リーナ、恋のあと(下)
鍋の仕込みが終わり、開店準備が一段落した後は、入浴するのがリーナの日課だった。開店前には体を清め、清潔な身なりで客を迎えるのだ、とリーナはフィアに説明してくれた。
浴室は、四階にあるリーナの部屋の隣だ。
フィアは脱衣所で服を脱ぐと、自分とリーナの裸体を、眼を皿のようにしてまじまじと何度も見比べた。
「な、何、フィア?」
凝視されているのに気づいたリーナが、胸の辺りを両手で隠しながら当惑気味に訊ねた。
「リーナは女なのよね?」
「あ、当たり前でしょっ! これのどこが男だっていうのよ?」
リーナは腰に手を当て、大股を開いて仁王立ちをした。
純朴な少女は言われた通り、リーナの裸体をじいっと観察し始めた。
「いや、あの……そんなにまじまじと見なくてもいいんじゃない……?」
「……あのね、昔おじい様に、女の方だけが子供を産めるように創られていて、だから男の人と女の人の体は違うんだって教わった。
でも、女同士なのに、私とリーナの体でも違うところがいくつもあるみたい。どうして? 産まれた国が違うから? 私が魔導士だから? それともリーナ、病気なの?」
「誰が病気を染されたって? 違うわよ。国や人種も関係ないわ。ただあなたがまだ子供で、私が大人だからよ」
すると今度はリーナが、フィアの白磁のようなまっさらな肢体を、じっくりと眺め回してきた。
「うんうん、まだまだこれから。成長途中のお子様の体ね」
フィアはむっとして頬を膨らませた。
「なーに、胸が膨らみ始めた後の女の成長は早いわ。あっという間に、フィアも私みたいな体になるわよ」
するとリーナは胸を張り、自分の乳房をフィアに向けて突き出した。
大きくて形の整った張りのあるバストに、フィアは圧倒されてたじろいだ。
「おっきい……。そんなにおっきいなら……ひょっとして……」
フィアは突然、リーナの乳房を鷲掴みにすると、ぎゅっぎゅっと何度も揉みしだいた。
「んあっ、なっ……何するの……?」
リーナはフィアの手を払い、両手で胸を隠しながら、当然のごとく抗議してきた。
「あれ? ケリーのお母様より大きいのに、おっぱい出ない……。どうして……?」
「……? な、何を言ってるの……?」
◆
浴室の窓からは隣の建物が見える。夕飯の支度を始めているのか、煙突からは煙が立ち上っている。
リーナは湯につかる前に、窓のカーテンを閉めた。
フィアはリーナと抱き合うようにして、一緒にバスタブに入った。
昨日の夜もリーナから借りて入った、一人用のバスタブだ。ただ、いくらフィアが小さいからといっても、二人で入浴するとさすがに狭い。ぎゅうぎゅう詰めとなり、お湯がこぼれそうになった。
母親に抱いてもらった記憶のないフィアは、リーナと抱き合うことで、初めて成熟した女性の体がどういうものかを知った。
リーナの肢体は上質なベッドのようにふかふかで柔らかかった。肌はしっとりとしていて、触れると吸い付くような潤いを感じる。試しに指先に力を入れて触ると、玉の肌のスベスベ感がかなり気持ちよかった。
けど、腹部と太ももの辺りは、外見上ほっそりとしているのに、注意してまさぐってみると鉛のように硬い。恐らくこの柔肌の下には、兵士や重労働者など屈強な男たちにも全く引けをとらない、鍛え抜かれた筋肉が隠されているのだろう。
そのことに気づいたフィアは、リーナに言い知れない畏怖を感じた。
「それで……私の昔の恋人の話だったわね」
「う……うん……」
バスタブの中でリーナはフィアを両足の間に挟み、後ろから抱きかかえるようにして語り始めた。
「私が初めて好きになった人は……ソニーっていうの」
「ソニー? どういう人? アルも知らない人?」
「んー、そうね。ソニーと付き合っていたのは、アルと出会う前のことだから……」
バスタブの中では黒髪とブロンド、二人の長い髪が水面上で絡み合う。
「彼と出合ったのは五歳くらいのときかな。さっき言ったように私は帝国産まれなのよ。ただ当時、帝国はカルタゴと戦争をしていてね、カルタゴ軍の軍路上にあった帝国領の私の村は、戦禍に巻き込まれて滅んだわ。そのとき家族も全員失った……。そうして一人でさまよっていたところを、あの頃はまだ小さな盗賊団のボスにすぎなかったフレッドに拾われたの……。
アルとロンを助けたのは、戦災孤児だった過去の自分と重なったからかもね……」
「ソニーは?」
「んー? ああ、そうか。ソニーはフレッドの一人息子なのよ」
「あのひげもじゃ原始人の?」
リーナはフィアのネーミングセンスに大笑いした。
「そう。あの原始人の息子よ。ソニーは母親が帝国人のハーフで、歳は私より四つ上だった」
「やっぱりクマか原始人みたいな、厳つい人だった?」
「ううん、全然。背のかなり高い偉丈夫だったけど、顔は母親似で、原始人とは似ても似つかないほどのハンサムだったよ。娼婦街じゃ評判の美丈夫だったんだから」
「へー」
「歳の近い私たちは、出会ってすぐ仲良くなった。ソニーは腕っ節も強かったけど、場末の無頼漢とは思えないほど学識もあってね、私に文字や計算や、その他にも生きていく上で必要な知識を色々教えてくれたわ。今の私があるのは確実に彼のおかげね。ううん、それだけじゃない。人との繋がりや生きる喜びとか……人生の全てを教えてくれた人……」
リーナは遠い眼をした。
「今になって考えると、幼い私には、彼が世界の全てのように映ってたのよね。
私は、血の繋がった兄のように彼を慕った。
彼も私を妹の可愛がって、大事にしてくれた。
それが大人になっていくにしたがって、より特別な想いに変わっていくのは、至極当然なことだったのかもね。そしてあるとき、彼のことを目にしたり、想ったりするときの、この胸の高鳴りがどういう感情なのか、その正体に気づいたんだけど……正直最初はちょっと戸惑ったわ。でもそれ以上に嬉しかった。
あの頃は、今よりももっと殺伐としていて、明日のことなんて誰もがわからないような時代だった。さらに私は親も兄弟も失って、天涯孤独の身の上……。
だけどソニーの腕の中にいれば、不思議と何の不安も迷いもなく、安心して眠れた。そうやって赤ん坊のように、彼にただ身を委ねていれば、私は間違いなく幸せになれるとわかっていた。
私が今のロンと同じ歳の頃には、私たちはすでに婚約してたわ」
フィアは話を聞いているうちに、リーナから見たソニーというのは、自分にとってのアルみたいな人だなと思うようになっていた。
「そうそう、そういえばこのバスタブ、ソニーが買ってくれたのよね」
言いながらリーナは、バスタブの縁を人差し指でなぞった。
「私があなたぐらいの歳のときだったかな。胸がふくらみだしたものだから、町の公衆浴場に行くと、よく他の男に裸をじろじろ見られるようになってね。それが気味悪いって言ったら、ソニーがすぐに買ってくれたのよ。私専用にって。多分ソニーも、私の裸を他の男に見られるのが耐えられなかったのかもね」
そこでリーナはちょっとニヤけた。
「独占欲が強いというか、ちょっと嫉妬深いところがあったわね、あいつ。
父親に似たのか、すぐに熱くなる激情家だったし……。
一度なんか、ここで湯浴みをしている私を覗こうとした部下を見つけると、仲間の見ている前で半殺しにしたこともあったかな。まあおかげでそれ以来、そんな無謀なことをする馬鹿は一人もいなくなったわけだけど」
「ソニーはリーナをとっても大事にしてたのね」
「うん……そうね」
「じゃあ、ソニーはどうしてリーナを振ったの? それともリーナが振ったの?」
和やかだったリーナの表情が、途端に暗くなった。
「……私たちの密輸団、何で藍色っていう名前なのかっていうとね、ソニーが仕事のときに、いつも藍色のマフラーやバンダナをしていたからなの。
フレッドが第一線を退いて、アンダーボスだったソニーが実質的に仕切るようになると、インディゴはさらに巨大化していった……。国内や周辺国の裏社会にあらゆるネットワークと兵隊を持ち、いつしかカルタゴ政府や軍も見過ごせないほどの巨大組織になっていたの。
そして七年前、インディゴ関係者の一斉検挙が行われたわ。私やフレッドは上手く逃れることが出来たんだけど、ソニーは運悪く捕まってしまったのよ。その捜査の指揮をしていたのが、当時は参謀本部の陸軍大佐だった、ハンニバル・バルカ……」
「ハンニバル……?」
フィアもその名は知っていた。
「そうよフィア、あなたの祖国を亡ぼした不死身の戦鬼でもあり、カルタゴでは英雄と称えられている現陸軍総司令官よ。
けど……相手がハンニバルだったとしても、ソニーがそんなに簡単に捕まるはずがない。きっと裏切り者がいたに違いないわ。仕事上や彼の性格からも、敵が多かったのは確かだったから。
しかも裁判が始まると、一緒に捕まった仲間の何人かが司法取引して、ソニー一人に全ての罪があるかのような証言をしたの……」
「……それで、ソニーは……?」
「……ソニーに下された判決は……死刑。それも……火刑だったわ……」
「う、嘘でしょ? ねえリーナ……」
リーナは無表情のまま、少し俯いた姿勢で淡々と話を続けた。
「処刑はポエニ川の河川敷で行われたわ。ここから歩いて三十分もかからない場所よ。他にも罪人が二人、彼と一緒に火あぶりにされることになってたわ。
私も頭巾で顔を隠して、それを見に行った……。
ソニーだって司法取引して、仲間の詳細や潜伏場所を言えば、減刑されて死ぬことはなかったのに……。でも彼は仲間を売らなかった。自分は信頼を寄せていた仲間に売られたっていうのに……。拷問にも屈しなかったって聞いた。ソニーは最後まで口を割らなかった……。
そのおかげで私は自由でいられるんだから……だから、怖いからって彼の最後を見に行かないわけにはいかなかった……」
「……」
「刑の当日、河川敷にはテーブルを運んでワインを飲む人もいれば、子供連れもいたわ。子供たちは磔台の前の方へって、我先にかき分けて行って騒いでいた。これから目の前で人が焼き殺されるっていうのに、群集はほとんどピクニック気分で来ているみたいだった。ううん、人の死ぬところがナマで見れるから楽しんでいたのよね。いずれ誰もが死ぬんだから、人の死以上に興味をそそることがこの世にあるはずないもの……。
ソニーたちを乗せた護送馬車が河川敷に現れると、野次馬からコールが起こった。『殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、……』って……。まるで合唱みたいに……」
リーナはフィアの二の腕を取り、身を傾けさせ、肩まで湯に浸からせた。二の腕から伝わってくるリーナの握力に、少女は言葉にならないほどの恐怖を感じた。
「でも刑が始まると、それも一変した。受刑者の叫び声がこだまし、人の焼け焦げる匂いが辺りに漂い始めると、さっきまであんなに好奇心に目をギラつかせていた野次馬の中から、吐いたり、逃げ出す人が現れたの。処刑場は混乱して、あちこちで人がドミノ倒しになった。それで死んだ人もいたわ……」
フィアを後ろから抱くリーナは、少女の胸と腰骨の辺りを掴んで、今まで以上に力強く引き寄せて抱きしめた。フィアは「んっ」と小さく喘いで反応した。
フィアの耳元で、リーナは囁くように語った。
「ねえフィア、知ってる? 人間って、火じゃなかなかすぐに死なないのよ。ソニーは長時間、業火に焼かれる苦しみを味わうことになったの。
するとそこにはいつもの頼り甲斐のある、憧れのソニーの姿はなかった。ただ、苦痛に顔を歪めて阿鼻叫喚する一人の受刑者しかいなかった……。
でも私は逃げずに、野次馬が錯雑した河川敷の片隅から、彼の死に様を一部始終見ていたわ。ソニーは私たちを逃がすために苦しんでいるのに、その私が目を逸らすわけにはいかないもの……。涙を呑み込みながら、彼が灰になるまで見守った……。
ソニーの灰は、その場でポエニ川に流された……。刑が終了すると、私は早足で家に戻って、店の中央で嘔吐したわ。胃の中の物を全部吐き出しながら私は思った。人間は何でこんなにも同じ人間に残酷になれるんだろう? って……」
「……」
「そういえばフィア、さっき私に、この町にたくさん友達がいてうらやましいって言ってたわね」
「う、うん……」
「うん。確かにそうなんだけどね……。でも私はこの町が嫌いよ。嫌いなの、大っ嫌いなの。だって、町中の人間全員で、よってたかってソニーを吊るし上げて、辱めて、嬲り殺しにしたんだから……。ソニーが捕まると、彼に世話になってた人も見て見ぬふりをしたくらいよ。
でも同時に、彼との思い出もいっぱいある町なのよね。特にポエニ川は……あの川は、カルタゴに重罪者の烙印を押されてお墓さえないソニーにとって、墓標のようなものだから……だからカルタゴが嫌いでも、カディスが大嫌いでも、私は今もここに住んでる……」
フィアは、自分を抱くリーナの手が震えているのに気付いた。そして、リーナが泣いているような気がして、後ろを振り返ることが出来なかった。
「アンダーボスだったソニーが捕まるとね、組織から離反者が出たり、内部分裂してったりして、インディゴはどんどん規模が小さくなってった……。
密輸業で昔みたいに大きな仕事が出来なくなると、フレッドは見切りをつけて為替や債券にのめりこんでいったわ。
それから、私を正式に養女として、組織内じゃ初の女幹部にもしてくれた。
……あと、息子のことは忘れて、新しい男をつくって、早く孫の顔でも見せてくれって……。そんな心にもないことを……。精一杯強がって、気遣ってるように見せてるのよね。そういう強がり言うところ、親子でよく似てるわ、あの二人……。
けどね……私は、何度もソニーに救われたこの命で、他の人と結ばれて幸せになるのが、何だか後ろめたいのよね……。いや、違うかな……そんなことをしても、幸せになれる気がしないのよ。その人が、ソニーと同じように、また私を置いてどこか遠い所へ行ってしまう気がして、怖くて……躊躇ってしまうの……」
「……でも………………でも、リーナだって、本当は幸せになりたいと思っているんでしょ?」
リーナの話を聞き終えたフィアの口から、何故かそんな言葉がついて出た。
リーナは少女の問いには何も答えず、ただ優しく微笑むだけだった。そしてフィアを優しく抱きしめ、ブロンドの髪を愛おしそうに撫でた。
少女は、リーナのふくよかな胸の中に顔を埋めた。
フィアは、アルの腕の中にいるときとは、別種の安らぎを感じていた。




