クイーンの駒
リーナの店へ向かい、ダウンタウンの寂れた路地を歩きながら、アルは溜息をついた。
ケーキもコートもフィアのために購入したものだった。今日は株のトレードでかなり儲けて気分が良かったから、その勢いで買ってきたプレゼントだ。
フィアの生家であるメイザース家は歴史が古く、伝統を重んじる家柄だ。特に宗家の者は、黒以外の衣服を着てはならない、という暗黙の決まりごとがあった。
それ故か、フィアの住んでいた屋敷には黒い服しかなかった。
ただ、黒色の服やローブは、魔導士の中でも最高位の者しか着ることが許されない色だ。
しかし、それも今は昔の話。ティル・ナ・ノーグもメイザース家も滅んだ今、そのような慣習に縛られる必要性など何処にもない。
あれだけマセた娘だ。きっともっと可愛いらしい服を着たいだろう。アルもあれほどの美少女を、いつまでもカラスにしておくのはもったいないと思っていた。
もっと明るくて華のある服をフィアに……。と買ってきた最高級ウール地のコートだった。
それを通り魔から助けた少女にあげてしまうなんて……。
我ながら気前が良すぎたかもしれない。
けれど、服を破かれていたから、あそこで何か羽織るものを与えておかないと風邪をひいてしまうだろう。それでなくとも晩秋のこの季節に、あの少女はかなりの薄着だった。コートはおろか、マントになるような布切れすら持ち合わせていなかった。
一般のネミディア人が、現在どれほど酷い貧困に喘いでいるのか、改めて思い知らされた気がする。
だからこれでよかったんだ、とアルは自分自身に言い聞かせた。
あとそれから、通り魔たちのことだ……。
あの少女が気を失わなければ、あそこでケリをつけられたのに……。少女を介抱している間に、通り魔たちを逃がしてしまった。
でも顔はしっかりと覚えた。確認しただけでも残り三人。これまで殺されていった者たちや、カディスに住むネミディア人の安全のためにも、いずれ見つけ出して、必ず――――――――――――殺す!
そのためには……気にくわないが、スコットに近づく必要があるかもしれない。通り魔たちの着ていた軍服は軍警察のものだった。スコットも確か同じ軍警察に所属していたはずだ。あのカルタゴ兵三人の有力な情報が入るかもしれない。
そこまで考えていたところで、アルはハタと歩みを止めた。
リーナの店の前にで、奇怪なものを見つけたからだ。それは所々に穴が開いた、古ぼけた麻袋だ。しかも麻袋の中には人が入っていた。
逆にいえば、麻袋一枚だけを着たフレッドがそこにいたのだ。それもみすぼらしく膝を抱え込んで座っていた。目には正気がなく、虚空の一点を見つめている。
「何してんだ、オヤジ?」
「おおっ、アルか……。まいったぜぇ、あのおチビぃ」
フレッドは苦笑いして首を振った。
「ちょぉっとからかっただけのつもりだったのによぉ、逆にコテンパンにやられちまったぁ。この通り、チェスで身包み剥がされちまったぜぇ……。おまけに土下座したときゃぁ、俺の頭を素足でグリグリ踏みやがってよぉ……。でもぉ、何故かぁ嫌な気はしなかったんだよなぁ……。むしろ快感でぇ……何ていうかぁ、もぅ少しで俺に新しい扉を開かせてくれそうだったんだぁ……。うん、ローザが五百ディールの値をつけたのがわかったぜぇ、あのおチビぃ……。しかし末恐ろしいおチビだぁ……」
「……どういうことなのか、もう少し詳しく話せ」
◆
アルが店内に入ると、フロアの中央には人垣が出来ていた。その中心のテーブルで、フィアはチェスをしている真っ最中だった。
対戦相手は何とあのスコットだ。
少女の傍の椅子には、チェスの戦利品が幾つも積まれている。その中には、趣味の悪い、フレッドの毛皮のコートもあった。
少女は親指をしゃぶって次の手を考えている。
「チェック」
フィアはビショップをd5にさした。するとスコットは
「ありません。負けです」
と敗北を宣言した。
人垣の群集はおおっと、歓声をあげて盛り上がった。
「すげえ、もう何連勝目だ?」
「わからん。無敗であることは確かだけど」
「グランドマスター並みの強さだぞ」
「噂じゃあの娘、リーナのお気に入りの上、ローザにも勧誘されているらしいぞ」
「あの二人に目えつけられてんのか……? 末恐ろしい娘がいたもんだ……」
フィアは満面の笑みで、じゃらじゃらと巻き上げた銀貨をかき集め、皮袋の中に入れている。
しかしアルの姿を見つけると、椅子をぴょんっと飛び降りて一目散に駆け寄ってきた。
「ねえねえアル、これリーナに着せてもらったんだけど、どう? 可愛い……かな?」
エプロンドレス姿のフィアは、スカートの裾ちょっと持ち上げ、恥らいながらくるっと一回転した。スカートが翻り、中がチラリと見える。
「お前……何て格好を……」
アルは頭を抱えた。
「ねえ~、どう? 可愛い?」
フィアは媚びるように再度訊ねてきた。
だがアルは黙ったまま、怒気を含んだ眼で少女を見下ろした。
「あの……アル、どうしたの? 可愛い……でしょ?」
「……フィア、フレッドに聞いたぞ、チェスで賭けたんだってな」
「あっ……」
フィアの顔がみるみる青くなっていく。チェスに夢中だったあまり、失念していたらしい。
「ご、ごめんなさい。でもそれは……」
「おまけにフレッドに恥をかかせたんだって? 何てことするんだ。後で謝っておけ」
「な、何で? あいつはアルを侮辱したのよ。だから……」
「だからって、言い付けを破ってもいい理由にはならないだろ」
「そんな……私はアルのためにしたのに……。どうしてわかってくれないのっ?」
「……わからないな。まったくわからない」
さっきまで晴れやかだったフィアの顔は歪んで、今にも泣き出しそうだ。
「はいはい、そこまでそこまで」
リーナが手をパンパンと叩いて仲裁した。
「もういいじゃない、アル。それにあなただって株やってるんだから、そんなに強く言える立場でもないでしょ」
「株はギャンブルじゃねえ。れっきとした事業だ」
「……本当に……男はどいつもこいつも……」
リーナは苦虫を噛み潰したような顔をして、アルを睨んだ。
「あの~、アルバートさん」
そこへスコットがおずおずと進み出てきた。
「相手になった僕も悪かったんです。だからその辺でフィアさんを許してあげてください」
アルはスコットをギロリと見据えた。
「これはうちの教育方針の問題だ。外野は口出ししないでくれ」
「………………………………………………」
アルは銀貨の入った皮袋を持ち上げた。それはアルの想像以上に重かった。
「お、お前……い、いったいいくら勝ったんだ?」
「え……っと、百ディールくらい……かな?」
「何っ!」
「言いつけやぶってごめんなさい、アル。それは全部元の持ち主に返します。だから……私のこと嫌わないで……」
「待て、フィア」
アルは手をかざしてフィアの言葉を制した。
「これは……返すには及ばない。一時的に俺が預かっておこう。いいな?」
「うん。アルがそうするって言うなら、私はそれでいいよ」
「そうか、よかった。それにしても悪かったな、フィア。さっきは少し言い過ぎたかもしれない」
「じゃあ、怒ってない? 私のこと嫌ってない?」
「俺がお前のことを嫌うはずがないだろ」
「ホント?」
「ああ。それからその格好、似合ってるぞ」
「……可愛い?」
「ああ、可愛いよ。世界一可愛いぞ」
アルはそこでフィアを力強く抱きしめ、耳元で囁く。
「愛してるぞ、フィア」
その言葉にフィアの全身がピクンッと小さく震えた。フィアはアルの胸の中で顔を赤らめ、至福に酔いしれた。
「私も……アル、大好き……」
「さあ、もう夜も深いから、上へ行って休みな」
「うん」
「寝る前にはちゃんと化粧を落とせよ」
「うん。おやすみ、アル」
「おやすみ、フィア」
フィアはアルの頬にキスをすると、幸せそうな足取りで二階へ上がっていった。
階段の途中でフィアは手を振った。アルもお返しに手を振る。
フィアが二階へ行った後、アルはリーナが雪女さえ凍りつかせそうな眼で、自分を睨んでいるのに気づいた。その迫力にアルは思わず、「うおっ!」と叫んで後ずさった。
「最っ低。あんな純粋な子、騙して。この女タラシのスケコマシっ! ロリコン! 変態! シスコン!」
「な、何だよ……」
「フンッ」
リーナは怒ってそっぽを向いた。
アルはとりあえずフレッドに服を返した。
「いいのかぁ?」
と、麻袋一枚のフレッドが尋ねる。
「ああ。代わりに、昨日今日と馬車代で借りた金はそれでチャラな」
「あぁっ?」
次に皮袋の中を見て、アルはニヤついた。
「こんな詐欺師が親代わりだなんて、フィア可哀そう……」
「立派な人だと思っていたのに……。激しく見損ないました、アルバートさん」
リーナとスコットに罵られると、アルは気まずそうな顔をした。
「う、うるせえなあ、二人とも…………ん?」
そこへ新しい客が一人、咳き切ってパブに飛び込んできた。
「おおい、大変だ。魔導士だ、さっきまたネミディアの魔導士が出たらしいぞ。例の通り魔だ!」
客の男はつばを飛ばしながら大声で捲くし立てる。
「しかも今度殺されたのはネミディアの子供じゃねえ。カルタゴ兵だ、軍警察の兵隊が殺されたんだってよ!」
「何だってっ?」
すぐさまスコットが反応した。
「何でも、旧市街を見回っていた軍人が、通り魔に襲われていたネミディアの子供を助けようとしたらしいんだけど、逆に返り討ちにあっちまったらしいぜ。
通り魔は捕まらずにどっか消えちまったらしい。娼婦街の方じゃすごい騒ぎになってるぞ」
「ちょっとすいません。それの詳しい場所、教えてくれませんか」
スコットは事件現場の場所を聞き出すと、アルとリーナに挨拶して、慌しく店を出て行った。
「どういうこと?」
スコットがいなくなると、リーナがアルを問い詰めた。
傍らで服を着ているフレッドも、不審そうな顔でちらちらと伺ってくる。
「まだ俺を疑っているのか? 昨日も言ったけど、通り魔事件と俺がカディスに現れた時期は一致しないぜ」
「……そうね。でも犯人が魔導士だっていうんなら、何か知っているかもしれないし、全く無関係とも思えない…………。あなたひょっとして、犯人が誰か知っているんじゃない?」
「まさか……。でももしそうだったらどうする?」
「もしそうだったら…………あなたは、ネミディア人を殺して回っているその犯人をどうする気なのかな? って思ったのよ」
「……」
「三年前までもそうだったけど、あなたを見ていると、強さと冷酷さの裏に儚さを感じるのよ。昔はやけっぱちで、今は酷く思いつめてて……どっちも見ていて、切なすぎる……」
「……俺は大丈夫だよ。そんな簡単に死んだりはしない」
「あなたはね。あなた一人なら、どんな修羅場でもくぐり抜けるでしょうね。でもフィアのことはどうなの? 今のような生き方で、あの子を守り通せる?」
「さっきから妙にフィアの肩を持つな。何かあったのか?」
「別に……。ただ今のやり取り見てたら、あなたがあの子のこと、ちゃんと考えてるのか不安になっただけよ」
「当たり前だろ」
アルはテーブルの上のチェス盤から、クイーンの駒を手に取った。
「フィアは俺の大事な大事な……そして唯一にして最強の持ち駒なんだからな」
アルはニヤリと意味深に笑った。




