晩飯まだだろう。リーナが夜食を作ってくれたぞ」
アルは、部屋の中央にある木製の丸テーブルの上に、楕円形の木皿を置いた。木皿には、バタールを上下に切った間にレタス、チーズ、生ハムを挟んだ、サンドイッチが乗っている。
「まったく、背筋が凍ったぞ、あんなこと言うなんて」
アルの声は、苛立ちを隠そうとはしてなかった。
「明日、リーナに謝っておけよ。それとお礼もな。あんな悪態をつかれたっていうのに、お前のために夜食を作ってくれたんだから」
でもフィアは布団から出てこようとしなかったし、返事すらなかった。
「ああ、そうだ、飲み物も欲しいよな。今、ぶどう酒でも持ってくるよ。お前でも飲みやすいように水で薄めてな」
部屋を出ようとアルがドアノブに手を掛けたとき、出し抜けにフィアが言った。
「アルは……やっぱりあの人のことが好きなの?」
アルは頭を掻いた。
「……あのなあ、フィア…………フィア?」
困惑したアルは、振り返ってベッドを見ると、布団が小刻みに震えている。今までそれは、ランプの揺らめきのせいでそう見えるのだろうと思っていたのだが、よくよく目を凝らせば違っていた。明らかに布団自体が細かく振動している。
「フィア、どうした、大丈夫か……?」
気になってアルが掛け布団を剥ぎ取ると、フィアはうつ伏せになって枕を胸に抱きかかえながら、親指をせわしなくしゃぶっていた。しかも少女の頬は濡れている。
「何だ、夜泣きのクセが再発しちまったのか?」
「……アル、お酒臭い」
アルは咄嗟に手で口を覆った。
「どうしたんだ、フィア?」
「……わかんない、自分でもわかんないんだけど……」
フィアは寝返りをうって横向きになると、かすれた声で喋りだした。
「アルが、私の知らない人と仲良く話してるの見てたら、何だか急に寂しくなっちゃって……。
この町で私が知っているのはアルしかいないのに、アルにはたくさんの友達がいるんだなって思ったら、急に胸が苦しくなって、むしゃくしゃしてきて……上手く言葉に出来ないんだけど……すごく辛いの。何なのかな、この心をギュッて絞られるみたいな感じ…………。まるで、おじい様が亡くなって、アルがやってくるまで、あの広いスウィフト城にたった一人で暮らしていたときのような、怖くて、心細くて、不安な気持ちによく似てるの……。
何で今こんな気持ちになるの? どうして? アルはちゃんと生きてて、こんなに近くにいるのに。私はもう一人じゃないのに……」
フィアは今までしゃぶっていた手を唇から離して、寝ころんだままアルの前にかざした。喋っているうちに、フィアの目尻から新たな涙がじわりとにじみ出てきた。
「……急に、アルが私のことを放って、ずっと遠くへ行っちゃったみたい思えて…………」
アルはフィアの差し出した手をそっと握った。
そして、少女の瞳から零れ落ちた涙を、親指と人差し指で優しく拭った。
「ごめんな、一人にして。そうだな……孤独にされると、辛いもんな……。俺が悪かったよ」
労わるような声でアルは謝った。
「コドク……? ねえアル、もしかしてお酒飲んでるとき、私のこと忘れてたの?」
「うっ……ごめん……」
「酷い……」
フィアは握った手を離すと、潤んだ眼でアルを睨んだ。
「悪かったよ、許してくれ」
「……おやすみのキスして。そうしたら許してあげる」
アルはフィアの要求どおり、額に軽くキスをしてやった。するとフィアははにかんで、鼻先まで布団を被った。
「これでいいか?」
「うん。あと、これからは私以外の女の人とも口利かないって約束して。それで本当に許してあげる」
「……」