真っ暗森
かなり遅筆な方です。不定期更新となりますが、それでも読んでくれる方がいたら嬉しいです。
月は雲に隠れている。鬱蒼とした森を、一組の男女が必死に走っていた。
後ろからは銃口に銃剣を取り付けた、歩兵銃を持った兵隊が追ってくる。
奴らに捕まったら縛り首か火あぶりだ。冗談じゃない。
追われている青年は、右手に茶色のトランクケースを持ち、左手で少女の手を引いていた。
手を引かれているのは、真っ黒なロングワンピースを着てて、ショートマント風のケープを羽織った、十歳前後の小さな女の子だ。青年に急かされて走っている少女の息はひどく乱れていた。彼女のプラチナブロンドの長い髪に、玉の汗が煌く。
不意に背後から銃声がした。ビックリした女の子は、体が硬直した拍子に転んでしまった。
「大丈夫かフィア?」
青年はフィアと呼んだ少女を抱き起こした。
「痛った~……グス……」
フィアはベソをかいて膝を抱える。
「私もう走れないよ、アル」
はあはあと激しく息を切らして、フィアは青年に愚痴をこぼした。
「バカッ、捕まったら殺されるんだぞ」
「でも……」
そのとき後方から、追っ手たちの声が聞こえた。
「いたぞ、こっちだ。魔導士がいたぞ!」
「追え、追え!」
「捕まえろ。魔導士を捕まえたら、報奨は思いのままだ」
「奴らはデッド・オア・アライブ指定だ。手加減する必要はないぞ」
「殺せぇ!」
フィアは兵隊たちの言葉を聞いて蒼褪めた。
「くそ、仕方ない。フィア……」
アルという青年はフィアにトランクケースを渡した。
「それを持って、静かにしてろ」
アルが両手に魔力を溜めて地面に触れると、フィアの周りから何本かの木の芽が生えてきた。木の芽は夜空に向かって、みるみるうちに伸びていく。やがてそれらはフィアの体を包みながら繋がっていき、ついには一本の巨木になった。フィアは巨木の洞の中にいるような状態になっていた。
「そこから動くなよ」
そう言付けると、アルは密林の闇の中へ消えていった。
「アル……」
フィアはアルの後を追おうとした。が、兵隊たちの持つ松明の灯りが、近付いてくるのが見えたので思い止まった。
仕方なく洞の中で、預かったトランクケースを抱えながら小さくうずくまる。息を殺していると、すぐ隣を兵隊が何も気づかずに通り過ぎていった。
◆
四人の緑色の軍服を着た兵隊たちは、魔導士たちを見失った。
「何処へ行った?」
「わからん」
「くそっ、魔導士め……」
そこで兵隊の一人が何かに足をとられた気がした。足元を見ると、自分の両足が足首まで地面に埋まっている。
さらにそこから一気に地中へと引きずり込まれていった。
「う、うわああぁぁぁ……」
仲間の兵隊が手を掴んで助けようとしたが遅かった。その兵隊は地中深くに飲まれて消えた。彼を飲み込んだ後の地表には、すでに何の痕跡もない。
「な、何だこれは?」
「魔法だ……」
「これが魔導士を処刑しなければならない理由か……」
「気をつけろ、近くにいるぞ」
残った三人の兵隊たちは動揺した。
すると今度は、樹木の蔦が蛇のような動きで、別の兵隊に絡みついてきた。そのまま横の木に縛りつけると、徐々に頚動脈を締め上げていく。
他の二人の兵隊は、彼が苦しみながら絞殺されていく様子を、嫌というほど見せるけられた。兵隊は泡を吹き、眼を充血させて死んでいった。
二人の兵隊は言葉を失い、森は不気味な静けさに包まれる。
やがて兵隊の絞殺死体を縛っている木の後ろから、おもむろに魔導士が、松明の灯りの中にその姿を現した。
痩身の男で、フードのついた茶色いレザーコートを着ている。フードを目深に被っているため、松明の灯りだけでは表情がよく伺えない。
だが、フードの下から覗く、狼のように鋭い銀色の瞳がやけに印象的だ。
そして腰には美しい装飾を施した一本の剣を提げている。
魔導士は、死んだ兵隊の歩兵銃をゆるりと拾い上げた。
それを見た兵隊が、気合と共に自身の銃剣のついた歩兵銃を振るった。銃剣は魔導士の顔面を串刺しにした。かのように見えたが、被っているフードをわずかに引き裂いただけだった。
銃剣を避けた魔導士は、自分の提げている剣は使わず、拾った歩兵銃の銃剣の切っ先で兵隊の首を軽く引っ掛けた。
頚動脈が斬られ、首筋から鮮血が噴き出す。兵隊は首を押さえながら仲間を見つめた。その眼は助けてくれとすがっている。が無情にも、出血多量で彼もまたあえなく絶命した。
「あと……一人……、お前だけか」
最後の一人となった兵隊はそこで、魔導士のフードが外れ、松明の灯りの下にその素顔が露わになっていることに気付いた。ブラウン色のショートヘア。歳はおそらく二十歳前後。そして、たった今目撃したような、容易に人の命を奪える人間とは思えない程の優男だ。
魔導士は静かに彼を見つめた。
魔導士の顔が整っていることが、逆に恐怖心を煽る。
兵隊は恐ろしさのあまり、松明も歩兵銃も放り出して逃げ出した。
灯りを失い、何も見えなくなった暗闇の中の逃走。自分が何処に向かい、何処を走って逃げているのか、彼自身にもわからなかった。
「悪いが、顔を見られたんで逃がすわけにはいかないな」
魔導士は足元に落ちた松明の炎を魔力で操った。炎は魔導士の手の平の上に集まり、さらに激しく熱を帯びて燃え出した。
◆
雲が移ろい、半月が森を照らし出した。
フィアは親指を吸いながら、洞の中でじっとアルを待っていた。兵隊たちがいなくなってから随分時間が経つ。それでもアルはまだ戻ってこない。もしかして捕まってしまったのだろうか?
そう思ったらいてもたってもいられなかった。
洞を抜け出して、アルを捜し始めた。
「アル? アルー! 何処ー? ぐずっ……」
フィアはトランクケースを抱え、ベソをかきながら、夜中の森をさ迷い歩いた。
「アルー? ねえ、何処なのー? ……きゃあっ!」
突然何かに躓いて、フィアは転んだ。
何に躓いたのだろうかと手探りすると、妙に生温かく、柔らかいものを掴んだ。これはもしかして……
「ひっ、人……? ……うっ……ううっ……」
フィアは恐怖のあまり泣き出した。
その瞬間、少女は背後から何者かに口を塞がれた。
「んーーっ」
フィアは心の中で「アル、助けて!」と何度も叫びながらもがいた。
すると相手はフィアの耳元で告げた。
「俺だ、フィア」
「アル!?」
フィアはアルの首筋にしがみついた。
アルもフィアのか細い背中を抱きしめた。
「まったくこのじゃじゃ馬め、どうして待たずに動いたんだ。捜したぞ。しかも大声出して……。カルタゴ兵に見つかるだろ」
「だって怖かったんだもん。アルどっかに行っちゃって。これ何? 誰か倒れてるよ」
アルはそれをフィアに見せないようにした。
「切り株だろ」
「柔らかかったよ?」
「カルタゴにはそういう切り株もあるんだよ。ほら、おぶってやる」
アルはフィアを背負い、トランクケースを持つと、薄明かりの樹林を歩き始めた。
アルは歩きながら背中のフィアに言った。
「なあフィア、前にも言ったが、俺はこれからカルタゴへ大事な仕事をしに行くんだ。ネミディアのための重要な仕事だ。フィアにも力を貸してもらいたいんだけど、いいよな?」
「……うん、いいよ。私、アルのためだったら何でもするもん」
「そうか、ありがとう……」
「ね~えアル、私のこと愛してるぅ?」
フィアは急に舌ったらずな猫なで声で訊いてきた。
「あのさあ、お前そういうこといったいいつも何処で覚えてくるんだ?」
「いいからぁ。愛してるぅ? 愛してるって言ってくれなきゃ、力貸してあげないっ」
「やれやれ……。ああ、この世界で一番大切な女の子だよ」
「んふっ、嬉しい。私も。私はアルだけのモノよ」
フィアはアルの首筋にかじりついて、その首筋の匂いを嗅いだ。
精力溢れる大人の男の匂いだ。タフで頼りがいがあって、常に危険を伴う男の匂い。危うくて刹那的で刺激的な甘い匂いにフィアはクラクラした。
でも今日は、いつものアルからは感じない、別の臭いが混じっていた。
すえた鉄錆のような臭いと、髪が焦げるような臭いだ。そっちの臭いにはあまりいい感じがしない。
そこでアルはフィアに訊ねた。
「フィア……お前ひょっとして少し胸が膨らんできた?」
「や~、アルのえっち~。今夜は優しくしてね、キャハッ!」
「お前、それ絶対意味分かってないで言っているだろ?」
子育てに疲弊したアルの溜息が洩れた。
二人が去った後の地面には、顔を焼かれた無残なカルタゴ兵の屍が転がっていた。