素直になれたら
絶対に奴を好きになることはない、そう思っていた。
クラス委員長の浅羽芽衣は、騒がしい教室に知的な目を細め、細身の紅い眼鏡を指先で押し上げた。
頭痛がする。これからホームルームが始まるというのに、高校一年生にもなって、このクラスにはまとまりというものがない。
もともと委員長にもなりたくてなったわけではなく、担任に泣き付かれて引き受けたのだ。今となってはかなり後悔している。
「静かにしてくださいっ! もう先生がくるよ!!」
「まーた真面目ちゃんがなにか言ってるぜ。皆、どーするよ?」
「知らねぇー」
「勝手にやらせとけば?」
騒ぎの中心にいる奴が仲間に尋ねると、ふざけた笑い声があがる。
奴ことクラス一のお調子者、喜田川光地は、芽衣の天敵だ。
整った顔と、柔らかそうそうな茶髪。その口元は意地悪に笑っていることが多いが、クラスの女子からはそこがいいと人気がある。芽衣には理解できないが。
「光地君、いいかげんにしなよ。先生に怒られるよ?」
「そうだぜ。先生の前に、委員長がそろそろぶち切れるぞ」
クラスメイトが騒ぎを収めようと協力してくれるが、それは芽衣の怒りに油を注ぐだけだった。
そう、もはやクラスではこれが普通になっている。一言で言い表すなら、二人が犬猿の仲だからだ。
芽衣は深く息を吸うと、とうとう低い怒声を上げた。
「そこのお調子者と不愉快な仲間達、いい加減にしな。いいから、さっさと、席につけ!!」
「ひゃー、怖っ! 委員長ったら迫力満点だな」
「ははっ、オレ達のこと不愉快な仲間達だってよ。こんなに愉快なのにねぇ」
「委員長のネーミングセンスって毎回笑えるよな?」
「だな。しかも真面目ちゃんは、けっこう口が悪いときてる」
叱り飛ばされて、ようやく机を戻しに動く集団に、芽衣は内心誰のせいだと思いっきり突っ込んだ。
その時、チャイムが鳴り響いた。そして担任と副委員長の伊藤一馬が姿を現す。
「やぁ、おはよう諸君。今日はもう終了かな?」
「先生、見世物じゃないんスから。怒り心頭の芽衣に、ガソリンぶっ掛けないで下さいよ」
「一馬、あんたのはフォローになってないから。先生は早くホームルームを始めて下さい」
こうして、今日も芽衣の朝は始まった。深々とため息が出る。なんとも先行きが不安だった。
全ての授業が終了すると、芽衣はさっと教科書を片付けて、帰る準備をする。
「あれぇ? そんなに慌ててどうしたよ。真面目ちゃんはこの後塾でもいくの?」
どこまでも馬鹿にしながら絡んでくる光地に、芽衣はちらりと視線を投げて、吐き捨てた。
「お調子者、あんたには関係ないでしょ。とっととお家に帰ったら?」
「真面目ちゃんは冷たいねぇ。いっくら学年一位でも、お前みたいにお高くとまってる奴、オレはごめんだな」
「それは幸いだね。私もあんたみたいなお調子者はお金を積まれてもごめんだよ。──一馬、今日は先に帰るね。また明日」
「あぁ、また明日なー」
芽衣は光地を無視して、挨拶もそこそこに教室を出る。今日は急いで帰らなければいけない。
しかし学校を出た所で、はっとした。課題のプリントを忘れていたのだ。
即座に踵を返した芽衣は、学校へ戻ると上履きを履くのももどかしく、階段を駆け上がる。
廊下を早足で歩きながら、迂闊な自分に舌打ちする。もう一度、あのお調子者と顔を合わすかと思うと気が滅入った。
教室の傍まで来ると中から声が聞こえて、芽衣はぎくりと身体を強張らせる。
「伊藤もさぁ、よく副委員長なんかする気になったな。真面目ちゃんに扱き使われてんじゃねぇの?」
「ははっ、酷い言われようだな。芽衣はそんなことしないぜ? きついとこもあるけどさ、あいつは凄い良い奴だよ」
「へぇー? 本当かねぇ? 眉間にいつも皺よせてるし、おっかない顔しちゃってさ。あいつは絶対女じゃないね」
「オレもそう思う。委員長って頭は凄くいいけど、なんかとっつきにくいんだよな」
「だよなー?」
その瞬間、芽衣は本日二度目のマジ切れをした。
バンッと乱暴に教室の扉を開くと、固まった集団が出迎えてくれる。
芽衣は周囲を一睨みすると、無言で自分の机に戻り、目的のプリントを取り出す。
「あー……今の、聞いて?」
気まずそうに話しかけてくるお調子者を黙殺して、芽衣は鞄にプリントを入れるとスタスタと戻る。
そして、扉の前でぴたりと止まると、顔だけ振り振り向かせ一言返した。
「大丈夫だよ。わたしも陰口叩くような女々しい奴は、男じゃないって思ってるから」
これまでにない冷ややかな視線をくれてやると、芽衣は教室を後にした。
芽衣は滲む涙を拭って、道を歩き出す。
強く唇を噛む。悔しかった。なにも知らないくせにと叫びたくなった。言いたい放題言っていたあいつ等を、心の底からぶっ飛ばしてやりたい。
自分が学年一位を取ったのは、頭が良いからじゃない。叶えたい願いのために必死に努力したからだ。
芽衣は中学の頃からボランティアで老人施設を回っていた。そしてそこで夢を見つけたのだ。
介護士になりたい。将来的には資格をとり、福祉関係の仕事につきたい、そう思うようになった。
だが両親はそれを一時の気の迷いと取り、良い顔をしない。
そこで芽衣は考えた。両親が反対するのなら、その反対をねじ伏せられるほど、自分が本気だと示せばいい。
だから芽衣は勉強を頑張り、成績をキープすることで両親に理解を得ようとしていたのだ。
──たとえ誰に馬鹿にされても、夢のために頑張ろう。
芽衣は気持ちを落ち着けると、家へと急いだ。
次の日の朝早く、芽衣はいつも通り教室に一番乗りして、さっそく教科書を開いていた。
昨日、家庭教師をしてくれた姉に教わったことを復習して、今日の授業に備える。
誰かが来るまでにはまだ時間があるはずだ。
しかし始めて十分もしない内に、近づく足音に芽衣は気付く。
仕方なく勉強道具を片付ける。相手が誰なのかは知らないが、自分の努力を人に見せる気はなかった。
ガラリと扉が開く。何気なく目を向けた芽衣は、次の瞬間顔を背ける。
「あ……っ」
口ごもったのは、今一番会いたくない奴だった。
芽衣は光地の反応に何も返さず、鞄の中からIpodを取り出すと、ヘッドホンを耳に持っていく。音楽でも聴いていた方がまだましだ。
だが、その手が耳に届く前に手首を掴まれる。
無言で見つめてくる光地に、芽衣は嫌々ながら口を開いた。
「……なに?」
「…………」
「用がないなら離してよ」
「…………」
それでも無言でいる光地に、芽衣の忍耐はすぐに限界を迎える。
「いい加減に……っ」
「ごめん」
思わず怒鳴りそうになった時、突然、ぽつりと呟くように謝られた。
相手の思わぬ反応に芽衣は目を見開く。
「ごめん。悪かった。まさか聞かれるなんて思ってなかったんだ……」
俯いて謝る光地に、いつものお調子者めいた様子はない。しかし、芽衣にはその謝罪は到底信じられないものだった。
──なによ、今度は謝った振りして私をからかおうってわけ?
子供じみた嫌がらせに、芽衣は呆れて首を振った。
「あんたの謝罪なんか欲しくない。どうせまたふざけてるだけでしょ? もういいから、話しかけてこないで」
「違う……っ、オレは本気で悪かったって思ってるんだ! あの時だって本気で言ったわけじゃ……」
「さんざんあんたにからかわれてきた私が、それを信じると思うの?」
芽衣は腕を振り払った。そして、動揺している光地を冷ややかな目で見る。
「もう十分でしょ? あんたが私を嫌いなのはよくわかったし、私もあんたが嫌いだよ」
切り捨てるように言うと、光地が顔を強張らせた。
「……わかった。今まで本当に、悪かったな」
静かにそれだけ口にして、光地が離れていく。その沈んだ表情に、何故か胸が痛んだが、芽衣はそれを無視した。
芽衣は今度こそヘッドホンを耳につけて、目を閉じる。
学校で彼を見たのはその日が最後だった。
芽衣の天敵だった喜田川光地は、親の都合で転校して行ったのだ。
二ヵ月後、芽衣は奇妙な喪失感を感じながら学校生活を送っていた。
天敵だった奴が消え去り、気分は良い筈なのに、何故か心が曇っている。
あの日から、お調子者の不愉快な仲間達も、芽衣に対してあからさまな嫌がらせをすることがなくなった。
ストレスの原因は一掃されたはずなのに、一馬からは笑顔が減ったとさえ言われた。
芽衣は、今日も集中できない勉強に精を出しているが、何故なのか、奴が消えてから自分は絶不調だ。
ため息を吐きつつ、国語の教本を開く。だが、すぐにわからない漢字を見つけて、ロッカーから辞書を引っ張り出した。
ページをパラパラ捲っていると、何かがヒラヒラと落ちてきた。なんだろうと拾って見れば、それは折りたたまれた便箋だった。
芽衣は首を傾げて、そっと開いて見る。
そこには一文だけ文字が書かれていた。
『ずっとキミが好きでした』
その瞬間、芽衣は目を見開いて、震えだした手で口元を覆う。相手が誰なのか、一瞬でわかったのだ。
「う……そ…」
天敵だと言ったのは誰だったのだろう。芽衣はようやく自分の気持ちに気付いたのだった。
はじめまして。後書きの場に、思わず背筋が伸びて、ついでにつりそうになってる七です。
芽衣と光地の「素直になれたら」はいかがでしたか?
実は短編を書くのは初めての試みで、いつもと勝手が違うこともあり、四苦八苦しながら書きました。
なので、もしかしたらジタバタした痕跡が残っているかもしれませんが、暖かい目で見守って頂ければ嬉しいです。
最後になりましたが、読んでくれた貴方に、何かを感じて頂けたら幸いです。