黄昏ベルベット
思いつくままに2時間程度でさっくり書いたお話です。つっこみどころ満載かもしれませんが、気楽に読んでやってください。^^
オレンジ色の夕日が、教室の中を照らしている。
放課後、主のいない机と椅子が整然と並び、まるで作り物の空間みたいだ。
それでも消えないかすかな残り香は、つんと青臭い高校生活の匂い。現役で満喫している彼らには決してわからないこの郷愁。そして――胸に疼く小さな傷跡。
「あーあ。ぐちゃぐちゃにゴミとか入れちゃって」
くすっと笑い、わざと呟いてみる。そうすることで、現実を思い出すからだ。
今、自分はもうあの頃の制服姿じゃない。あの時みたいに、ドキドキする想いも抱えていない。
抱えていたほうがよかった――なんて思ってしまうのは、ただひたすら、現実が乾ききっているからなのかもしれない。
気づけばもう二十代も後半に足をつっこんで、下手すりゃ十は年下の人間相手に日々弁舌をふるっている日々。それが紛れもない自分の夢で、叶えられたことは誇っていいのだろう。
なのに、手にしてしまえばただ当然の時間になって、単なる日常の連続に変わる。教卓の向こう、決して届かないひとに焦がれて泣いて、その想いを夢という形にすり替えて、教師を目指した。
(今頃、どうしているかな)
忘れた過去、葬った恋心。だから、別に辛くなんてない。
ただ、こんな黄昏に包まれる一時だけ、思い出してしまうだけ――。
一番後ろの窓際、やや素行に問題ありの生徒が座る机の中味を掻き出して、明らかなゴミを捨てる。
そんな作業を済ませると、教室全体を見回して鍵をかけた。
いつもの見回り、いつものルーティン。
それが崩れたのは、三年生の教室を覗いた時だった。
「あら」
思わず、声が漏れた。今度は無意識のものだ。
みんな帰った後だと信じきっていたのに、まだ生徒が残っていた。テスト前だから部活動もない。それなのにどうしてか、わからない。ただ、一人少年が眠っていたのだ。
顔を見た瞬間、名前も授業態度も思い出した。船橋玲、なんていう中性的な名前同様、整った顔立ちに薄茶色の髪が印象的な生徒だった。かといって染めているのではなく、天然なのだという。彼のおじいさんだかがクオーターで、玲にもその影響が出たらしかった。容姿と共に明るい性格で、女生徒はもちろん男子生徒にも人気がある。それでいて頭もよく、質問なども的を付いたものをする優等生――そんな彼が一人で残っているなんて。
「えっと……船橋くん?」
ためらいつつ、呼びかけてみる。が、机に突っ伏し、端正な寝顔を無防備にさらしている玲が起きる様子はない。
「起きなさい。もう鍵閉めちゃうわよ」
できるだけ事務的に聞こえるよう、それでいて冷たく響かないよう、気をつけながらもう一度。ついでに、そっと肩のところに手をかけて、軽くゆすってみる。
(まだ起きないなんて、もしかしてわざとやってる?)
そんな疑いがむくりと芽を出すが、目の前の寝顔はとても静かで、まぶた一つ動きはしない。規則的な寝息もたてていて、わずかに開いた唇などは演技と思えない自然さだった。
「熟睡してるのかな……」
ため息をついて、どうやって起こそうか再考する。自分も早く帰って教案をまとめたいし、色々やることだってある。疲れがたまった金曜日だ。ぬるめのお風呂に文庫本を持ち込んで、半身浴。それからとれかけのペディキュアも塗りなおしたい。そういえば、見たいテレビもあった。
やるべきことは順序だてて思いつくし、無理やりにでも起こすのが当然の選択肢だろう。それなのに、なぜかすぐにそうする気になれなかった。
長い昼間が終わって、夜の闇とバトンタッチするこの夕方。一日の中で、一番優しく、一番妖しい明かりに照らされるわずかな時間。昔から、私が特に好きな時間帯だ。
(そういえば、あの時も――)
ふと胸に蘇るのは、懐かしく、ほろ苦い思い出。初めて本気で男の人を好きになった――と、少なくとも当時は信じていた――高校の二年間。他の学校から転勤してきたひとまわりも年上の彼の記憶。
家庭の問題でふてくされていた私を何かと気にかけ、励ましてくれた。女の子の輪に入れなくて、一人屋上にいた昼休み、隠れてタバコを吸いに出てきたのを見つけて。ばつが悪そうに苦笑しながら、それでも色々話し相手になってくれた。あのひとの横顔が、笑顔が、まなざしが――突然鮮やかに蘇る。
あれは卒業間際、ついに想いを告白しようとした日だった。恋の終わりは、唐突に訪れた。
結婚。遅めの春を照れくさそうに報告してきたあのひとは、私の想いになんて微塵も気づいていなかった。だからこそ、言えなかった。言ってはいけないのだ、と悟った。
それなのに抑え付けた恋心は勝手に暴走して、思わぬ行動を自分自身に取らせたのだ。
一人、教室に残っていた私は、ちょうどあのひとが戻ってくるのを知った。教卓に忘れ物があったとか、確かそんな理由だったと思う。それで、急いで自分の机に突っ伏して、眠ったふりをした。すぐに見つけてくれたあのひとが声をかけても、揺すっても、寝ている演技を続けた。
ふっとため息をついた後、かなり長い時間が経過したような気がしたけれど――実際は数秒だったかもしれない。とにかく、困ったような苦笑の気配があって、そっと頭が撫でられたのだ。
あの頃の自分には、それだけでものすごい奇跡だった。想いを告げて、応えてもらうことはできなくても、こうして触れられただけでいい。この優しい、一瞬の感覚だけを大切に大切に、宝物みたいに胸の奥におさめて、忘れようと決意した。あふれそうになった涙を必死でこらえて、できる限り自然を装って起き上がり、挨拶をし、教室の扉を開けた。あの、切なくて苦しい、それなのに幸せな記憶の一ページ。それが今、人物を変えて再現されたような気がしたのだった。
(何を考えてるの、私ったら)
いい年をして、妙な感傷にひたっていたせいかもしれない。だから、あわてて頭を振って、玲の髪に伸ばしかけていた手を空中で握り締めた。夕日に彩られ、やわらかく輝く髪――それに触れようとしていた自分が信じられなかった。
「……っ!」
あまりのことに声が出なかった。引っ込めようとしたその手を、いや、正確に言うと手首を――今の今まで眠っていると疑わなかった玲によって掴まれたのだ。
「なんだ、つまんないの」
年齢にしては低く、どこか色気さえ感じさせる声がそう言った。
「な……っ、お、起きてたのね? それなら早く――」
動揺を悟られたくなくて、教師の顔を素早く作る。こんな悪戯程度には、全く驚きもしないんだと。
それなのに正直な心臓は、いつもより倍増しで脈打っていた。
「頭ぐらいは撫でてくれんのかなーと思ったのに、先生意外と奥手なんだ」
「はあ?」
「いいじゃん、そんな緊張しなくてもさ。別に取って食おうってわけじゃないし。それに今時、教師と生徒がどうとか、固いこと誰も気にしないって」
「何言ってるの……?」
不審な思いに、掴まれたままの手首を引こうとする。それなのに玲は離そうとせず、そのままガタリと音を立てて椅子から立ち上がった。百八十はある長身だから、いくら教え子といっても警戒してしまった。
「ねえ先生、イイコトしようよ」
美しい顔、美しい唇。その朱が、夕焼けの光に映えている。ゆっくりと唇を舐めて、微笑む。あくまでも気安く、まるで世間話の続きのように玲は言った。
「な、何を――離して……離しなさい!」
精一杯教師の威厳を込めたつもりの声は、鼻で笑われただけ。掴んだ手首を引き寄せ、玲が耳元に囁く。
「俺、ずっと前から先生が好きだった。その銀縁のメガネも、ぱりっと清潔な白いブラウスも、いつも地味なスーツも――全部クールで、真面目を装ってるけど、本当はそうじゃない。先生と俺は似てる。どこか、満たされてない。だから毎日、面白くなさそうな顔で授業してる。そうだろ?」
俺たち、似た者同士なんだよ――くすくす笑いながら、それでいて冷め切った表情で言われて、ドキリとした。目の前のオトコがまだ高校生の子供で、教え子で、なんて事情を忘れて、思いきり突き飛ばした。
「認めないんだ。でもさ、俺にはわかるよ。教師やってるけど、本当は生徒のことなんて一ミリも興味持ってないんだろ? 真面目な顔して授業してるその頭で、週末何しよう、とか考えてる。そんな先生だから俺は好きなんだ。一人の女として、同志として」
「ばっ、馬鹿なこと言わないで」
はねつけたつもりなのに、言葉は弱く、か細く床に落ちていく。勝ち誇ったような笑みを浮かべた玲に、本当は何もかも見透かされているのだとわかっていたから。
「いいじゃん。誰もいないんだから、キスぐらい。いや、何ならそれ以上だってさ――」
悪魔のような囁きが、すぐそばで聞こえる。自分のまっすぐな髪を――後ろで束ねたそれを片手で取り、ゆっくりと撫でられる。抵抗できない私に調子付いたのか、その手が頭にも回った。まるで立場が逆になったかのように、優しく撫でられてやっと、私は我に返った。
「違う……」
小さく、口の中にこもった声を、玲は聞き取れなかったらしい。そのまま後頭部を片手で支え、引き寄せようとするのを、思いきりふりはらうことで拒絶した。
「何すんだよ!」
完全に勝ちだと思っていたのか。玲は頬をかすかに染めて、瞳にも屈辱の色を明らかに浮かべている。
睨み付けられているのに、なぜだか腹は立たなかった。
そのまま一筋、零れ落ちた私の涙に、さすがに戸惑ったのだろうか。唇を噛む玲を見上げ、私は静かに首を横に振る。
「違う。ううん、私のことはいい。だって本当に当たってるから――未熟で、全然『らしく』ない教師。それなのに惰性で毎日こなしてる。いけないよね……でも、あなたは違うわ、船橋くん」
「――はあ?」
先ほど自分が口にした言葉を、今度は玲が眉を寄せて言った。そっと一歩、そして二歩近づいて――少し背伸びした私は、一瞬のためらいを打ち消して彼の頭を撫でた。色素の薄い玲の両目が、純粋な驚愕に見開かれる。微笑みが、自然と沸きあがった。
「こんな、十も年上のセンセイなんかとイイコトして満足するような――そんな風に自分をいじめて喜んでていいひとじゃない。あなたはまだ高校生で、その前には……無限の道が広がってる。だから、あきらめないで。自分自身を、切り捨てないで」
「……何、くっせー台詞。急に教師ぶってさ、バカじゃねえ?」
「そうだね。自分でも馬鹿みたい。本当は、もっと前からこうしてなきゃいけなかったのにね」
ふふっと笑って、自分で気づいた。こんな風に笑うのも、久しぶりだということに。
どうして教師になりたいと思ったのか。なぜ、あの頃の自分と同じ高校で働こうと思ったのか。
胸の奥にしまいこんだ想いと一緒に、忘れてしまっていたのだ。
「理想の教師なんてさ、きっといないんだよ」
自嘲の笑みでそう言うと、ますます不可解そうな顔をする玲。やっと、年相応の表情になった。
(それでもそうなろうとして、あがくことが大事なんだ。必死で、追いつこうとすることが……)
もしかして、あのひともそうだったのだろうか。
ずっとずっと遥か上にいた存在が、不思議なほど近く思い起こせた。
玲の瞳にあの頃の自分と同じ想いが宿るのか、そうでないのか――そんなことはわからない。恋心なんて、自分自身にもわからないのだ。傍から見て読み取れるほどあまいものじゃないはずで。
あのひとが気づいていたのか、そうでないのか――だからきっと、それも大したことじゃない。
ただ、わかったのだから。あの日、黄昏の中で頭を撫でてくれた手は、本気で自分を慈しむものだった。優しく、励ましてくれるものだった。それだけで、むくわれたこと。真実なんて、一つしかない。
「あのね、船橋くん」
「……何だよ」
単なる悪戯か、ストレス解消のお遊びか、それとも本当の誘いか。わからないけれど、拒絶され、しかも説教らしき展開にまでなったことにふてくされたような顔。その薄茶色の髪の、ベルベットみたいな感触を掌で蘇らせながら、私は微笑んだ。精一杯優しく、教師の顔をして。
「こんな出来損ない教師でよければ、何でも相談に乗るから」
いつでも言ってよね、と言い残して、背を向ける。
振り向かずに手を振る私に、玲は何も答えなかった。
体だけ成長したオトコノコの、戸惑ったような、それでいてほっとしたような――最後の表情が、あのひとのものと重なる。ずっと抱いていた、くすぶった記憶が、夕焼けに混ざり、溶けていく。
優しい優しい黄昏。全てを包み込んで、明日へと導いてくれる夕日が、私の頭を撫でてくれた気がした。