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ロード・オブ・ロード  作者: 中遠竜
第2章 魔導士のシナリオ
26/43

歪んだ初恋

                      ◆


 ケリーが今着ているのは、いつもの継ぎ接ぎだらけのワンピースではない。ガッツリと胸元の開いた黄色いドレスだった。他の娼婦が使い回したお古だったが、それでもケリーからすれば、分不相応な高級品だ。

 加えてラベンダーの匂いが、不自然なほどに体にまとわりついている。香水をつけたのも今回が初めてのだった。


 娼婦たちは、綺麗に着飾ったケリーを見て、眼を丸くしている。


 時刻は夕刻にさしかかろうとしていた。雨降りの暗曇が、さっきよりも闇色を深くしたようだ。

 今ケリーは、薄暗い娼館の廊下を、客の待つ部屋へと歩いてる。先を行くマリアが、ランタンを持って案内していくれていた。


 いつもは自分がランタンを持って、マリアの部屋へと客を案内するのに、今は自分が案内されている……。

 何だか不思議な感じがして、実感が湧いてこない。これから初めて男に抱かれるという事実に……。それも、名前も知らない、初めて会う男にだ……。

 まるでふわふわと雲の上を歩いているような気がした。



 今日……いや、つい今さっき、開店と同時に来た一番客が、いきなりケリーを指名したのだ。ローザは、小間使いで客もとったことのない娘だから満足いくサービスは期待できないよ、と説明したが、客は強く熱望するので承諾した。


 これを聞いた他の娼婦たちは驚き、ざわめいた。


 しかしそれ以上に当の本人が動転していた。顔から血の気が引いていくのがわかった。泣いたり叫んだりすることはなかったが、足の震えが止まらなかった。


 逃げてしまおうか……。


 一瞬そう思ったが、ローザや周りの娼婦の視線が自分に集まっているに気づくと、それも不可能なのだと悟った。


 母やマリーのこともある。


 私は逃げられない……。逃げ切れるわけがない……。


 動揺するケリーを鎮めてくれたのは、やっぱりマリアだった。生まれてこの方、化粧をしたことのないケリーに、さっき化粧を施してくれたのも彼女だ。


 マリアはケリーの髪を櫛で梳きながら

「可愛いよ、本当に……」

 と、優しい声で褒め、励まし、慰めてくれた。


 例え魔女でなくとも、ネミディアの女性は目鼻立ちが整っている美人が比較的多い。栄養不足と不衛生な環境で酷いあばた顔になっていたケリーだったが、ファンデーションでそれを隠し、ドレスでめかすと、可憐な娘に変貌を遂げた。


 一変した自分の姿に全く高揚しなかったわけでもないのだが、それでも心の大部分は重たかった。


 するとマリアは、鏡台に映るケリーに微笑みながら話してくれた。

「お客さんが指名して買ってくれるってことはね、美人さんだっていう証拠だよ、ケリー。それから、お客さんの中にはね、本当の自分の妹や娘みたいに優しくしてくれる人もいるんだから。

 他にもラブレターくれたり、私のためのポエムを書いてきてくれたりとかね。まあ、私は字が読めないから、その場で朗読してもらうんだけど……。

 ともかく、私たちはそういう男に甘えていればいいのよ。そうしていれば、何も困ることはないし、何の問題もないんだから……」


「……」


「あと、本番はいいから身の上話を聞いてくれって人とか、お金もないのに私のことが好きだからって通い詰めてくれる人とか、そういうお客さん相手にするとね、こっちも情が移っちゃって……仕事とは別に、癒してあげたいな、って思っちゃうんだ……」


「……」


 初めのうちは動揺どうようしていたケリーだったが、あまりに急な展開に考えが追いつかなくなってくると、今度は頭の中が混濁こんだくしてきた。

 そしてそのまま呆然としていると、いつの間にか、いかにも娼婦という姿で、客の部屋の前に立っていた。


 マリアがドアをノックする。扉が開く。


「……大丈夫。大丈夫だよ……」

 まるで自分に言い聞かせるようにマリアは呟いた。初めて客を取るということで、心配してここまでってくれたマリアだったが、彼女が一緒にいてくれるのもここまでだ。ここから先は己一人きりである。


 ケリーは躊躇ためらいがちに、おずおずと部屋へ入った。外からマリアがゆっくりと扉を閉める。


 ドアの前に突っ立ったまま、ケリーは黙ってうつむいていた。相手の顔など、まともに見れるわけがない。部屋に沈黙ちんもく充満じゅうまんする。


「よお、ケリーちゃん」

 しばらく後、客の方から声をかけてきた。


 どこかで聞き覚えのある声に、思わずケリーは顔を上げた。そしてベッドに腰掛けている客の顔を見た途端、驚きと恐怖のあまりに息をするのも忘れた。


「俺様ぁはゾラン。知っての通り軍人だぜぇ。階級は少尉だぜぇ。よろしくたのむぜぇ」

 客はこの間自分を強姦ごうかんしようと襲ってきたカルタゴ兵だった。あの通り魔だ。

「金を出してヤるっていうのはよぉ、本当はぁポリシーに反するんだぜぇ。やっぱり獲物は追い詰めてよぉ、無理矢理ってぇのが一番いいぜぇ。

 でもよぉ、この間のお前を見てかなり気に入っちまったんだぜぇ。忘れられないんだぜぇ。それこそ四六時中、ケリーちゃんのことを考えてよぉ、仕事も手につかないほどだぜぇ。こんな感情は初めてだったぜぇ……」


 ゾランは立ち上がると、おびえるケリーを壁際かべぎわに追い詰めていった。


「なあぁ、この感情は一体何だと思うぅ?」

 ゾランは極めて優しい口調で訊ねたが、ケリーは恐ろしくて声を出せなかった。

「俺様、ようやくわかったぜぇ。これは……恋だぜぇ」


「……?」


「それもよぉ、初めての……初恋なんだぜぇ」

 ゾランはガタガタとふるえるケリーを優しく抱きしめた。


「あれから色々調べてよぉ、お前がここにいるのを突き止めたんだぜぇ。それからよぉ、お前のことが好きだからよぉ、ポリシーを曲げてまでよぉ、きちんと金を出して会いに来たんだぜぇ」


「……」


「お前は俺様のことが好きかぁ、ケリー?」


 ゾランの支離滅裂しりめつれつな言動に、ケリーはただただ唖然あぜんとするばかりだった。この男は一体全体何を言っているのだろう? まったく理解不能だ。告白されているということだけはかろうじてわかる。だが、初めて男の人に告白されたのに、全っ然 うれしくもないし感動もない。むしろおぞましい……。


「今日は俺様のために化粧をしてきてくれたのかぁ? 綺麗だぜぇ、ケリー」

 優しく言うと、ゾランはケリーに口づけしようと顔を近づけてきた。


「いやっ!」

 ほとんど反射的にケリーはゾランを払い除けた。


 拒絶されたゾランの様子は一変した。それまで穏やかだった表情が、見る見るうちに憤怒ふんどゆがんでいく。


「何だよおぉぉっ、俺様がここまでしてやってんだぜえぇぇぇ。なのに何だぁ、その態度はあぁぁっ!」


 咆哮ほうこうするとともに、ケリーを裏拳で思い切り殴った。ケリーはベッドに倒れこむ。すぐさまゾランはケリーに馬乗りになって、組み敷いた。


「俺様がぁ、俺様がぁここまでやってやったんだぜぇ。なのに……恥かかせやがってえぇぇっ!」


 後はあの夜と同じだった。ゾランはケリーを殴りつけながら、力任せにドレスを引き裂いていく。


 しかし、その時だった。


「ぎゃあっ!」


 突如とつじょとしてゾランが悲鳴をあげ、ケリーに覆いかぶさるようにして、うつ伏せに倒れた。


 そこには両手で椅子いすを持ち上げているマリアの姿があった。椅子の角には血糊ちのりがべっとりとついている。


「マリア……?」


 ケリーは倒れたゾランの下からどうにかい出た。服をところどころやぶかれていたので、ベッドのシーツを羽織はおった。


 マリアは持っていた椅子を、ボトリと床の上に落とした。そしてケリーに向かって苦笑する。

「ど、どうしよう……こ、殺しちゃった……」


「……マリア……」


「ネミディア人がフェニキア人を殺したら……絶対に死刑だ……。しかも軍警察を……」


「どうして……こんなこと……」


「だって、こいつケリーを……ケリーのことを……どうしよう…………」

 マリアの声は震えている。いや、全身がわなないていた。

「だって……だって私ずっとケリーのことが…………」


「マリア……」


 二人は成す術なく立ち尽くしていた。


 すると……


「てめえら……ふざけやがってえぇぇっ……」

 死んだと思っていたゾランが頭を抱えて起き上がってきた。後頭部を押さえていた手を見ると、血で真っ赤に染まっている。ゾランは眼をいて驚嘆した。

「血ぃ……血だぁ……俺様がぁ、血いぃぃっ。痛えぇ、痛えよぉぉ、死んじまうぜえぇぇぇ……ああぁぁっ、どうしてくれんだあぁぁ……くそがあぁっ!」


 発狂したゾランは、テーブルの上に置いてある自身の軍用ナイフに手をした。彼の瞳孔どうこうは怒りで、限界まで開いている。


「殺す、殺す、殺すっ、ぶっ殺してやるぜえぇぇ!」


 ケリーとマリアは咄嗟とっさに抱き合った。


 二人の頭上からゾランの凶刃きょうじんが振り下ろされる。


 その刹那、部屋の扉が乱暴に蹴破けやぶられた。廊下から、歩兵銃を持った数名のカルタゴ兵が室内に殺到さっとうし、三人を取り囲んだ。


 ゾランも驚いているところを見ると、どうやら無関係らしい。


 やがてカルタゴ兵の一人が高圧的に、ケリーとマリアを詰問きつもんした。

「お前たちか、魔女は?」


「……?」


                    ◆


 夕闇の迫る雨の中、ローザの娼館しょうかんの前で、ロンは呆然ほうぜんと立ち尽くしていた。


 その扉は無残に打ち壊されている。娼館の中に入ると彼はさらに驚いた。壁の漆喰しっくいはところどころがされ、穴が開き、飾られていた絵画は滅茶苦茶に破かれている。床には泥靴どろぐつの人間が大勢歩き回った跡があり、さらに花瓶や皿などの調度品が割られて、その破片が散らばっている。個部屋ではシーツやベッドの布団が破かれ、中身の羽毛が乱舞していた。

 まるで戦争にあったかのような惨状だった。


 その散々に荒らされた館内を、憔悴しょうすいしきった娼婦たちが手分けして清掃していた。彼女たちはロンを見ると一瞬ビクリと怯えた様子を見せたが、相手が誰かわかるとほっとして、また黙々と散らかった部屋の掃除を始めるのだった。


 ローザは一番奥の部屋に、灯りも灯さずに一人でいた。

 彼女は椅子に座り、肩を落としてうなだれている。部屋の薄暗さと、化粧が剥がれているのと、精神的なショックとで、普段より十歳は老けて見えた。


 ローザはロンの姿を認めると、おもむろに話し始めた。

「……ロンかい? あんたは無事だったのか……。ヘレナが上手く逃がしたんだね」


「ローザさん、これは……一体何が……?」


「……軍の治安部隊だよ。例の魔女の件さ。うちの子の中に魔女がいるって噂を聞いたらしくてね、それでかくまっているんじゃないかって疑われて……この通り、徹底的に家捜やさがしされたよ」


「……」


「うちの子に魔女がいるなんて出鱈目でたらめさ。ただそう言いふらしておけば客がとれると思ったんだよ。ネミディアの魔女は美女ばかりだってのはよく知られているからね。でも本当は魔女なんか一人もいなかったんだよ……。みんな魔力のないただのネミディア人さ……」


「それにしたって……軍がここまでやるなんて……」


「魔導士の捜索が思うようにいってなかったんだろう。それに……明日は建国記念日だ。大事な式典の最中にテロを起こすかもしれないと思って、事前にその芽を潰しにきたんじゃないのかい……」


「……ケリーは何処です? 他にも何人かいないみたいですど」


「ネミディアのはみんな軍が連れてったよ」


「どうして?」


「その中に魔女かいないか、魔導士の居場所を知っている子がいないか、調べるんだとさ。……今頃拷問されてるかもね……」


「そんな……」


「まったく……大事な商売道具を取り上げられて、こっちは商売上がったりだよ。連れてった子の中には、最近上客がついた子もいたってのに……。やれやれ、店もこんなだし……しばらくは休業かね……」


「……」


「ロン、あんたも気をつけな。あとフィアもね。件の魔導士を捕まえるまで、軍はネミディア人の取り締まりを続けるみたいだよ。スラムも……きっと捜索の手が及ぶだろうから、しばらくは近付かない方がいいかもね……」


「スラム…………しまったっ!」

 ロンは慌てて娼館を飛び出した。

 手に持っている傘をさすのも忘れ、全力で雨の中を走った。全身ずぶ濡れになっても、気にせず走り続けた。

 やがてポエニ川の河川敷近くに来ると、薄暮うすぐれ霧雨きりさめのぼやけた景色の彼方に、煙雲えんうんが立ち上っているのが見えた。



 スラムに着くと、治安部隊はすでに撤退した後だった。


 あれだけ無数にあった小屋は全て焼き払われ、スラムは元の見渡しのいい河川敷に戻っていた。

まだ所々で火が燻っている中、一帯にはリンの焼けたような臭いが立ち込めている。ロンはその異臭に少しむせた。


 生きたまま焼かれたであろう幾つもの黒こげの焼死体が、雨に打たれ、野ざらしになっている。他にも、致命傷となった弾痕だんこん傷痕しょうこんのあるネミディア難民の亡骸が、そこらじゅうに転がっていた。


 犠牲者に老若男女の区別はない。

 ポエニ川にはすすと血が流れ出し、その水面は赤黒く変色している。


 ロンは雨音に消されないよう大声で、知っている名前を全て叫んで呼びかけた。でも、誰からの返事もなかった。雨が川面を叩く音しか聞こえない。


 それでも生き残っている人がいないか、ロンは懸命に捜した。


 すると、幼い子供を抱きかかえたまま、背中の傷から血を流し、絶命している母親を発見した。ロンは母子に駆け寄った。かすかな希望を胸に、子供を母親から引き離す。しかし、子供の胸には母親と一緒に串刺しにされたあとがあった。もちろんは息はなく、既に冷たくなっている。


 ロンは、自分がまるで世界の終わった荒野にたった一人だけ生き残り、立ち尽くしているような気がした。


 絶望に打ちひしがれ、幽霊のようにふらふらと進んでいくと、川に奇妙な肉の塊が浮いているのを見つけた。水流を受けて、肉の塊が半転すると、その正体がわかった。

 

 何処かで見たことのある赤ん坊の死体だった。赤ん坊の遺体は、半開きの眼をロンに向けている。そして顔の半面を水の中につけたまま、少しずつ下流へと流れていった。


「う、嘘だ…………嘘だあぁぁぁっ!」


 ロンの慟哭どうこくが川辺一帯にこだました。



 ようやく結末が近づいてきました。

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