「どうして」
お母さんがおかしい。
校外学習から帰ってきた日、私は違和感を感じた。
ニコニコしているが空元気というか無理矢理笑っている気がする。
いつもはきっちり整頓されている棚や机もどことなく雑然としていた。
「お母さん、なんかあった?」
「何言ってるのよ灯。何にもないよ」
「そう…?」
私は納得できなかったが、これ以上続けてもきっと同じだと思ったので、とりあえずやめた。
週が明けて、学校が再開した。
それまでもお母さんはずっと同じ調子で、気がかりだった。
相変わらずお父さんは単身赴任で家にいないから、頼れる人もいない。
今日はサッカー部がない。
「ほのか、帰ろ」
今日は珍しく湊人が誘ってこなかったので、私は颯樹と帰った。
ふと、この違和感の理由を颯樹は知っているのではないかと思った。
「ねえさつき、こないだからお母さんがなんか変なんだけど、なんか知らない?」
「…」
颯樹が複雑な顔をして立ち止まった。
「知ってるの?」
まだ黙っている。
この沈黙は、肯定だ。
「さつき!知ってるなら教えてよ。軽く教えてくれないってことは相当のことなんでしょ?!」
「…おばさんが、ほのかには言うなって」
「教えてよ。お願い」
「いいの?聞いたら確実にほのかは傷つく」
「それでもいい」
「…おじさん、ほのかのお父さんさ、浮気したんだ」
浮気…?
お父さんが…?
「単身赴任中に赴任先でそういう関係の人ができたんだって。それでおばさんに…離婚しようって」
「り、こん?お父さんとお母さんが?」
「…うん。そういう連絡が、ほのかが泊まりに行ってる時に来たんだ。その日たまたま俺おばさんと会ってさ、話聞いた」
「もしかして、それで電話?」
「うん、けどのほのかは出なかった。そのあとおばさんが来てほのかには言うなって」
信じられない。
けど、お母さんの様子を考えると、颯樹の言うことは本当だという方が自然だ。
そう思ったらそうとしか思えなくて、その後の話は何も覚えていない。
気がついたらもう家の前まで来ていた。
いつもなら手前の交差点で別れる颯樹が隣にいた。
「大丈夫か?俺ならいつでも連絡してきていいから。ほのかが呼んだらいつだってそばにいる」
「…ありがと。じゃあ、ばいばい」
「うん」
私はいつもの何倍も重さを感じるドアを開けて家に入った。
「おかえり、灯」
今日もお母さんは笑っている。
それを見たら、涙が出てきてしまった。
「どうしたの、灯」
「ねえ、お母さん。お父さん、浮気したの?」
くぐもる声で私は聞いた。
途端にお母さんの顔が暗く沈む。
囁き声くらい小さい、耳をすまさないと聞こえないくらいの声。
「颯樹くんから聞いたの?」
否定しないお母さんの問いかけにやっとの思いで答える。
「…うん」
「言わないでって言ったのに」
「お母さん、ごめんね。お母さん辛かったのに私だけ気づかなかった」
お母さんは驚いたように私を見る。
お母さんの顔は痛々しいほど笑顔だった。
「灯は何も悪くないよ」
お母さんはそう言ったけど、私は罪悪感でいっぱいになった。
それに、私は気づいてしまった。
笑顔でいるお母さんの目に溢れんばかりの涙が溜まっていたことに。
私はなんとかご飯を食べたあと、部屋に籠った。
私が校外学習で、楽しんでいる間にお母さんは苦しんでいた。
そのことを知ってしまったらもう、お母さんの前で笑っていられなかった。
「どうして、お父さん」
その言葉をもう何度も呟いている。
颯樹にはいつでも連絡してと言われたが、しなかった。
いや、出来なかった。
翌日、学校には来たけれどぼんやりして1日を過ごした。
抜け殻のような状態だったのだろう。
凛凪や碧にまで心配された。
だが、きっと話そうとすると泣いてしまいそうだったので、なんとなくでやり過ごした。
湊人だけは話しかけずに哀しそうな瞳で私を見つめていた。
放課後、今日は部活があるはずの颯樹が教室に来て、授業もホームルームも終わったことに気がついた。
「ほのか、帰ろ」
「今日、俺の友達が寝言で先生の悪口言ってたんだよ、やばくない?」
「うん」
「授業つまんないとか、宿題めんどいとか言ってて先生に後で絞られてた」
「うん」
「…あれは笑ったわ」
「そっか」
颯樹はいつもよりよく話してくれた。
けれど、私は相変わらず心ここにあらずで気まずい空気が流れる。
「ほのか、大丈夫?」
颯樹が急に振り返って真剣な目で見つめてきた。
それを見て我に帰る。
「…え?あ、大丈夫だよ」
「ほんとに?」
「ほんとに。大丈夫だから」
そんな状態のまま何日が学校に行って過ごした。
ある日、家に帰ると何か腹を決めたようなお母さんが待っていた。
「おかえり」
「ただいま、お母さん」
「灯、話があるの」
私はよくない話だと察して俯きがちになる。
「ほのか、お母さんとお父さん、離婚することにした」
お母さんは苦しみに顔を歪めることなく普通のことのように言った。
「お父さんから持ちかけられてたし、ほのかも嫌でしょう?浮気をしたお父さんをずっと待つのは。だからほのかにもたくさん迷惑かけちゃうかもしれないけど…」
「…迷惑?」
私は最後の言葉を聞いて顔を上げた。
「私も家族なんだよ?迷惑じゃないし、苦しくて悲しい思いをしたのは私だけじゃないでしょっ?お母さんだって私よりも何倍も辛かったはずなのに、なんで言ってくれないの!」
視界の中のお母さんがぼやける。
私は頬に流れた冷たい感触に幾分落ち着いた。
「私は、言って欲しかった…」
お母さんは目頭に溜まった涙を懸命に堪えていた。
「ごめんね、灯」
また、お母さんに謝らせてしまった。
謝ってほしいわけじゃない。
悪いのは私でもお母さんでもない。
なのにどうして苦しまなきゃならないのか。
私はもうお母さんの目を見ていられない。
私は居た堪れなくなってリビングを出た。
次の日から私は学校に行かなかった。
これ以上お母さんに余計な心配をさせたくなくて、いつもの時間に外に出た。
けど、学校には向かわずいつぞかの公園に向かう。
どのくらい時間が経っただろうか。
前みたいに柵にもたれて景色を眺める。
「どうして私は…」
(もうお父さんは帰ってこないんだ。お母さんは悲しい思いを抱えながら私を養っていかなきゃいけないんだ…)
「いなくなりたい。私なんていたって…っ」
そう呟いたときに私は後ろから誰かに抱きすくめられた。
「そんなこと言うなっ!」
耳元で聞こえた悲痛であってしっかりした声。
乱れた息もそのままに必死に叫ぶのは湊人だった。
「俺はほのかが大事なんだよ。だから、いなくなりたいなんて言うなよ」
私は湊人の方に向かわされた。
目の前の湊人は声とは裏腹に今にも泣きそうな顔だった。




