声の記憶を語る者
港町の朝は、いつもより静かだった。
波は立っているのに、音だけが薄い。――そんな違和感。
永谷 湊は、防波堤の端で立ち止まった。
潮の匂いが強いはずなのに、どこか金属のような冷たさが混じっている。
「……あんたが、大学の坊主か」
背後から声がした。
振り返ると、そこにいたのは一人の漁師だった。
日に焼けた肌、潮風で削れたような顔。だが、目だけが妙に澄んでいる。
「佐伯さん?」
「そう呼ぶな。
佐伯の爺でいい」
篠宮学芸員から聞いていた名前。
子供のころに、藍色の鯨を見た男。
「話を聞かせてほしいんです」
俺がそう言うと、爺は鼻で笑った。
「またか。
研究者だの、記者だの、みんな同じ顔で来る」
「俺は――」
「違う、って言うんだろ」
爺は海を見たまま、続けた。
「だがな。
あれは“見るもん”じゃねぇ」
その言葉に、俺は言葉を失った。
「……どういう意味ですか」
「音だ」
爺は、短く言った。
「最初に来るのは、いつも音だ。
姿じゃねぇ」
港の外れに係留された、小さな漁船。
爺は無言で顎をしゃくり、乗れと合図した。
「船を出す。
話は、海の上だ」
沖へ出ると、陸の音が消えた。
代わりに、波とエンジンの振動が身体に染み込む。
「初めて聞いたのは、俺が十にもならねぇ頃だ」
爺は、舵を握ったまま話し始める。
「見た、って言われてるが……違う。
聞いたんだ」
爺の声は、妙に落ち着いていた。
「夕凪でな。
海が静かすぎて、逆に怖かった」
俺は、無言で録音機を構えた。
「キン、ってな」
爺は指で、空を弾く仕草をした。
「金属を叩いたみてぇな音だ。
だが、どこから来たかわからねぇ」
「鯨の鳴き声では?」
「違う」
即答だった。
「今の鯨の音は、忙しい。
あれは……待ってる音だ」
待ってる。
意味を理解する前に、胸の奥がざわついた。
「それから、藍色の背中が浮いた。
だがな……」
爺は、そこで言葉を切った。
「音の方が、先だった」
俺は思わず聞き返す。
「姿より?」
「違う」
爺は首を横に振った。
「時間より先だ」
その言葉に、背筋が冷えた。
「音が鳴ったあと、
“しばらくしてから”藍色が浮いた」
「普通じゃないですか」
「普通じゃねぇ」
爺は、低く言った。
「俺が後で気づいたんだ。
音が鳴った時刻より、姿を見た時刻の方が“前”だった」
意味が、すぐには理解できなかった。
「……記憶違いじゃ?」
「そう思ったさ」
爺は苦く笑う。
「だがな、港に戻ってから時計を見た。
仲間とも話した。
どう考えても辻褄が合わねぇ」
俺は喉を鳴らした。
「それって……」
「音が、先に来たんだ」
未来の出来事を、先に知らせるみたいに。
そのときだった。
――キン。
船底を震わせる、短く硬い音。
俺は反射的に録音機のスイッチを入れた。
「……今の」
「ほらな」
爺は、少しも驚かなかった。
モニターに、波形が浮かぶ。
だがそれは、俺が知っているどのクリックとも違う。
「……反転してる」
思わず声が漏れた。
「何がだ」
「位相が……左右逆です。
こんな音、まだ起きてない現象のはずだ」
自分で言っていて、寒気がした。
「だから言ったろ」
爺は、海を睨んだ。
「あれは生き物じゃねぇ」
「じゃあ、何なんですか」
爺は、少し考えてから答えた。
「……海が、ズレる前触れだ」
波が、妙に滑らかだった。
色が、少しだけ深い。
藍色――ではない。
だが、その一歩手前。
「覚えとけ、湊」
爺は、初めて俺の名前を呼んだ。
「姿を追うな。
音を追え」
その瞬間、録音機のモニターに奇妙な表示が出た。
――時刻:03:17。
俺は、腕時計を見た。
03:12。
五分のズレ。
音は、
まだ来ていないはずの時間を、先取りしていた。
爺は、静かに言った。
「始まったな」
俺は、言葉を失ったまま、
藍に沈みかけた海を見つめていた。
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