詩人と人魚
夏休みは残り一日だった。カレンダーの下にいびつに飛び出した三十一日は、どうしようもなく青年を街の外へと駆り立てた。空は目にまぶしいほど青を極め、それをバックにくっきりと白く映える入道雲が、天空の城のごとくそびえ立っていた。
カモメが上空を飛んでいった。青年は足元の石海岸を滑っていくその鳥の影を目で追って、足を止めた。潮の匂いがする熱い風は少年の顔に当たり、少しべたついた。白く丸みを帯びたこぶし大の石が転がる海岸は海水浴を楽しむようなスポットではなかったが、青緑色に澄んだ海はとても穏やかで、泳ぐのにちょうどよさそうに見えた。青年を島まで送り届けた漁船が、帆を日光で輝かせながら水平線の上で小さくなっていった。足元の石の隙間に、さび付いた古い金属の輪が落ちている。投げ捨てられたままに忘れられて錆びついた、手りゅう弾のピンだった。
青年は手の甲で目の上に垂れてきた汗を拭った。鞄を肩にかけなおす。白のシャツの中の背中を、汗がつぅと流れていった。
海岸沿いを歩いていくと、古い神殿の廃墟にたどり着いた。石海岸が終わり、草が茂る土手のようになっているところを上ると、丘の上に白い大理石でできた、折れた柱が現れる。何世紀も忘れられたままの柱は、草に半分埋もれるようにして立っており、白い花があちこちに咲いていた。床のタイルは植物の生命力によって持ち上げられ、がたがたに歪んで、多くは割れていた。まるで世界の果てのように、死んだ人工物が、自然の生命力を前にして無抵抗に沈黙していた。いくつかの柱は折れていたが、神殿の三角形の屋根の骨はかろうじて形を保っており、その白い骨の間に青空が見えていた。波の音がしていた。
青年は神殿のほとんど残っていない壁沿いを歩いた。そして、海を見下ろせる場所で、かつ、十分な大きさの柱の影を見つけるとそこに座った。花の匂いがした。青年は鞄から革表紙の手帳と万年筆を取り出すと白紙のページを開いた。海を眺める。日陰にいるのにうんざりするくらいの暑さが、絶えず青年の全身を汗ばませ、大した気化熱効果ももたらさない湿った熱風がその汗を撫でていった。青年は詩書きだった。
「久しぶりだね」
声がして青年は顔を上げた。声は、神殿の奥の方から聞こえていた。目をやると、アーチの向こうに下に続く階段がある。その下は天井は高いが、経年劣化により床が傾いて海水が入り込み、半分海に沈んだ地下の神殿であることを青年は知っていた。肌の神経に意識を集中させると、その空間から流れ出てくる空気が涼しい冷気であることに気づく。
「お邪魔してるよ」
ぱしゃ、と水音がする。
「この島のこと、覚えていてくれたんだ。世界が滅んでからずいぶん経つのに」
「なぜか、忘れられなかったんだ」
「忘れたかったみたいな言い方ね」
「忘れることの方が自然で、人間的で、生物的なのに」
少し、声が笑う。鈴が鳴るような透き通った声に、リバーブがかかっている。
「人間じゃないのかもよ」
「人間を選んだはずなんだけどな」
柱に花の蔓が巻いている。白い花が咲いていた。海から風が吹いて花弁が散った。声は青年の返答に対して期待外れとでもいうようにふんと鼻を鳴らした。
「今日は何をしに来たの?」
「詩を書きに来た。今日は夏最後の日だから、宿題をしなくてはならない」
「宿題、ね。今まで後回しにしてたんだ」
「愚かなことに」
声は静かになった。青年は万年筆の先を白紙につける。この夏じゅう、ひとり部屋の真ん中に座り込み、暑さに呻き、悪態をつきながら時々氷を舐め、ああでもないこうでもないと詩について思い悩みながら、空や花を見ることもなく白紙のページに向かっていた。一文字も書く文字が思い浮かばなかった。書くべき題材やその能力は十分にそろえられていたはずなのに、なぜか書きたいと思えることが何も無かった。世界が滅ぶ前は、生を謳歌し、賛美するような、そういうものを創ることを切望していたはずだったのに、破滅の波が過ぎ去って穏やかに凪いだ世界では、もうどうでもよかった。白紙に一つ、インクの染みができた。
「僕以外の世界は、君のことをすっかり忘れてしまったよ」
「そりゃあ、世界が終わったんですもの。よほどの物好きじゃないと覚えていてくれやしないわ」
声はさも当然のことのようにさらりと言う。誰も覚えていない人を、この世界で一人だけ覚えていた。青年は乾いた喉を一つ呑んだ。
「君はもしかして、人間に魔法をかけたんじゃないか?」
「何の魔法?」
「延命、あるいは、孤独の魔法」
「そんなことを聞きにきたの? わかった。それが宿題なんでしょう。今更そんなこと聞かないで。かけてないよ。私にそんな力があったとして、どうしてあなたにかける理由があるの? ただ、運命がいたずらして、私を知るあなたは生き、私を知るあなた以外は死んだ。ただそれだけ」
「……そうか」
声はむっとしたように語気を強めて言った。
「魔法じゃないなら、じゃあ僕は幽霊なのかもしれないな」
青年は白紙に向かってつぶやいた。詩書きの自分はとうの昔に死んでいた。
「ねえ、あなたはたくさん言葉を知っているくせに、今言うべき言葉はわからないのね」
「言うべき言葉?」
「数年間、いいえ、数世紀、ひとりここで待つ私に、ふらりとやってきた人間なら、何か言ってもいいでしょう」
「僕は人間じゃないかもしれない」
「本当に幽霊になったっていうの?」
「おそらく」
「本当に寂しい人ね」
「世界といっしょに終わっておけばよかった、と時々考える」
ばしゃりと水音がする。水音が遠くなる。
「僕にはたぶん、何かを受け取る才能がなかったんだ。純粋に、運命でも親切でも魔法でも、してもらったものを純粋に喜んで、素直に笑顔で受け取れなきゃいけなかったんだ」
白い花弁がゆるやかに散っている。ほんの少し影の角度が変わり、手帳の角に日光がさし始めている。
「泣かないでおくれよ」
青年は立ち上がった。
「僕にひれは無いんだ」
青年はまだ白紙の手帳を鞄にしまい、その鞄を持った。一度、階段の方を振り返ったが、踵を返した。神殿を出る。膝より背の高い草の中を踏み分け、土手を下りる。草を掴むと、手のひらに血が滲んだ。夏草の匂いが鼻腔に満ちる。すぐに足元は白い石に代わり、潮風が顔にまとわりついた。頭のてっぺんから降り注ぐ太陽光がつむじを焦がす。青年は波打ち際へ歩きながら、鞄を石海岸に放る。腕時計を外す。靴を脱ぐ。青緑色の海は生温かく、見下ろせば水底まで透いた。
青年は空と海の堺へどこまでも歩いていき、陽炎の立つ遠景に搔き消えた。