憔悴の国王
アルはパブのカウンター席に座って、カディス全体の地図を見ている。地図には色々な文字が書き込まれていた
カディスの真北にある北乃森、西側郊外へ行った貴族たちの高級邸宅街、東にある中州の金融街、南東のダウンタウンの端にある娼婦街、南西の陸軍兵舎をそれぞれ頂点にしたペンタグラム(五芒星)が描かれていた。そしてペンタグラムの中心には、カディスの三分の一の面積を占める広大な王宮、メルカルト宮殿がある。他にも細かい魔術の仕掛けが幾つも描かれていた。
魔法陣である。
しかも町ひとつを包み込むほどの巨大な魔法陣だ。魔法陣の大きさは消費する魔力の大きさに比例する。これほど大きくなると、発動するには十数名の魔導士が力を合わせなければならない。いくらアルでも一人では無理な大きさだった。
しかしアルは不適に笑った。
「何見てるの?
後ろからリーナの声がし、咄嗟に地図を折り畳んでポケットにしまった。
「何を隠したの?」
「……なんでもないよ」
「ど~かしら? こそこそしちゃって、や~らしいわね」
「やらしいって……そういうんじゃねえよ」
そこで店の扉が軋んだ音を立てながら、ゆっくりと開いた。振り向くと、そこにはびしょ濡れのロンが立っていた。
彼の異様な様子から、アルもリーナも容易ならないことが起こったのを悟った。
「どうした、ロン?」
ロンはアルの呼びかけに答えず、ふらふらと店内に入ってきた。
「おい、ロン……?」
彼は店の中央に来ると、顔をくしゃくしゃにしてその場に泣き崩れた。
◆
メルカルト宮殿の国王執務室にいたディド三世は、ネミディア人スラムが治安部隊によって襲撃されたという報告を聞いた途端、まだ捻挫の治っていない足で思わず立ち上がった。
「ハンニバルか? ハンニバルがやったのか?」
ディド三世は報告に来た侍従長に訊ねた。が、
「では、やはり陛下がお命じになったのではないのですか?」
と、逆に困惑気味に問い返されてしまった。
「いや……それで……?」
「将軍はイサベル殿下の御意に従ったまでとのことです。殿下は魔導士のことを大変気にしておられたようなので……。それから建国記念日に向けてテロを起こすとも限らないので、そのような懸念を事前に取り除くのが、軍の総司令官である自分の責務だとも言っておりました」
「それで……捕えたネミディア人の中に魔導士はおったのか?」
「いえ……そのような報告はまだ入ってきておりませんが」
「……わかった……下がってよい」
侍従長が出て行き、一人きりになると、国王は尻もちをつくような感じで椅子に腰掛けた。
――自分より人気のある臣下は、外敵よりも危険だ――
――必ずハンニバルと殺しあうことになる――
北乃森で言っていた魔導士の言葉が思い出され、呪詛のように頭の中を渦巻く。
カルタゴ軍の元帥は国王たる自分であり、その統帥権を持っているのも自分ひとりだけである。それなのにハンニバルは断りもなく陸軍を動かし、あまつさえ魔導士でも暴徒でもない無力な難民を襲ったのだ。
これで魔導士を捕まえていたなら大義名分も通るが、いなかったら民衆や周辺国からは非難が殺到するだろう。
いや、ハンニバルのことだから、魔導士を捕えられなかったのなら、他に捕まえたネミディア人の中から適当に選んで魔法使いに仕立てるに違いない。それで自らの行動の正当性を示すのだ。大義名分も通る。それぐらいのことは平気でやる男だ。
そしてハンニバルの人気はさらに上がるだろう。
陸軍を独断で動かしたことを咎めようにも、議会の議員たちがそろって反対するのは目に見えている。
最早ハンニバルは完全に自分の手の平を飛び出している、と認めざるを得なかった。
否、ディド三世には、己の腹を内側から食い破る化け物のように思えた。
自分ではもうハンニバルの暴走を抑えきれない……。
「どうすればいい……?」
しかも問題はハンニバルだけではない。あのクラン=アルスターという魔導士もだ。ネミディア人のスラムを治安部隊で襲ったとなれば、向こうは同盟を拒否したと捉えるだろう。それも、何の武力も持たないネミディア難民を、何の宣告もなしに襲撃したのだ。きっと激怒して自分の命を狙ってくるはずだ。身の危険としてはこちらの方がよほど切迫している。
「それでも一応、連絡を取るか……」
新聞の広告欄で同盟の是非を知らせろと、あの魔導士は言っていた。か細い希望だが、招けば応じるかもしれない。
あの魔導士は、ハンニバルが議会を裏で牛耳っているのを知っていたくらいだから、今回も奴が独断でやったのだと話せば、理解してくれるのではないだろうか。
そして同時にハンニバルには、密入国した魔導士の狙いはお前だと伝えておくのだ。そうすれば、何も知らずにメルカルト宮殿へ乗り込んできた魔導士を返り討ちにしてくれるかもしれない。
一番いいのは共倒れになってくれることだ。可能性は低いが……
「これしかない」
ディド三世はすぐに呼び鈴で侍従長を呼んだ。
しかし、それは狼を退治するため、虎を呼び込むことになるのを理解していなかった。




