呼び声
海には、まだ名前がついていないものがある。
それが事実だと知っている人間は、意外なほど少ない。
潮の匂いが染みついたキャンパスで、俺は今日もモニターを睨んでいた。
海洋大学――正式名称は長ったらしいが、学生の間では単に「海大」と呼ばれている。研究棟の一角、古い防音室。壁には剥がれかけた吸音材、床には延々と伸びるケーブル。
画面に表示されているのは、音響記録。
鯨類のクリック音、ホイッスル、そして――分類不能のノイズ。
「……やっぱり、どの文献にも一致しない」
独り言が、無意味に反響する。
既知の鯨類の音声データベースと照合しても、該当なし。周波数、反復間隔、減衰の仕方。そのどれもが、既存種の枠からわずかに、だが確実にはみ出している。
論文未記載。
未確認。
未命名。
普通なら、ノイズとして切り捨てられるデータだ。
だが、俺はそれを切り捨てられなかった。
きっかけは、地方紙の片隅に載っていた小さな記事だった。
――「沿岸で巨大な鯨影、漁師が目撃」。
写真はなく、日時も曖昧。学術的価値はほぼゼロ。それでも、記事に添えられた一文が、妙に引っかかった。
「鳴き声が、知っている鯨と違った」
それから俺は、研究室の仕事の合間を縫って調査を始めた。
文献、音響データ、古い漁業記録。
そして、聞き込み。
その過程で辿り着いたのが、湾岸部にある小さな水族館だった。
正式には「藍ノ浦海洋生物館」。
しかし地元では、もっと皮肉のこもった呼び方をされている。
――「閉館待ちの水族館」。
平日の昼間。
来館者は、俺を含めて三人しかいなかった。
「大学の……学生さん?」
バックヤードから現れた女性は、少し驚いたように目を瞬かせた。白衣の袖は擦り切れ、名札には「学芸員 篠宮 恒一」と書かれている。
「はい。海大の四年です。突然すみません」
俺がそう言うと、彼女は苦笑した。
「突然来る人、最近多いんですよ。……だいたい、閉館の噂を聞いて」
否定できなかった。
だが、俺の目的は別にある。
「この海域で、未記載の鯨類が目撃された可能性について、何か記録はありませんか」
一瞬。
篠宮さんの表情が、わずかに固まった。
「……その話、どこで?」
「新聞記事です。あと、漁師の証言も」
数秒の沈黙のあと、彼女は静かに言った。
「……館長には、内緒でお願いします」
そう前置きして、彼女は奥の資料室へ俺を案内した。
埃をかぶったファイルの山。展示に使われなくなった古いパネル。その隙間に、手書きの観察ノートが挟まれていた。
「十年以上前、この辺りで一度だけ、記録されているんです」
ページをめくる。
そこには、簡素なスケッチと、短い文章。
――体色、藍に近い
――群れを作らず、単独で行動
――音声、既存種に該当せず
胸の奥が、静かに熱を帯びた。
「これを書いたのは?」
「地元の漁師さんです。今も海に出ています。子供のころに、その鯨を見たって」
篠宮さんは、少しだけ目を伏せた。
「私たちは、守れなかったんです。この水族館も、この海の記録も」
閉館の危機。
予算削減。
研究よりも、集客。
だが、確かにここには“箱舟”があった。
海の記憶を、かろうじて繋ぎ止めるための。
「……俺、見つけたいんです」
気づけば、そう口にしていた。
「名前のない鯨を?」
「はい。論文に載せたいからじゃない。
――この海に、確かに“いた”って証明したい」
篠宮さんは、しばらく俺を見つめてから、微かに笑った。
「変わった学生さんですね。でも……」
そして、こう続けた。
「もしその鯨がいるなら。
きっと、まだこの海を見捨てていない」
藍色の海の底で、名前のない影が動いている。
それが偶然か、必然かはまだ分からない。
だが、この瞬間、俺の調査は――
研究から、探索へと変わった。
海は、まだ何かを隠している。
そして、その記憶を運ぶ箱舟は、確かに存在していた。




