20.桐塚優乃を襲う恐怖
何か、暗い。
ので、さくっと進めたいと思います。
ふわり、とふくよかな香りが鼻をくすぐった。
ぼんやりとしていたあたしの意識が、導かれるようにして現実に戻る。
目の前に暖かそうな飲み物が入った金属製のコップが置かれていた。
「ユウノ様。ラガティです。体が温まりますから、召し上がってください」
レジーナさんがあたしの手にコップを握らせた。ラガティはブレンドした香草をラガっていう草食動物の乳で煮出した飲み物だ。
じんわりとした温かさが、手の平に伝わってきた。そこであたしは自分の身体が冷え切っ
ていることに気付いた。
「……レジーナさん」
「はい」
「いただきます」
「はい」
花の蜜を混ぜたのだろう。しつこくない甘さが口の中に広がった。
ゆっくりとラガティを飲むあたしに、レジーナさんが安堵したように表情を緩ませた。
「お体が冷えておられます。お湯につかられますか?」
「いえ。これで十分です」
「かしこまりました。では、せめてもう一杯お召しください」
「ありがとうございます」
いつの間にかコップの中身が空になっていた。レジーナさんがすでにラガティを注いであった新しいコップをあたしの手の中の物と交換する。
淹れたてみたいに暖かい。たぶん保温しておいてくれたんだろう。
レジーナさんの気遣いに感謝しながら、コップに口をつける。沈黙がその場を支配していた。
「……あのヒトはどうなりましたか?」
あのヒトっていうのは、あたしを襲ってきた黒づくめの事。戦闘が終わってすぐに、異常に気付いたレジーナさんと二人のメイドさんが駆け込んできて彼を捕まえてくれた。
アメリカンショートヘアタイプのメイドさんは、灰色の毛並みに黒い線を持っていた。緑の瞳に、黒い瞳孔を持つちょっと丸顔のビョウ族の女性。
妖精さんは、カヨウ族っていう種族だったと思う。七歳の女の子くらいの身長をした二十代後半くらいの面長の顔をした女性。尖った細長い耳と、白目部分のない小さな丸い青い目とお団子にまとめた空色の髪を持っていた。背中には、トンボの物によく似た二対の羽がある。
二人は 襲撃者を引っ立てて部屋から出て行った。
その間、あたしは動くことはできずにへたり込んでいた。傍にずっとレジーナさんがいてくれたことは分かったけど、何も言えなかった。
すごく現実が遠くて、自分の周囲で起きていることが映画みたいに見えた。動かないあたしを、レジーナさんが横抱きにしてソファに運んでくれてもお礼すらいえなかった。
怖くて怖くて。
夢なら覚めてって思っていたけど、残念ながらあたしは起きていたらしい。
ラガティを飲んで、少しだけ落ち着いた心が現実を見ろ、と訴えている。
なら、あたしがやってしまったことの結果を知らなくちゃ。
「自害いたしました。どうやら雇われた殺し屋だったようです」
あたしの質問にレジーナさんは淡々と答えた。
殺し屋って暗殺者の事だよね。なんでそんなヒトにあたしが狙われなくちゃいけないの?
「あたし、誰かに恨まれるようなことしたっけ……」
「世の中には逆恨み、というものがあります。ユウノ様には非はございません」
「逆恨みかあ。あたしたちに毒を盛ったヒトが、あたしたちを鬱陶しく思っているんですかね」
「おそらくは。暗殺者の雇い主はまだわかっておりませんから、断定はできませんが」
「そうですか。教えてくれて、ありがとうございます」
あたしみたいな小娘(百歳未満なんてまだまだお子様だ)にも、包み隠さず事実を教えてくれるレジーナさんには感謝しかできない。
それにしても。
黒幕が捕まっていないなら、この先も命を狙われる可能性があるってことかな。
嫌だ。
そんなの、嫌だ。
きっと、またあんな風に凶器を向けられて、死ぬ覚悟をして。
相手を傷つけるのだろう。
怖い。自分が殺されることよりも、相手を傷つけることに恐怖を感じた。
自分の身を守る為だ。正当防衛だって思っても怖いものは怖い。
あの、肉を切る感触が忘れられない。
それとも、何度も戦っていれば慣れちゃうのかな。
そのうち、誰かの命を奪うことになって、それが当然になっちゃうのかな。
怖い。
嫌だ。
あたしは、人間だ。
人を殺したら罪になるような国で生まれ育ったただの女の子だ。
今は、陰謀なんて関係ない場所で働くただの洗濯メイドだ。
殺し合いなんて、命の取り合いなんて、したく、ない。
「ユウノ様?!いかがなさいました?ご気分が悪いのですか?」
レジーナさんが顔色を変えて、慌てている。なんでだろう。
あたしは、座ってラガティを飲んでいるだけなのに。
ぽたり。
コップを持っている手に、雫が落ちた。中身をこぼしちゃったって慌てたけど、熱くない。
ぽたり、ぽたり。
次々と落ちてくる雫にあたしはようやく泣いていることに気付いた。
レジーナさんが、そっとあたしの手からコップをとった。おかしいくらい手が強張っていた。それを一本一本ゆっくりとはずしてくれた。
それから、代わりにのように薄い布を持たせてくれた。
ハンカチだ。
そう気づいた瞬間、あたしは大声を上げて泣き出した。
さっきの戦闘の恐怖。
命を狙われたことに対する混乱。
毒を盛られたこと。
ケノウたちが死にかけたこと。
あたしの環境が〝また〟変わること。
がむしゃらに生きてきた三十余年が目をそらしてきたもの。
眠り続けて失われた二十年への後悔。
問答無用で連れてこられた異世界への理不尽。
そのすべてが一気に襲い掛かってきて。
あたしは泣いた。




