田舎町の平民娘が見た、王宮を追放された男が『もう遅い』するまで
ある雨の日の午後、エミリー紅茶店の扉の鈴がカランと鳴り、一人の旅の男が店を訪れました。
頭に深く被った、ずぶ濡れの茶色いフードの下から、金髪が見え隠れしています。
疲れた様子の若い細身の男は、重い声でぽつりと言いました。
「……なにか、気持ちが晴れる紅茶を出してほしい」
男の瞳は灰色でした。雨雲のように深く、暗い色を湛えていました。
エミリーはほほ笑み、紅茶にラベンダーとレモンを合わせたハーブティーを出しました。
男は静かに一口飲み、目を細めました。
「……まるで森の風みたいだ」
それが、エミリーとアランの出会いでした。
ラデル王国の片隅に、ベルナという小さな町がありました。
王都から遠く離れた山裾の町。騒がしさも、戦の風も届かない、静かな場所。
町外れの細い道沿いに、紅茶を出す小さな店が、ぽつんと佇んでいました。
この店が、エミリー紅茶店です。
石造りの店の庭に咲くジャスミンの香りと、窓辺に飾られた小さな鉢植えのラベンダーが、町の人々の心を和ませていました。
店主のエミリーは、水色のワンピースを着て、真っ白なエプロンをかけて店に立っています。髪と瞳は、平凡な茶色。田舎町に住んでいる、剣も魔法も使えない、ただの素朴で愛らしい平民の娘でした。
「エミリーの紅茶を飲むと、なんだか心が楽になる」
町の人たちや旅人は、みんな、こう言いました。
一口飲めば、疲れた心が、ふわっ、とほどけて、まるで爽やかな森の風に包まれたような、やさしい気持ちになるのです。
そんなエミリーの店は、町の人々のささやかな憩いの場となっていました。王子様やお姫様、素敵な騎士様が来るなんてことはなかったけれど、エミリーの夢の詰まった素敵なお店でした。
エミリーが紅茶屋を始めたのは、流行り病に倒れた両親に、一杯の紅茶を淹れたことがきっかけでした。
「心に沁みる味だね」
「エミリーの紅茶は、やさしい味がするわ」
亡き両親の言葉が、エミリーの人生を決めたのです。
両親亡き後、エミリーは町の人々の力を借りて、夢だった紅茶屋を開きました。
真っ白なティーカップとソーサー。木目が美しいテーブルと、座り心地の良い椅子。店の隅にある本棚には、空や景色や花が描かれた、心安らぐ画集が並べられています。そのどれもが、エミリーがお客様のために心を込めて選んだ、エミリーのお気に入りの品々でした。
アランはかつて、王都で未来を読む役目を担っていました。
星読み師の名門、リバチ侯爵家の嫡男として生まれたアランは、流行り病で両親を亡くしました。エミリーから両親を奪ったのと同じ、恐ろしい流行り病でした。
アランは若くしてリバチ侯爵家の当主となり、王に仕える立場となりました。
そんな彼の運命は、ある一つの星によって変えられました。
「東に沈む星のゆらぎ。王家に試練が訪れる。三年のうちに、王はその座を脅かされるだろう」
アランはその日も星を読み、王にありのままを伝えました。
その後、王妃と三人の幼い王子たちまでが、流行り病にかかりました。
王国の北では飢饉が起こり、民の不満が一気に高まりました。
「凶星を読んだ者が、災いを呼んだのだ」
などと、誰かが言い出しました。
宮廷の権力者、宰相ルスライ公爵がその言葉を民に広めました。そして、民の怒りを逸らすために、『災いの星読み師』としてアランを断罪したのです。
爵位を剥奪され、王宮から追放されたアランは、王都を出ることにしました。
幼い頃から学んできた、星を読むことさえやめました。
何者かに命を狙われ、逃げながら、長い旅をした末――。
ついに、アランはこのベルナの町に着いたのです。
アランはベルナの町とエミリーを気に入り、この町に住むことにしました。
ベルナの町での暮らしは、アランの心に小さな光を灯しました。
「ここでは、あなたはただの紅茶好きな青年ですよ」
そう笑うエミリーに、アランは追放されてから初めて心を許しました。
アランはエミリーの紅茶屋を手伝い、薪割りや荷運びなどの力仕事をするようになりました。
エミリーは剣も魔法も使えないけれど、誰よりも人の心を見つめる目を持っていました。
言葉にならない痛みも、疲れも、そっと包み込むように受け止める。
そんなエミリーのやさしさが、アランの心に沁みわたりました。
季節が巡るなか、町にも変化が生まれました。
エミリー紅茶店を訪れる人々の笑顔が増え、不安や孤独が少しずつ色褪せていきました。
星を読むことをやめていたアランは、町の人々のために、再び星を見上げるようになっていました。アランはひそかに星を読み、やさしい言葉で語りかけ、人々の運命の流れを良い方へと向かわせるようになっていたのです。
アランはもう、この町の『星守り』。
山崩れや、大嵐、川の氾濫のような、大災害から町のみんなを守るなんていう、派手なことなどなかったけれど……。
アランはたしかに、ベルナの町で人々の心を守っていました。
そんなアランの心は、日々、揺れ動いていました。
エミリーへの想いと、『災いの星読み師』とされている自分の身の上。
アランは自分がエミリーの傍らにいることで、彼女を傷つけるのではないかと不安でした。
一方、エミリーもまた、ただの平民の自分が、侯爵だったアランにふさわしいのかわからず、想いを伝えることができずにいました。
二人の想いは言葉にならないまま、時間だけが、二人の間に積もっていきました。
そんなある日、町に一人の男が現れました。
「王宮を追放された星読み師を探している。この町にいるようなのだが、知らないか?」
その人相の悪い屈強な男は、町の人々に声をかけていました。
男は『ルスライ公爵家の汚れ仕事請負人』などと呼ばれ、人々に恐れられているロッガー子爵でした。
「私はもう逃げ回るのはやめたい。エミリーの紅茶が、私に帰る場所をくれたから」
アランは、エミリーや町の人々に、静かに言いました。
「では、私に任せてください」
と、エミリーはほほ笑みました。
「うちの子を笑わせてくれたアランを、『災い』なんて呼ばせないわ」
「アランは、俺たちの町を守る『星守り』だ」
町の人々も、アランを守るために立ち上がりました。
エミリーはただの紅茶屋の店主です。大商人の知り合いもいなければ、異国の王族と取引をしているということもなく、幼馴染が騎士団長だったり、王都で高級官吏になっていたりする、なんていうこともありません。
ですが、エミリーは、『自分たちの持っているもの』で戦う術を知っていました。
エミリーはアランや町の人々と一緒に、ロッガー子爵に会いに行きました。
「どうか、私たちの町の『星守り』を連れていかないで……」
素朴で愛らしい田舎娘であるエミリーや、気の弱そうな母親と赤ん坊、小柄でしわくちゃな老夫婦たちが、口々にロッガー子爵に頼みました。
「どうか、どうか、お願いです……」
町の人々が、ロッガー子爵に向かってひざまずきました。
ロッガー子爵は、剣も弓も超一流の使い手でした。しかも、『ルスライ公爵家の汚れ仕事請負人』です。田舎町の人々に囲まれたところで、全員を蹴散らすなど簡単でした。
しかし、ロッガー子爵は怯みました。弱々しい町の人々が、哀れな風情で頼んでくるのです。傍から見たら、屈強なロッガー子爵が、気の毒な田舎町の人々を虐げているようにしか見えません。
時には、弱いことだって、逆に強みになるのです。
「ここで宰相ルスライ公爵様のためにアランを殺したら、あなたは本物の悪人になってしまいますよ」
エミリーは、ロッガー子爵をまっすぐに見つめました。
ロッガー子爵はたしかに、人相の悪い男です。人相にはその人の生き方が現れると、この国では言われています。
エミリーには、ロッガー子爵の人相の悪さの理由がわかっていました。一族が受け継いできた『ルスライ公爵家の汚れ仕事請負人』をしていることに対する、苦悩が現れていたのです。
エミリーはロッガー子爵の人相の悪さの中に、正しい心とやさしさを見たのでした。
「……いいだろう。ここで稀代の星読み師、アラン・リバチを助けることで、俺はこの国でのし上がってやる」
ロッガー子爵はついに、何代にもわたって彼の一族を縛ってきた『ルスライ公爵家の汚れ仕事請負人』の地位を捨てる決断をしました。ロッガー子爵にとって、その地位はかなり前から、恩恵よりも苦痛が勝っていたのです。
ロッガー子爵は王都に帰っていき、やがて再び王都からの書状を携えて戻ってきました。
宰相ルスライ公爵の策略が、ロッガー子爵の告発によって明るみに出たのです。『王の座を脅かす者』とは、先代王の妹の息子である、宰相ルスライ公爵のことだったのでした。
宰相ルスライ公爵は、玉座を狙ったこと、アランを陥れたこと、立場の弱いロッガー子爵家に長らく犠牲を強いてきたことなどにより、処刑されました。ルスライ公爵家は爵位を剥奪され、一族の人々にも重い罰が与えられました。
名誉が挽回されたアランは、ラデル王国の人々のために、再び星を見上げました。そこには、恐ろしい流行り病の治療法が、もうすぐ一人の医者によって見つけられることが示されていました。
ロッガー子爵はアランの言葉を頼りに、海辺の町に住んでいた医者を探し出し、王の元へと連れて行きました。
流行り病は、アランの言葉の通り、その医者が長い研究の末に見つけた治療法により治すことができるようになりました。
医者が王に会えたことで、治療法が国中に行き渡り、流行り病はついに収束を迎えました。
王は自らベルナの町まで来て、アランに謝罪し、侯爵の位を再び与え、一緒に王宮に戻ってくれるよう頼みました。
王の後ろには、今では王の補佐官となったロッガー子爵の姿がありました。ロッガー子爵は、己のすべてを賭けて王に仕え、この国を良くしていくことで、これまでの罪を贖うことになったのです。
アランは、王の頼みを断りました。
「私はこの町で、エミリーの隣にいたいのです」
アランは、自分の気持ちをやっとエミリーに伝えたのでした。
アランはひざまずき、エミリーに指輪を捧げました。リバチ侯爵家の女性に代々伝わる、赤い宝石のついた金の指輪でした。
一年後、紅茶屋の扉の横には、『星と紅茶亭』と彫られた新しい木の看板が掲げられていました。
店の扉の鈴が、カランと鳴ります。
傷つき疲れ果てた人が訪れても、大丈夫。
この店では誰もが、おいしい紅茶と、やさしい言葉、良き運命に出会えます。
店の奥で、紅茶の白い湯気が、ふわり、と立ちのぼりました。
そこには今日も、幸せそうに寄り添う、店主と星守りの姿があるのでした。