将軍ハンニバル・バルカ
ハンニバルはカーテンを開けた。王妃の寝室に朝日が入る。男は一毛纏わぬ姿で、鎧のような筋肉を悠々と隆起させ、全身に朝日を浴びた。
彼の後ろでは、王妃が艶かしい声を上げながら寝返りをうつ。天蓋のベッドで寝ている彼女も同じく裸だった。王妃はあえぐように泳ぐように体をよじって、薄いシルクのシーツにシワを刻んだ。
ふくよかな肉付きだが、くびれた腰付きをしている。重ねた歳によって緩みのある肢体には、吸い付くような粘り気のある肌……。眠っている彼女の全身からは、アンニュイな色気があふれている。香水だけでは醸し出せない、むせかえるほどの熟したメスの香気が漂う。
ハンニバルは、尽きることのない女の情欲に、薄ら笑った。不義不貞で、獣のように男の身体を強請るこんなメス犬が王妃とは、この国も末だ。
まあ、己も大して変わらないか。産まれたときから……いや、産まれる前から畜生として修羅の道を歩んできた。自分勝手に殺し合い、奪い合う本能だけの獣の世界を。だが人の道に外れたその無法な世界が、己の最も親しんだ居場所だった。
そして今は、己の狂気がこの国中に広がっているのを感じる。そしていずれは自分のものとしてやるのだ。
今でこそ名門貴族であるハンニバルだが、彼の母は奴隷だった。母親の祖国は、彼女が十歳の頃に内乱で滅んだ。そして流民になったところを人買い騙され、魔法国家ティル・ナ・ノーグの魔導士に売られたのだ。買い取った家は、ティル・ナ・ノーグでも指折りの名門貴族だった。
そこでの生活は辛酸を舐めた。何人かの奴隷や下人は牛馬のように働かされ、栄養失調で死んでいった。それだけではなく、体が弱って余命が長くないとわかると、魔法の研究と称して人体実験される者もいた。
線が細くか弱かったハンニバルの母親は、労働力としてよりむしろ人体実験の被験者として扱われた。試験中の魔法薬を何度も試飲させられた。その度に脱水症状になるまで嘔吐したり、幻覚を見たり、髪が抜けたり、爪が剥がれ落ちたり、四肢が引き千切れそうな激痛を味わったりした。副作用の苦しみと、明日死ぬかもしれないという恐怖と戦いながら、彼女は生き延びた。
そして年頃になると、顔立ちがよかったためか、その家の嫡男の部屋に度々(たびたび)呼び出されるようになった。彼とは歳が近かったし、教養ある話も面白かった。何より彼女も恋愛に興味があった。
社交界を賑わせる美男子と身分違いの恋愛、叶わぬ恋だ。相手は遊びかもしれないし、婚約が決まったら捨てられるだろう。でも、それでもよかった。彼が好きだったからというよりも、むしろ戯曲を地でいくようなシチュエーションに、酔っていただけなのかもしれない。
それに抱かれているときは、住む場所を失った悲しみも、家族と離れ離れになった孤独も、人体実験をされてのた打ち回っていた苦痛も、そして奴隷という忌むべき身の上さえ忘れて真っ白になれた。だから、むしろ自分から昼となく夜となく彼の部屋に通ったほどだった。
そんなある日、彼女はいつもと違う部屋に呼ばれた。行くと、見たことのない貴族の子息が四人いた。用件を聞くまもなく、いきなり服を剥ぎ取られ、裸にされた。そしてその場にいた全員から陵辱をうけた。
奴隷とはいえ、それまで体を許したことがある男は一人だけだった。その自負があったからこそ、この件は彼女の心に大きな傷となって残った。彼が遊びなのはわかっていた。いや、遊びどころかただの性欲の捌け口だったのは感じていた。期待はするなと理屈で感情を抑えようとした。
でも無理だった。
穢されたというショックに心の整理がつかなくなり、男が怖くなった。慕っていた貴族の嫡男に対しても、一転してその恐怖を感じるようになった。
しかし、その後もことあるごとに、彼女は貴族の子弟たちに輪姦された。屋敷以外でも庭園や厩、劇場のボックス席など、場所も時間も関係なく、獣が獲物を食い荒らすかのように陵辱された。
中には歪んだ性癖を持った男もいて、吐き気を催すほどの恥辱的なプレイや、死に掛けるほど無茶な要求にも応えなければならなかった。
女としてのアイデンティティを何度も貶められる日々に、彼女は身体だけでなく、心も淀んでいった。
汚されながらも、不思議とさらに汚してほしいと望むようになっていたのだ。汚れた自分に自己嫌悪しながら、男たちにもっと自分を堕としてほしくなる矛盾……。だがその快感が、不安と自己嫌悪を和らげた。快楽と苦痛を感じているときだけ、すべてを忘れ、不安定だった心が落ち着くのだ。
そして情事が終わった後は、必ず深い喪失感と後悔を感じ、再び強い自責の念に悩まされた。それを忘れるため、自分を汚してくれる相手をさらに求める、という悪循環を繰り返した。
穢れている自分をもっと汚してほしい。……と、男の体を欲するようになっていた。
精神医学的にいえば、彼女は強姦された精神的なショックからPTSD(心的外傷後ストレス障害)に陥り、セックス依存症になっていた。リストカットも常習的にするようになった。
やがて彼女は身篭った。どの魔導士が父親かわからない子供を。
するとその貴族の家を追い出された。再び難民として流れている最中に、彼女は男の子を産んだ。彼女が赤ん坊を連れて流れ着いた先が、カディスの娼婦街だった。
彼女は娼婦をしながら男の子を育てた。物覚えが付いたころには、母親の手伝いをよくするようになっていた。子供は説明を聞かなくとも、母親の仕事を直感で理解していた。
そして人付き合いも上手く、剛毅な性格だった。自分と同じ身の上の子供や、親のいないストリートチルドレンたちを従えて毎日遊んだ。彼はスラム街の子供たちのリーダーであり、また有名な悪童でもあった。
カリスマ性はこの頃からあったのかもしれない。
また、彼には不思議な力があった。銀貨を指で折り曲げるほどの怪力があったし、手足に切り傷を負ってもすぐに傷口が塞がって完治したりもした。それがまた衆目を引き付け、子供たちの間では神秘性と羨望を増すことになった。
恐らく、胎児のころに母親が飲んだ試験中の魔法薬が、彼の中の魔導士の才能を通常とは違う形で発露させたのだろう。カリスマ性も、効力は弱いが変貌したチャームだったのかもしれない。
やがて10歳のとき、転機が訪れる。母親の上客だった友人が、彼を養子に迎えたいと言った。カルタゴの豪商で上流階級だった。
母親は息子の将来を考えて、この申し込みを受け入れた。
少年は養子になると、新しい名前を与えられた。上流階級の子息ハンニバル・バルカが誕生した瞬間だった。
ただし、養子とは名ばかりで、豪商は美少年だったハンニバルを男娼として買い取ったのだ。綺麗な服と豪華な食事を与えられる反面、母親が若い頃に受けたのと同じような陵辱の日々が続いた。
母親と違うのは、そこで自分を見失ったり、人としてのプライドを捨てなかったところだった。普通ならスラム街で一生を過ごすであろう娼婦の子が、大商人の養子になったのだ。自由と力を手に入れる足がかりを得たのだ。彼は己を抑え、我慢強く、したたかに、のし上がるチャンスをじっと待った。
チャンスは思いのほか早く訪れた。養父の妻がハンニバルに声をかけてきたのだ。養父よりも20歳も若い夫人だった。夫が夢中になる美少年に、嫉妬から興味を持ったのかもしれない。
ハンニバルはこの機会を逃すまいと、言葉巧みに彼女へ取り入ろうとした。豪商人の男は、男児対象の小児愛好者だ。いつか成長して男らしい体つきになったら、捨てられる恐れがある。ハンニバルは夫人に乗り換えることにした。
若い夫人も、ペドフィリアで歳の離れた夫があまり相手をしなかったためか、欲求不満だったのかもしれない。ハンニバルの容貌と妖しい魅力に惹きつけられた。そして少年と男の境界線上にあるその体を弄ぶうちに、夫人は自分の夫以上に、ハンニバルを我が物にしたくなっていった。
やがて豪商人の男は死んだ。原因不明の突然死だった。
養母は養子にした少年の、若く瑞々(みずみず)しい体に夢中で、言いなりだった。
こうしてハンニバルは後ろ盾と金を得た。彼は上流階級と言う肩書きで、カルタゴの陸軍士官学校に入学したのだった。
卒業後、部隊に入ってからは、無双の怪力と不死身の肉体を駆使し、激戦地で多くの戦果を上げていった。順調に力と人脈、そして実績を積み上げていった。
そんなときだった、娼婦街にいる母親の使いだという者がやってきた。
母が亡くなったという知らせだった。
しかも知らせを受けたのは、死んで半年も経った後だった。遠征中だったため、連絡がつかなかったのだ。
思えばバルカ家の養子になってから、母には一度も会っていなかった。涙を流すのはこれが最後だ、と彼は心に決めた。
母の死を知らせに来た使いは、十代半ばの少女だった。ハンニバルが養子になった後、娼婦街に売られてきたらしい。娼館に来てから、ホームシックでずっと泣いていたという。だから母親が色々と気にかけていたそうだ。まるで娘のように。母の最期を看取ったのも彼女だった。気の弱そうな娘だった。何て名前だったか……そうだ、ローザだ。
半年もかけて自分を捜し出し、母の死を知らせてくれたことに、礼金をたっぷりとやって帰した。
母がこの世からいなくなり、娼婦の子は完全にいなくなった。いるのは陸軍士官のハンニバル・バルカのみだ。
彼はその後も順調に出世を重ねた。獅子奮迅の活躍ぶりを議会や民衆も称えた。
将官となり、爵位も授与された。
そして……自身の宿命と対峙するべき戦場がやってきた。というより、自分から望んで創り上げた戦争だった。
母を奴隷として扱い、自分の存在を知った瞬間に拒絶した国、ティル・ナ・ノーグへの侵攻だ。
この戦場で、ハンニバルは己の新たな能力に気づいた。怪力や不死身だけでなく、攻撃魔法の一切が効かなかったのだ。これも胎児のころに摂取し続けた、魔法薬の効果の一つだったのだろう。彼に魔法はまったくの無力だった。それで名うての魔導士を幾人も葬ってきた。
ハンニバルの部隊は破竹の勢いで勝っていった。その過程で、兵卒たちの略奪行為も当然あった。ハンニバルは黙認したが、自分がそれに加担することもなかった。また、逃走する部隊や無抵抗な民は相手にしなかった。
しかし唯一、彼自身の命令で徹底して追い詰めた魔導士達がいた。母を奴隷として買い取った、あの貴族の一家だった。
母をいいように弄んだ色男の嫡男は、現当主になっていた。すでに孫もいた。
ハンニバルは彼の親族を、老若男女問わず全員捕縛するように命じた。
己の血の宿命に、父親と思われるこの男とのケリをつけるために、戦争を起こしたも同義なのだ。ここで妥協はできない。ハンニバル軍の追跡は執拗で苛烈だった。遠縁の血縁者まで、その所在を暴いて捕らえていった。抵抗する場合には、殺すことも厭わなかった。
そして一族全員をあの屋敷に集めた。母親が複数の男に何度も何度も陵辱を受けた、忌まわしいあの屋敷である。
舞台は整い、己の宿命を洗い流すときがきた。
ハンニバルはまず、乳児を含む5歳以下の子供を、親の目の前で全員首吊りにして処刑した。その中には父親(当主)の孫もいた。
次に、歳の若い者から順に首を刎ねていった。このとき、処刑刀を振るったのがハンニバル自身だった。憎しみや恨みというよりも、何かを清算するかのように淡々とやってのけた。
屋敷は阿鼻叫喚の坩堝となったが、ハンニバルの耳には届かなかった。証拠として、振り下ろす刃はまったくブレなかったのだ。すべて一太刀で首を切断した。
やがて屋敷から叫び声は聞こえなくなった。最後に一人残っていたのは、自分の父親だけだった。
彼はハンニバルの前に首をさらしたとき、呪いの言葉を吐いた。
「この人でなしがっ。貴様にもワシらと同じ災いが訪れるよう、呪詛をかけてくれる。汝の子孫に災厄あれ。いつの日か一族郎党ことごとく滅びるがいい!」
「まったくその通りですよ。今まさに、我が一族にその災厄が訪れていますよ。父上」
◆
窓の外では、イサベルが馬車に乗り込もうとしている。国王が狩猟中に足を怪我したそうで、毎日見舞いに行っているらしい。
今日のイサベルはドレス姿だった。グラマラスな王妃とは違い、肉付きの薄い体をしている。だが乗馬で鍛えたスレンダー体系には、無駄な贅肉もなく、若くみずみずしい精気を感じる。
ハンニバルの海綿体は血流が盛んになり、ぐぐっと屹立した。
イサベルは、二階の部屋からハンニバルが自分を見ていることに気づいた。裸のハンニバルに、彼女は赤面して顔を背けた。そして逃げ込むように、馬車に乗り込んだ。馬車はすぐに出発して見えなくなった。
普段は大の男もたじろぐほど気が強いのに、色恋のこととなると急に言葉数少なくなり、恥らう。そのギャップを間近で見ていて興味をそそらないわけがない。ハンニバルは舌なめずりをした。
すると後ろで、王妃がまた寝返りうった。
ハンニバルはシャツを着て、ズボンを履いた。
昨日、ネミディアの魔女が市場で暴れ、捕縛しようとした軍警察も怪我を負ったという報告が入っている。これでネミディア人のスラムを捜索する大義名分を得た。危険な魔女を捜すという大義名分が……。
早速行動に移すとしよう。ハンニバルは寝室を出て行った。




