リーナの決断
アルとフィアの二人がカディスに来てから10日が経とうとしていた。その日は雨だった。
昼少し過ぎ、リーナのパブはまだ開店前の準備中だったが、店内には女店主以外に二人の人影があった。
一人はフレッド。真昼間だというのに、早くもカウンターでビールを飲んでいる。リーナは忌々しそうにため息をついた。
「また真昼間からお酒飲んで……」
「いいぃ~だろぉぅ。儲かってんだぁ」
残りの一人はアルだ。さっきから本を読んでいる。
「ところで今日は二人とも商業取引所に行かないの? 雨だから?」
「今日は日曜で商業取引所はやっっちゃいねぇ。おめぇ、そんなことも知らねえのかぁ?」
リーナの質問に、フレッドが馬鹿にしたように答えた。
「すいませんね、無知で」
リーナはフレッドを睨んだ。
「それにしてもアルは懐が広いわね。それとも馬鹿がつくほどのお人よしなの?」
「何が?」
「カルタゴの金融業者や投資家たちは、直接にしろ間接にしろ、あなたの祖国の資源を食い物にして稼いでる連中ばかりなんでしょ。私がネミディア人だったら、そういう奴らほど許せないわ。だって、内乱と貧困でもがき苦しんでるネミディア人の上に、胡坐をかいているようなものなんだから。例え何の罪のない人でも、カルタゴで平和に暮らしているってだけで、そいつを殺したくなるかもしれないのに……なのに、得意気に株やってる馬鹿と一緒になって中州の金融街へ毎日通うんだから、正直理解できないわ」
するとアルは笑った。
「そうだよ。この国の銀貨は俺の国の銀だ。だから奪われたその銀を、株の力で回収しているんだよ」
「……納得できないわ」
「まあ、今に見てなって。そのうちカルタゴ中の銀を回収してやるから。いや、カルタゴの外へ流出していった銀もだ」
アルは得意満面だった。
この前の、国王ディド三世との交渉をアルは思い出した。
あの会談で、アルはかなりの手応えを感じていた。理由は、去り際にアルが後ろを向いて無防備な状態を晒しても、国王は猟銃で彼を撃たなかったからだ。撃つ素振りさえ見せなかった。それは国王の心が、アルの提案に傾いていた証拠だ。
期日は明日である。きっと明日の朝刊の広告欄には、国王からの返答が載っているに違いない。
これでネミディアを取り戻す算段のひとつは片がつく。だが人心を掌握するためのもうひとつのカギが今は……。
そこでアルは本から顔を上げた。
「いい香りだな。ネミディア産の茶か?」
リーナがお盆を持ってやってきた。微笑しながらアルの前にティーポットと茶杯を置く。
「さすがね。わかってもらえてうれしいわ。この間フレッドに淹れてやったら、よくわからないって言われたの。あいつ味オンチなのね」
カウンターではリーナの言葉を聞いていたフレッドが「ケッ」と舌打ちする。
リーナは無視してティーポットを傾け、茶杯にお茶を注いでいく。
「ネミディアはお茶の名産地なんだって? 近頃は良質な茶葉がカディスにいても安く手に入るようになったわ」
「茶葉は鎖国に近い状態にあったネミディアの、数少ない対外交易品だったからな。最上級のものになると、同じ重さの砂金と取引されていたんだ。カルタゴが戦争を仕掛けてきたのも、もともとはこの茶葉の流通権益がほしかったらしい。……この陶磁器もネミディアのものか?」
リーナがお茶を淹れている、美しい鳥と草花の絵が描かれた茶杯を指して訊いた。
「ううん、カルタゴの企業が大量生産したものよ。ネミディアの陶磁器職人から製法を聞きだして、真似て造ったんだって」
「ふーん……。茶器も、茶葉と並んで高価な交易品だったんだ。だからその製法は門外不出のはずだったんだけどな……」
アルはリーナの淹れたお茶を一口飲んだ。
「うん、うまい。癒されるよ」
「そう、よかった」
「本当にうまい、うまい……模造品だ。悪いが。茶も茶器も……」
「……そっか……」
リーナは不服そうな顔をしたけど、どこか納得しているようでもあった。
「ところで何を読んでいるの?」
「これか? フィアが読んでた本だよ。恥ずかしくなるような台詞と心理描写のオンパレードで、主人公に都合のいい偶然が重なって、物語は進んでいく……っていう恋愛小説だ」
「ずいぶんと皮肉たっぷりね。その嫌味は本に対してなの? それとも所有者に対して?」
「…………」
アルはパブの天井を見上げた。フィアは四階のリーナの部屋に篭っている。あの日からずっとだ。
「まだ拗ねてんのか、あいつ?」
あれからフィアと話をしていない。それどころかまともに会うこともない。廊下で見かけても、向こうはすぐに隠れてしまう。
フィアを精霊の巫女に仕立て上げ、その傀儡としてネミディアを治めるつもりだったのに……。これではマテリアルギアの株を手に入れても、内乱を収束させることはできない。
「アルも言いすぎよ。市場で大立ち回りをしたあの二人にも落ち度はあるわ。けど、赤ん坊を必死で守ろうとしたんだから」
アルは気まずそうにお茶を飲んだ。
リーナはさらに何か言おうとした。ところで店の戸が開いた。ロンだった。彼は濡れた傘を戸口の横の壁に立てかけながら、リーナに訊ねた。
「用って何、姐さん?」
「ああ、ちょっと待ってて。渡す物があるから」
リーナはカウンターへ向かった。リーナはカウンターの下から、一枚の破れたメモ用紙を取り出し、ロンに渡した。
「これは?」
ロンが小首を傾げた。
「ケリーってネミディア人の女の子を雇ってもいいって店の住所」
「えっ!」
「忘れたの? 前にあなたが私に頼んだでしょ。ローザの娼館に間違って女衒してしまったケリーって子を助けたいって」
「いや……覚えてるけど……でも、姐さんがそんな一セタにもならないことに協力してくれるなんて思ってなかったから……諦めてたんだけど……。本当に新しい働き先、探してくれたんだ」
「人を守銭奴みたいに言わないでよ、もう」
違うんだ。と、二人の会話を聞いていたアルとフレッドは思った。
「しかもビスカヤ橋の通りにあるパン屋? 結構大きな商家が建ち並んでる所じゃないか」
ロンはメモを見ながら驚いていた。
「そうよ。それもれっきとしたカタギの店よ。カディス中心街と中州を繋ぐ交通の要所にあるからかなり繁盛してるらしくてね、猫の手も借りたいほど忙しいんですって。だから字が読めなくても、計算ができなくても、体が丈夫なら雇ってくれるそうよ。おまけにケリーが日々の食事にも困ってるほど貧乏だって言ったら、その日に売れ残ったパンは、特別安くして提供してやるって。まーったく、私が勤めたいくらいの待遇だわね」
ロンは歓喜に震えていた。
「姐さん……ありがとう……。あっ、でも、ケリーの働き先を斡旋してくれたのは本当に嬉しいんだけど……その、ローザさんが商売品である女の子を簡単に手放してくれるかな? 今まで払ってきた賄い金や、身請け金とかを請求されない? もしくは酒の卸値を下げろとか……」
「んー、十中八九要求してくるでしょうね。がめつい女だから」
がめついのはお前もだろ。と、アルとフレッドは心の中でリーナに突っ込んだ。
「そんな……俺、あんまり金持ってないよ……」
「問題ないわ。そしたらローザにこう言いなさい。『もしケリーを見逃してくれるのなら、ヘレナは政府の市街整備による立ち退きに対して、これ以上反対運動はしない』って」
リーナのこの発言に驚いたのは、ロンよりもむしろ、カウンターで酒を飲んでいたフレッドだった。
カルタゴ政府には、旧市街を潰して、そこに駅を造る都市計画がある。フレッドやローザなど、旧市街に住む一部の有力者は、金銭的な損得勘定からそれに賛同していた。
特にローザは、裏から政府に頼まれて、地上げまでしていたのだ。ある程度まとまった土地を手に入れれば、それを破格の値段で買い取ってくれると、すでに政府とも話がついている。
だが旧市街の中には、今住んでいる場所を追われる不安から、立ち退きに反対する者も少なくない。彼らのせいで、ローザの土地買収計画は遅々として進んでいなかった。カルタゴ政府から、早く土地を接収しろとせっつかれているローザは、この立ち退き反対運動に相当苛立っていた。
そしてリーナは立ち退き反対派だった。それも反対運動のリーダー格の一人だ。その彼女が反対運動から手を引くとなれば、ローザの土地買収は一気に進む。
交渉のカードとしては十分だった。
「そう言えば、ローザさんはケリーを手放してくれるの? お金も払わずに? 本当?」
ロンは疑い深げにリーナに訊いた。少年は土地の売買などの難しいことがよくわからないらしい。金も払わずにローザがケリーを手放してくれるのが信じられないようだ。
「多分ね。こう言っちゃ悪いけど、人気のない子なんでしょ、その子。嫌な女だけど、モノの相場がわからないメクラじゃないからね。ローザにしたら破格の条件のはずよ」
するとロンは笑った。
「じゃあ、今からすぐローザさんのところへ行って交渉してくるよ」
「今から?」
「うん。だって早くしないと、今このときにもケリーが客をとらされそうになっているかもしれないから。ありがとう、姐さん」
ロンは傘を手にし、雨空の中を駆け出していった。
「どぉういう風の吹き回しだぁ?」
ロンが店を出て行くと、フレッドが不審そうにリーナに訊ねた。
「ソニーとの思い出の詰まったこの建物をぉ、旧市街を潰したくねえ、ってぇ頑張ってたのによぉ。なぁんでここへ来て急に百八十度方向転換するんだぁ?」
「……フレッド、私だって時勢が読めないわけじゃない……。私たちがどんなに意地を張っても、いつか必ず軍が出てきて、力ずくで潰しにくるでしょ。そうなったら、とてもじゃないけど太刀打ちできないわ……。けど、あの売女の言い値でこの家を譲るのは嫌だったの。だから、売り渡す交換条件に、何かとんでもないことふっかけて、少しでも困らせてやらないと、って思ってた。でもついに名案が浮かばなかったから……ちょうどいいわ。最後は嫌がらせじゃなくて、人助けでも……。それから……」
「……それからぁ……何でぇ?」
「思い出の街を壊されるのは、確かに辛い……けど、思い出そのものまで壊されるわけじゃないでしょ。あと……悲しいことだけど、私は生きている……ソニーが死んだ後も、こうして……。そして生きている以上は、幸せになりたいって、どうしても望んでしまうの。私だって人間だし……女だし……。あれから七年も経った……。そろそろ踏ん切りをつけて、次の幸せを探しにいきたいな、って思ちゃったのよ。いいでしょ、義父さん?」
「ばあぁろぉ」
フレッドは鼻の詰まった声でリーナをなじった。
「だから、俺は最初からそう言ってただろぉ。それをおめぇは……片意地張ってよぉ……よぉうやく少しは素直になったかぁ……このはねっかえりがぁ」
「……そういえば、中央大通りに引っ越す計画があるんだって? 本当にそれだけのお金があるの? そこでの新しい商売はいかがわしいことじゃないでしょうね? カタギの仕事なら私も協力してあげる。義父さんは、昔っから言うことばかりでかくて、計画性が全くないんだから。それでソニーも私も何度泣かされたことか……」
「ああ、ああぁ……相変わらず口うるせえ娘だなあ。ガキの頃からそうだったよなあ、おめぇ。……くそっ、ちいっと酔いが回ったみてぇだ。少し休んでくらあ」
フレッドは瞼を押さえながら、階段を上って寝室へ向かった
フレッドがいなくなると、彼がいた席にはアルが座った。
「オヤジ、あんなに涙もろかったっけ?」
「最近はね、ちょっと泣き上戸っぽいところあるのよ。歳のせいかしらね」
「ふーん……」




