1. 婚約は解消だ
「まったく、顔だけが取り柄だというのになんと嘆かわしい……」
部屋に入るなり、座ることもせずにそう言って大きくため息をついた婚約者のセドリック様を、わたくしは椅子に座ったまま無言で見た。
「美しさを失ったリズにはもうなんの価値もない。婚約は解消だ」
はっきりと突きつけられた言葉に、そうでしょうね、と思う。こうなることは分かっていた。
3ヶ月前、街で火傷を負ったあの時も、一度もお見舞いにこなかったセドリック様が今日来られると聞いた時も。
右手を持ち上げて頬に触れる。チリ、とした痛みと共にツルツルとした自らの肌の感触があった。まるでここだけ別の素材になってしまったかのよう。
右の頬から首にかけて、大きく残った火傷の痕。きっと一生消えることのないもの。視線を落としてテーブルを見つめていると、再び大きなため息が聞こえた。
「子供を庇って熱湯を浴びるなど……その子供にお前の美しさ以上の価値があったのか? どうせその辺の平民の子供だろう」
顔を上げると不満そうなセドリック様の顔が見えた。
服装からして平民の子ではなかったわ、と出かけた言葉を声にする前にやめた。そんなこと言ったところで何にもならない。
3ヶ月前、はしゃいだ様子で道を走っていた男の子。その子が前を見ずに露店へと飛び込みそうになったのを見た時、咄嗟に体が動いた。気が付いた時には、熱いのか冷たいのかも分からないような壮絶な痛みの中にいた。
「何か言うくらいしたらどうだ?」
苛立ちや呆れを含んだ声に、ゆっくりと口を開くと右頬が引き攣り、鋭い痛みが走った。
「すみません、喋ることも、痛くて」
ゆっくりと発した言葉。セドリック様は眉をひそめたが、返ってきたのは、そうか、とそれだけだった。
セドリック様は決して悪い人ではない。ただ、この方がわたくしに求めていたのは、『顔だけ』だったというだけ。公爵家の跡取りとしてそれもどうなのかしら、と常日頃から思ってはいたけれど、そんなこともうどうでもいい。わたくしはその『顔だけ』を失ってしまったのだから。
コンコン、とノックの音が響いた。返事をする前に扉が開く。
「セドリック様、お姉様とのお話は終わりましたか?」
顔を出したのはキャシーだった。大きな目、赤い唇、透き通った白い肌、花が咲くように綻ぶ顔。可愛らしいキャシーは、セドリック様の手に自らの細い指を絡めた。
「早くわたくしのお部屋でお茶を飲みましょう。今日はいつもと違う茶葉を用意してますのよ」
親しげなその様子に思わず眉が寄った。わたくしとキャシーとセドリック様は幼い頃から付き合いがあり、3人で仲良くしてきた。だけどセドリック様はわたくしの婚約者だった。キャシーがそんな風に触れるなどこれまではなかったのに。
セドリック様はキャシーを一瞥し、だけど指を解くこともなくわたくしを見た。
「我が公爵家はオースティン侯爵家との付き合いを無くす気はない。お前の代わりにキャシーとの婚約が決まった。家同士はこれまで通りだ。安心してくれ」
一瞬、何を言われたのか理解ができなかった。
……わたくしとの婚約を解消して、キャシーと婚約をする? だから安心しろ、と?
ーー愚弄するのも大概になさいませ。
喉まで出掛けた言葉を飲み込んだ。仕方がない。セドリック様が求めるものをわたくしは失ってしまったから。キャシーはそれを持っているから。
今までわたくしが果たしてきた役割をこれからはキャシーが果たすだけ。そう、それだけ。
小さく頷いて了承を示す。たったそれだけの動きでも首が引き攣って痛い。
ふとキャシーと目があった。キャシーは不快そうに眉を寄せる。
「お姉様、本当に可哀想。まるで化け物だわ」
こくりと唾を飲み込む。痛い。
「でも、わたくしじゃなくてよかった」
キャシーはそう言ってにっこりと笑った。セドリック様の手を引いて早く行こうと促す彼女。
「ここにいたらお姉様のあれがわたくしにもうつってしまうわ」
病気じゃない。ただの火傷。キャシーも知っている。だけどそれは嫌味でも悪口でもない。心の底からそう思っているのだ。この子はそういう子。知っている。知っているから、別になんとも思わない。
セドリック様はキャシーに手を握られたまま踵を返す。無表情でその背中を見送る。
「美人姉妹だと名高かったのにな。醜くなってしまって……」
扉が閉まる直前に聞こえたのはわたくしの美しさを惜しむ言葉だった。鋭い何かで刺されたような痛みを胸に感じた。
幼い頃からずっと隣にいた。恋ではなかったけれど好意を抱いてはいたし、セドリック様もきっとそうだった。わたくしなりにずっと尽くしてきた。
「……なのに、あの方が惜しむのは、わたくしではなく、わたくしの、美しさだけなのね」
自分の小さな声は酷く空虚に聞こえた。ゆっくりと口を動かす度に痛む頬に、胸の痛みが紛らわされるような気がする。
込み上げた何かを飲み込んだ時だった。再びノックの音が響いた。扉が開き、そこに立つお父様は険しい表情でわたくしを見ていた。
火傷を負って寝込んでいた間、お父様がわたくしの部屋へ来たことは一度もない。だけどお父様が何を考えているのかも、何を言いに来たのかも分かる。
「リズ、お前はもう侯爵家の娘として相応しくない」
まるで叱るような厳しい声だった。
「顔にしか取り柄のないお前がそれすら失ったどころか、そんな化け物みたいに醜くなって……家の評判が下がる前に出て行ってくれ」
「……お母様は、何と?」
ここにはいないお母様。あの火傷の日以降顔を見ていないお母様。お母様はお父様と違う意見かも、なんてことは思っていない。でも、聞かずにはいられなかった。
「お前の母は、お前が家を出ることに反対しなかった。心配はいらぬ。お前の代わりはキャシーが務める。お前がいなくとも誰も困らない」
落胆などなかった。やっぱりね、と思った。それだけ。
「分かって、おります」
痛みを我慢して答えた言葉に、お父様は不快そうに顔をしかめた。はっきり喋れ、と吐き捨てるように言われ、小さく謝る。
お父様からはそれなりに愛されていたと思う。お父様は美しく生まれたわたくし達を自慢するように見せびらかしていた。お前達が私の宝だ、と破顔して何度も言っていた。
それが、顔に怪我を負った途端、これ。
お父様もセドリック様も情が薄いのではないだろうか。なんて思っても、自分でも皆の言うことは正しいような気がするから文句も言えない。
周りから求められるものを返せなくなったわたくしは、もうなんの役割も果たすことはできない。だから、仕方がない。
「明日には、神殿へ、参ります」
これからの人生は神に仕えよう。神殿で祈りを捧げ、結婚も贅沢もせず、神だけに生を捧げよう。なんの価値も無くなったわたくしだけど、神は喜んでくれるかしら。
お父様は一度頷くとそれ以上何も言わずに去って行った。
『顔だけ』しか取り柄のないわたくし。わたくしがいなくなっても、誰も困らない。
……なんて、本当にそう思っているのかしら。
だけど仕方がない。お父様もセドリック様もわたくしはもう必要ないと言うのだから。
覚えず表情が動いていたのか、頬にピリッとした痛みが走った。




