第8話 王都からの使者
「アメリアァァァッ!!」
城門(自動開閉式・強化コンクリート製)の前で、その男は絶叫した。
王太子ジェラルド殿下。
かつて私を婚約破棄し、ゴミのように捨てた国の次期指導者。
その姿は、あまりにも変わり果てていた。
金色の髪は脂ぎってペタッとし、目の下には濃いクマ。
何より衝撃的だったのは、彼が纏う空気――物理的な意味での「臭気」だ。香水を浴びるようにふりかけているが、その奥から漂う下水の臭いは隠せていない。
「……随分とお疲れのようですね、殿下」
私は城壁の上から、冷ややかに見下ろした。
隣にはジルベール様が並び立ち、眼下の近衛騎士団(約百名)を氷のような目で見据えている。
「うるさい! 降りてこい! 今すぐ王都へ戻るんだ!」
殿下は馬から降り、地団駄を踏んだ。
その必死さは、愛しい恋人を迎えに来たというより、溺れる者が藁を掴むそれに近い。
「王都は今、地獄だ! 排水溝からは汚泥が逆流し、道は汚物まみれ! 城のトイレは流れず、夜会どころか食事すら喉を通らない悪臭が充満しているんだぞ!」
うわぁ。
想像しただけで胃が縮む。衛生管理の敗北だ。
「聖女リリィは何をしているのですか? 彼女の『奇跡』で浄化すればよろしいのでは?」
私が尋ねると、殿下の顔が歪んだ。
「やったさ! リリィに祈らせた! だが、あいつの魔法は光るだけだ! 汚物は光っても消えないんだよッ!」
名言が出た。
そう、有機物は物理的に分解・運搬しなければ消えない。キラキラしたエフェクトで誤魔化せるのは、国民の目だけだ。
「つまり、私の作った下水道システムのメンテナンスができず、詰まらせたということですね。自業自得です」
「黙れッ! 貴様だろ! 貴様が去り際に呪いをかけたんだろう!?」
殿下は指を突きつけ、血走った目で喚いた。
「そうでなければ説明がつかん! 貴様がいなくなった途端に、城壁にヒビが入り、地下水が濁り、王宮の床が抜け落ちるなどあり得ない!」
「あり得ますよ。物理的に」
私はため息をついた。
「殿下。この国は砂上の楼閣なんです。地盤沈下が進む埋立地の上に、重たい石造りの城を建てている。私が毎日、地下に潜って地盤改良(グラウト注入)をし、配管のつまりを魔法で押し流していたから保っていただけです」
それは、誰にも言わずに行っていた私の日課(趣味)だった。
褒められたかったわけではない。ただ、自分の住む家が傾くのが許せなかっただけだ。
「それを『薄汚い土魔法』と嘲り、追放したのは貴方ですよ」
「ぐっ……」
「今さら戻れと言われても困ります。私はここでの暮らしが気に入っていますから」
私は背後に広がる領地を振り返った。
整備された道路。湯煙の上がる温泉街。温室で実る野菜。
そして、私を信頼してくれる領民と、隣にいる愛しい人。
腐敗した王都に戻る理由など、欠片もない。
「ことわる」
私が短く告げると、殿下は呆然とし、やがて顔を真っ赤にして激昂した。
「……ことわる、だと? 王族の命令だぞ! 貴様ごとき罪人に拒否権などあると思っているのか!」
彼は腰の剣を抜き、背後の近衛騎士たちに合図を送った。
「やれ! その女を捕らえろ! 抵抗するなら手足を折っても構わん! 生きて魔法が使えればそれでいい!」
最低だ。
やはりこの男は、私を人間ではなく「便利な道具」としか見ていない。
「御意!」
近衛騎士たちが一斉に抜剣し、城門へと殺到しようとする。
私が迎撃の魔法(泥沼化)を準備しようとした、その時。
ヒュオッ――!
風を切る音と共に、何か黒い影が城壁から飛び降りた。
ドォォォン!!
地面が爆ぜるような着地音。
土煙の中から現れたのは、一人の男。
「……俺の領地で、俺の婚約者に、何をすると言った?」
ジルベール様だ。
彼はたった一人で、百人の騎士たちの前に立ちはだかっていた。
その手には、愛用の大剣が握られている。
「ひっ……へ、辺境伯……!」
先頭にいた騎士が足を止める。
ジルベール様の全身から放たれる殺気は、先日の魔物スタンピードの時よりも濃密で、冷たかった。
まさに「氷の辺境伯」。絶対零度の怒り。
「貴様……王族に剣を向ける気か! 反逆罪だぞ!」
殿下が震える声で叫ぶ。
しかし、ジルベール様は一歩も引かず、静かに告げた。
「アメリアは俺の未来の妻だ。彼女の髪一本でも傷つけようとするなら、たとえ王太子であろうと斬る」
冗談ではない。本気の目だ。
「それに、反逆? 笑わせるな」
ジルベール様は大剣を片手で軽々と振り回し、切っ先を殿下の鼻先に突きつけた。
「国民の生活を守れず、汚物にまみれた玉座にしがみつく無能な王族になど、従う義理はない。……帰りたければ、今すぐ消えろ。さもなくば、この剣の錆にする」
「ひぃぃっ!!」
殿下が腰を抜かして尻餅をつく。
近衛騎士たちも、国最強の武人であるジルベール様の気迫に押され、ジリジリと後退していく。勝負になっていない。
私は城壁の上から、その背中を見つめ、胸が熱くなった。
(ああ、やっぱり……)
この人は、最強の構造体だ。
物理的な強さだけじゃない。信念という名の基礎が揺るがない。
私が人生をかけて「補強」し続ける価値のある男だ。
「……帰りなさい、ジェラルド」
私は冷たく言い放った。
「貴方の国はもう腐っています。物理的にも、倫理的にも。……二度と私たちの前に顔を見せないでください」
殿下は屈辱に顔を歪めながらも、ジルベール様の剣に怯え、這うようにして馬車へ逃げ込んだ。
「お、覚えてろよ! このまま済むと思うな! 国軍を総動員して、この領地ごと踏み潰してやる!」
捨て台詞を残し、王太子軍は逃げるように去っていった。
惨めな敗走だ。
ジルベール様は剣を収め、ふぅと息を吐いて私を見上げた。
いつもの、少し困ったような優しい笑顔に戻って。
「……派手に喧嘩を売ってしまったな」
「いいえ。最高の啖呵でした」
私は城壁から身を乗り出し、彼に微笑みかけた。
「でも、これで完全に敵対関係ですね。……向こうは国軍を動員するかもしれません」
「望むところだ。……それに、俺たちには最強の軍師がいる」
「はい。地形ごと埋めて差し上げます」
私たちが視線を交わし、信頼を確認し合った――その瞬間だった。
私のポケットに入れていた通信用魔石(自作)が、ビービーと警告音を鳴らし始めた。
これは、王都に残してきた私の「隠し監視カメラ(ゴーレム)」からの緊急信号だ。
『……警告。警告。王都地下、崩壊開始。大規模な地盤沈下が予測されます』
あ。
言わんこっちゃない。
王都の寿命、ここに来て尽きたようです。




