表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人魚  作者: 岡倉桜紅
1/2

鱗と医者

 上手く生きられない。これは男が常々思っていることだった。物心ついたころからずっとその思いが頭のどこかに巣食っていた。スタート時点から既に同学年の集団からは一歩、いや、何十歩も遅れて歩いていた。言葉を覚え、喋り始めるのも遅く、同学年の彼らがままごとや鬼ごっこに興じるころに、やっと唇と舌を拙く動かす方法を学んでいた。歩き始めたのはやっと5歳になったころで、それでもよたよたと足を引きずるようにしか進むことができなかった。男の両親は男の発達の遅さを心配し、病院に連れて行った。軽度の発達障害を診断されたが、当時、発達障害に対する周囲の理解は浅く、また、男の両親も男と似たような脳の造りをしていたために、なすべき配慮がなんなのかすら適切に理解できていなかった。男の両親はどちらも定職に就いており、男を十分に養育していくだけの金は持ち合わせていたが、男に対して教育をしたり、手厚く世話をする時間はなかったため、同世代に友達のいない男はいつも一人で時間を過ごすことになった。

 小学校に上がる年齢になり、男はそのときにやっと幼児並みの言葉を発することができるようになっていた。一人だけの自己の世界に閉じ込められていた男にとってこの進歩は、世界と意思の疎通ができるようになってきて、かなりの自信がついてきた頃合いだった。しかし、どれほど男にとって目覚ましい進歩であろうとも、世界の物差しで見れば、単純で深刻な遅れであることは間違いない事実であり、当然男は学校の授業についていけずに義務教育からドロップアウトする運びとなった。両親はこのことを酷く気に病み、男に学校に行くようにと勧めた。彼らも彼らの仕事の事で思考のキャパシティーがいっぱいになっていて、男が不登校になるというさらなる負荷から逃れようとしていた。世界との交信がまた絶たれ、微かに芽生えた自信もへし折られた男は、これから嫌というほど味わうことになる挫折の中でも、人生初のものを体験することになった。

 そのショックは幼い男にとってかなり大きく、男の言語はまた幼児のように退行してしまった。あ、とか、う、とか、喉の奥からうめくような声を出す他、どうしても言葉が発せなくなった。この段階で両親は男には普通とは違う特別な教育を施すべきだと考えを改めた。彼らは男をフリースクールに入れたり、セラピストとの面談を計画したりした。眉唾物の通信教育にも手を出し、聞くだけで発話が上手くなるというCDを延々と男に聞かせた。男は両親が用意した治療を全て真剣に受け、何とか普通の人間になって両親を安心させたいと努力した。しかし、男がどれだけ努力したところで、成果はあまり上がらなかった。男は自己嫌悪に襲われ、ストレスから爪を噛んだり、顔の皮膚を引っ掻いたり、髪をむしる自傷行為がやめられなくなってしまった。

 フリースクールに行ったとき、周りの子供たちが男を明確に避けた。男は鏡の中の自分と、フリースクールで見かける子供たちを比べた。彼らの、同世代の子供たちよりはいくらか白いが、しかし十分ハリツヤのある健康的で綺麗な肌や髪は、男にはなかった。噛んでぼろぼろになったギザギザの爪で引っ掻いた顔の皮膚は、まるで大根おろしで削ったかのように赤黒く毛羽立ち、ところどころ黄緑色の膿で濡れていた。頭にはいくつもの十円禿げが目立ち、傷んだ毛先は簾のように顔の半分を覆っていた。おまけに発する声は気味の悪いうめき声だ。男自身の目から見ても、子供たちが自分を避けるのは無理もないと思えた。

「どうして普通に生きられないの?」

 母が泣きながらこぼした言葉がいつまでも男の胸に突き刺さった。どうして自分は他の子供たちのように上手く生きられないのだろう。あんなふうに流暢に舌を動かして、自由に言葉を話せたら良かったのに。あんなふうに滑らかに四肢を動かして、運動場を駆け回れたら良かったのに。普通になりたかった。男と同じように、学校になじめないからという理由でフリースクールに来ていた同い年の少年が、フリースクールの前の運動場で元気いっぱいに陽光の下、走っているのを見て、男の心はぽっきりと折れた。

 男は今までしていた努力を一切放棄し、自宅に引きこもった。消えてしまいたかった。平等な人生を保証してくれない神の理不尽を呪った。フリースクールの先生がいつか、ある偉人の伝記を読み聞かせしてくれたことがあった。その偉人は少年時代はいじめられ、孤独な生活をしていたが、やがて欠点だと思っていた個性が才能だと認められ、世界中の人々に必要とされ、その期待に応えて世界に大きく貢献した。彼が世界に貢献できたのは、彼に才能があったからだ。そう男は思った。才能が無い人間は、どれだけ暗い過去があろうとそれがばねになることはなく、この先にもただ暗い将来があるだけなのだ。

 男は毎日自分の不幸を思って泣いた。顔の引っ掻き傷に、涙はよくない影響しかもたらさなかった。常に傷口が濡れて、やわらかくなった表面を拭う手が傷口を広げる。両手が常に血の赤や、膿の黄緑色で染まっていた。男は定期的に爪を噛んでしまう癖があり、爪から血や膿の味がするのは苦手だったので、一日のうちに何度も部屋から出て、洗面台に手を洗いに行った。やがて、それも面倒になってきた男は、水を張った風呂に一日中漬かっていることにした。頬から顎を伝って流れた涙や血はバスタブに落ちた。いつでも手を水につけて洗うことができる環境ではあるが、その水は血や膿が溶け込んでいるはずであった。しかし、指先の味について気にする割には、その点について男は大して気にしなかった。

 水中に体を沈めていると、ベッドに寝転んでいる時よりも安らぎがあり、まるで母親の羊水の中に戻ったような退行的な安心感に包まれるような気がした。男は水に漬かり、三日、長くて一週間ほど水を替えずにそこで暮らした。

 男は水に漬かるという行為によって、今までの人生でかつてないほどの精神の安定を得た。一日中泣いていることも少なくなり、爪を噛む癖も落ち着いた。そのことは言葉なしでも両親に伝わっていたようで、両親はもう何も言わなかった。

 精神が安定した男は、膨大な時間をどう過ごすかを考え始めた。両親に頼んで字が大きく、挿絵のついている本を取り寄せてもらい、本を読んだ。言葉を覚えるのはかなり大変だったが、挿絵が理解を助けてくれたし、すべてを理解しなくても、読書は男には十分楽しみをもたらした。男は漫画の伝記によって他人の様々な生き方に触れた。どれも男には手の届かないと思われるような輝かしい人生だった。そして、その人生の中で、大抵誰もが一度は落ちぶれる時期があるのだが、その落ちぶれ様は、男が欲しても届かない「普通」の暮らしだった。偉人達の最悪の瞬間にすらあこがれる自分の人生を思うと、みじめな気持ちになり、男は本を閉じるのだった。男はノンフィクションから離れ、やがて物語にのめりこむようになった。何も持っていない普通の主人公が、何かがきっかけとなって自らの才能に気づき、世界を救う。そんな夢物語を男は一日中空想するのだった。

 そんな生活が数年続いたある日、いつも母が食事を運んできてくれる時間になっても母が来ないことに男は気が付いた。男はバスタブの横に置かれたベル替わりの鍋を、お玉で叩いて音を出した。この音を立てれば大抵父か母のどちらかは来てくれるのだが、今日に限っては来なかった。耳を澄ますも、家はしんとしていて、人の気配がない。風呂場の天井に近い場所に開けられた小さな明り取りの窓を見ると、すでに夜が来ており、両親は仕事からとっくに帰ってきてもいいころと思われた。男はもう一度お玉で鍋を叩いたが、やはり誰も来なかった。

 男は数日、体勢を変えていなかったために、バスタブの形に強張った体をゆっくりと起こした。水から上がり、床に積みあがった本を踏みつけ、積み重なって木のようになっているものを倒さないように注意しながら、風呂場の扉に近づいた。耳を押し付けて外の様子を伺う。やはり何の物音もしなかった。扉を開けようかと男はノブに手を伸ばして、しかし躊躇った。もう五年近くこの狭い風呂場から出ていないし、毎日食事を運んではくれるが、両親と顔を一度も合わせていないのだ。自分が引きこもっている間に自宅がどのようになっているのか、両親がどのような生活をしているのかさっぱりわからず、そこには未知のものへの恐怖じみた感覚があった。

 二人でどこか街へ出かけてディナーでも食べているのだろうか。いや、風呂場から聞いている限り、ここ数年の二人の夫婦生活はもっと冷めていたはずだ、と男は思い直した。リビングでの会話はごく少なく、お互いにいっしょにいる時間を減らそうとしているとさえ思っていた。男は、おそらく二人の不和は自分の状態が引き起こしたのだとわかっていたが、二人の夫婦関係が壊れたら自分の生活はどうなってしまうのだろうと、あさましくも自分の心配ばかりしていた。

 だとしたら、今夜、夜遅くまで二人そろって帰らない理由はなんなのだろうか。男がノブに手をかけた状態のまま考えていると、唐突に「ピンポーン」と玄関のインターホンが鳴った。男はびくりと体を震わせ、自分でも驚くほどの速さでバスタブの中に飛び込み、膝を抱えて身を縮こまらせた。インターホンはその後、何回か鳴り響き、そして、おそろしい、ガチャという扉が開く音がした。男はこれを地獄の門が開いた音と同じような気持ちで聞いた。足音からして数人が部屋の中を歩き回っていた。

 男は見つかりませんようにと祈ることしかできなかった。仕事など何も生産的なことをすることもできず、喋ることや人間として基本的なことすら一人で上手くできない哀れな姿を誰にも見られたくなかったし、男を目に移した、他人の憐みの表情も見たくなかった。足音がふと、風呂場の前で止まった。男は身を固くする。長い前髪から水が一滴滴って落ちた。ピチョン、と思いの他大きく響く。

「……誰もいないか」

 若い青年のつぶやく声がして、足音は去った。

「誰もいないみたいだ。二人の葬儀は市で執り行おう。〇月×日、集合墓地の三番地で行う。少し、黙祷しよう」

 続けて青年の声がした。数人の足音は止み、男の両親に黙祷がささげられた。足音が家から去って、ドアがガチャリと閉められ、静寂が戻ってきてから、男は少しずつ自分の両親が死んだのだという現実を理解していった。

 男は風呂場の扉を開いた。リビングのテーブルには先ほどの集団が残していったであろう、小ぶりの花束が置かれていた。部屋の様子は、男の記憶とは少し異なっていた。息子のために買いあさった教育道具は全て消えており、リビングに敷かれていた上等な絨毯や大きなテーブルも無くなっていた。男は上手く動かない足を何とか動かし、手すりに縋りながら二階へと向かった。二階の両親の部屋の隅には、男が風呂場を占領しているためであろうが、仮設的なシャワールームが二つも設置されていた。両親が気に入っていたウォーターベッドは無くなり、背の低いマットレスが簡素に並べられていた。まるで、別の人の家にいるみたいだった。風呂場にこもり、数年後に出てみたら、全く違う世界に転生しているかのような錯覚だった。男は自分が両親の人生をいかにゆがめてしまったかの証明を目の前に突き出されているような気持ちになり、その部屋からすぐに出た。よろよろと一階に戻り、キッチンへ行くと、たくさんの段ボール箱が積んであった。中には、手軽に食べられる固形食が大量に詰め込まれていた。通販で箱買いしたものらしい。別の箱を開けると、パウチ入りの栄養ゼリーが大量に見つかった。その光景になにかうすら寒いものを感じながら男はよろよろと冷蔵庫へ向かった。冷蔵庫には少しの新鮮な野菜と魚、乳製品などが入っており、いつも男に食事を出すときに使われるプレートに、今日の夕食らしきものが一食分盛り付けられ、ラップをかけて冷やしてあった。その一食分を除いて、手料理らしきものは他に見当たらなかった。つまり、両親は自分たちはこれと同じ料理を食べることなく、男とは別のものを食べて暮らしていたのだった。

 男はプレートを冷蔵庫から出し、風呂場に戻った。いつもそうしているように、本の山の一つに腰かけ、手づかみで頬張る。男には箸やフォークが使えなかった。両親はいったいどこでどんな風に死んだのか、知りたいと思っても知るすべはなかった。不思議と涙は出なかった。自分を支えてくれる存在がいなくなってしまったのは悲しいが、どこか解放感すらあることに男は気付いた。両親はもう、このどうしようもない息子の面倒を見る必要がない。自分ももう両親に迷惑をかけているという負い目を感じずに済む。当分は両親が残していった段ボールの中身を食べていれば命をつなぐことはできそうだった。男は両親を亡くした今も、考えるのは自分の事ばかりな自分の思考回路に気づいて不快になったが、もう一つの不動の事実を見つめることで持ちこたえた。それは、段ボールの中身はいつか無くなるということだった。

 男はこの五年間、何度か自殺というものをすでに試みたことがあった。自分が今漬かっている水に少し鼻と口を沈め、たった五分ほど、その状態を保つだけで死ねた。そのはずだった。しかし、そんなつもりはないのに、いつもその試みは失敗に終わった。苦しさに耐え切れず、意識を失う寸前に体をばたつかせ、水面に顔を出して空気をむさぼってしまうのだった。試みが失敗したとき、男はいつも強い自己嫌悪に襲われる。何にもできない自分は、臆病さゆえに死ぬことすらできない。

 段ボールの中身がすべて無くなれば、待っているのは確実な死だ。空気が近くにある環境だから、それを求めずにはいられなくなり、水中にずっと沈んでいることが難しい。でも、食料が近くにない環境なら、もうそれをいくら求めても無駄で、どんなに自分が臆病でも、死を成し遂げられるだろう。限りある食料というものは、臆病な男に、今すぐ死ぬのではないという一時的な安心をもたらすとともに、いつかは確実に自分の根性を抜きにして死ねるという、ある意味対極的な安心をももたらした。

 男は自分の餓死までできるだけ風呂場から出なくていいように、段ボールをキッチンにあるだけすべて風呂場に引きずって来た。これで準備は整った。男は満足し、また浴槽に漬かった。

 次の日のことだった。男は自分の手の甲に強烈な違和感を覚えて目を覚ました。見ると、手の甲の真ん中から五百円玉くらいのサイズの、青みがかった半透明なものが一つ、手の甲の皮膚を破って生えていた。それはかなり硬く、引っ張ると周りの肉が引き攣れて痛みがあった。光の角度によっては、その奇妙な物体はガラスのように美しく透いて輝いた。まるでそれは魚の鱗のようだった。四六時中水に漬かりすぎていたせいで、体がおかしくなってしまったのだろうか。男は鱗を見ながらそう思った。

 次の日も次の日も、起きるたびに体から生えている鱗の数は増えていった。手の甲だけでなく、足の甲、一円玉くらいのサイズのものが目のすぐ下の皮膚、うなじに生えた。男が体を動かし、鱗どうしがぶつかると、さらさらと微かな澄んだ音がした。自らがとうとう人ならざる化け物へと変化しているのだろうかと男は考えた。それは決して不安な想像ではなかった。ずっと昔から、この瞬間を待っていたかのように男は思えていた。自分はもともと人間とは違う別の生物で、たまたま今までは人間に似ている姿を取っていただけ。この鱗に塗れた姿こそ自分の正体だったのだと信じた。そのほうがいろいろなことがしっくりくるような気がしたのだった。

 やがて顔全体が鱗で覆われ、今まで根強かった引っ掻き傷による肌のトラブルがすっかり薄い青で塗りつぶされた頃のある日、インターホンが鳴った。前回同様、男はどうすることもできず、ただ浴槽の中で縮こまった。インターホンを押した人は、一度目が鳴りやむ前にガチャリとドアを開けた。まるで、インターホンを押したのはあくまで体裁のため、あるいは、ルーティン的な行為であり、中の住人に対する来訪の合図としては一切期待していないかのようなふるまいだった。来訪者は迷いのない速度で風呂場の前まで歩いてきて、扉の前で止まった。

「こんにちは。私はある病気について研究する医者です」

 来訪者の声には聞き覚えがあった。両親の葬儀の日程と場所をリビングで話していたあの青年の声だった。男が風呂場にいることを確信し、男に向かって話しかけていることは明らかだった。

 男はもともと言語が不自由なことに加え、突然の来訪者に警戒心で緊張し、声帯はまったく動かなかった。

「私はウロコ病という病について研究しています」

 鱗、という言葉に男は自分の手を見下ろした。さらさらと微かな音がする。すでに腕のほとんどが鱗で覆われ、肩や鎖骨にまで鱗が生えてきていた。

「あなたのご両親からあなたのことは聞いております。なぜなら、ご両親はあなたと同じ病を患っていて、私の患者だったからです」

 青年は、両親の死を悼みに来たあの日、男の存在を知っていたのだった。知ったうえで接触せず、葬儀の詳細だけわざと聞こえるように言ってその場を去った。男の葬儀への参列を促すもののつもりだったのかもしれない。

「ご両親は不幸にも交通事故で亡くなられました。病気を治す前に別の理由でこの世を去ってしまったのはとても残念に思います。私は、あなたの病を治したい。この扉を開けてもいいですか?」

 男はバスタブの下へ手を伸ばし、鍋とお玉を手に取った。お玉を激しく打ち付ける。NOの意味だった。これから自分は死ぬのだ。こんな急に出てきた人間に邪魔されてなるものか。お玉が勢い余って本の山にぶつかり、物語の本が崩れる。そうだ、この青年はあまりに主人公すぎる。他人の健康のために貢献しようと、世界の役に立とうとしている。医者になれるほどの優秀な頭脳を持って生まれ、こんなゴミみたいな引きこもりにも手を差し伸べる親切心を併せ持つ、主人公になれるほど恵まれた人生のやつに、これ以上素晴らしいストーリーを作らせてなるものか。その材料にされることはまっぴらごめんだった。とにかく、一人静かに死ねるまで放っておいてほしかった。下手な同情ほどみじめさを際立たせるものはなかった。

「開けますね」

 意思疎通は失敗し、青年は扉を開けた。そもそも、この青年が男の意思を聞くつもりがあったのかさえ怪しいと男は思った。男は膝を抱き、できるだけ小さく体を丸めた。化け物のような体を人目にさらすことの恥ずかしさで、身を焼かれているような気がした。あなたは醜くない、などという鳥肌の立ちそうな嘘台詞を吐く前に、いっそ、醜悪さに顔をしかめ、適当な言い訳をつぶやきながら部屋を出ていってほしかった。

 しかし、青年の反応は男の想像とは違った。男はまるで何か素晴らしいものでも目の当たりにしたかのように、ほうっと感嘆のため息をついた。

「美しい……」

 予想だにしない言葉に、男は自分の頭の方を疑った。もしかしたら、「うつくしい」という言葉には、自分が今まで思っていた使い方とは異なる意味が込められているのかもしれない。今まで自分は読書の中で、間違った意味としてそれを読んでいたに違いない。青年は言葉を続けた。

「あなたの鱗はなんて美しいんだ。お願いです。あなたの鱗を私の研究に利用させてくれませんか?私はこれまで何人ものウロコ病の患者を診てきました。しかし、どの人の鱗もこれほど綺麗ではありませんでした。一番透き通っていた例でも、せいぜい爪の先みたいな透明度しかなく、サイズもあなたのものより小さくてまちまち、形もいびつで柔らかく、すぐにぼろぼろと汚く崩れていました」

 青年は手を伸ばして、優しく男の手に触れた。愛おしそうに、長年の探索の末、やっと宝を見つけた考古学者さながらの表情で丁重に鱗を撫でた。

「あなたは今までおそらく、辛い日々を過ごされていたのでしょう。言葉が話せないのですよね。でもそれは、ウロコ病の典型的な症状なのです。程度に差はありますが、人と上手く接することができないこと、ストレスに弱く、社会に馴染めないこと、全てウロコ病の初期症状に過ぎないのです。ウロコ病は感染というよりは遺伝的要素が強いので、あなたのせいではないのです」

 男は青年の目を見た。青年はまっすぐに男のことを見ていた。目をそらされることなく、こんなに近い距離で他人の顔を見ることはかなり久しぶりなことのように思えた。青年の言葉で、今までの不幸のすべてに説明がついた気がした。自分の出来が悪いせいではない、全て病のせいだったのだ。それを教えてくれ、男そのものを病と切り離して見つめてくれた青年が、神様のように思えた。病を治しさえすれば、自分もあれほど願っても叶わなかった「普通」の存在になれるのだろうか、と男の胸に希望が灯った。

「私はあなたを治してあげられます。あなたを苦しめる病をあなたの体から駆逐し、普通の生活を送れるようにすると約束します」

 男の目から涙がこぼれた。数年前は毎日のように流していた液体だが、鱗の上を伝うのは初めてだった。普通の生活。それは男が喉から手が出るほど欲していた憧れだった。ありがとうございます、と言おうとしたがもちろん喉から音は出ず、とにかく男は首を縦に振った。

「明日からでもすぐに治療を始めましょう。その前に一点お願いなのですが、あなたの鱗を研究に使わせてもらえませんか?あなたの鱗は先ほどから言っている通り、類を見ないほど美しいのです。これを使えばウロコ病に対抗するワクチンの開発にも大いに役立つでしょう。ワクチン開発は時間がかかるかもしれませんが、あなたの症例だけでも学会で発表すれば、ウロコ病の新たな発見に素晴らしい貢献をもたらすはずです。同じ病で苦しんでいる多くの人を救うことになるんです」

 貢献という言葉に男の胸は躍り上がった。これこそまさに自分が空想していた、物語の主人公ではないか。何も持っていない主人公が、ふとしたきっかけで自らの才能に気づき、世界を救う。今までは自分の将来に絶望し、自分に期待せず、せめてもの思いで「普通」を願っていたが、それはひょっとして控えめすぎる願望で、自分の秘められたポテンシャルをもってすれば、「普通」を超えた存在になることも望んでいいのだろうか。もしかしたら、物語の主人公のみならず、現実に実在したあの伝記の偉人と同じように、崇高な存在に自分もなれるかもしれない。男は青年の手に縋りつくようにして泣いた。生まれて初めての嬉し涙だった。

 青年は男の同意が取れるとすぐに男の家の前にバンを手配した。車椅子を使って男を車に乗せ、何本かの試験管に男が先ほどまで漬かっていた風呂の水を採取してから青年は車に乗り込んだ。

 男は山奥の病院に連れてこられた。病院というよりは、難病などの研究をする研究施設のような場所のほうが多くの土地を使っており、研究中の病気を患っている患者は研究棟の傍に建てられた入院用の病棟に暮らしていた。男は病棟に小ぢんまりとしているものの、清潔で明るい部屋を与えられた。男はそこで部屋の備え付けられたテレビというものに触れ、初めて風呂場の外の世界の情報を目にした。

 青年は何枚も写真を撮ってから、手術によって男の鱗を一枚一枚切除していった。何日かに分けてその作業は実行され、男の体からは少しずつ鱗が消えていった。青年の手術の腕は素晴らしく、鱗を取られた男の肌は、目を凝らさないと見えないほどの傷しか残らなかった。もともと傷だらけだった顔の皮膚も綺麗になり、髪を切り、まともな服を着ると、男はまるで普通の人みたいだった。鱗のあった時と無くなった時では同一人物だと気づくことができないほど別人のようだった。

 両方の目元にあと数十枚の鱗を残すのみとなった時、青年が言った。

「明日、ウロコ病に関する研究の発表会があるのですが、それに出席してもらえませんか」

 男は頷いた。何の役にも立たなかった自分がとうとう、人の役に立つのだ。かつていじめられる原因だった個性は、実は多くの人を救う才能だった。それを証明するのだ。

 発表会当日、男は青年と共にステージに上がった。青年はスクリーンにスライドを投影し、医学用語を駆使して研究成果を発表した。そのほとんどは男には理解できなかったが、青年が話している様子に真剣に耳を傾け、しきりに頷いたりしている客席の医者の顔を見ているだけで満足だった。やがて、盛大な拍手とともに発表は終わった。男には意味はわからなかったが、ノーベル賞という単語が何度も聞こえた。

「今日はありがとうございました。それではお疲れでしょうから先に病院に戻って休んでいてください。私は他の医者のみなさんと話をしたり、質問に答えたりしなければなりませんから」

 青年は男に言った。男は特に疲れてなどいなかった。首を振って同行する意を示したが、青年はやんわりとそれを断った。青年の助手の医者が男の腕を掴んで車に連れて行った。去り際にちらりと見えた青年は、他の医者たちに取り囲まれ、賞賛の嵐を一身に浴びていた。誰もが尊敬のまなざしを持って握手を求めていた。

 そこで男は気付いた。別に自分は主人公ではなかったのだ。やはり主人公は若くして才能あふれるあの青年で、男はその英雄譚を補強する道具に過ぎなかった。男は自分の腕を掴む医者を振り払って走り出した。男を初めて見た時のあの青年の目の輝きは、男の鱗を目にした喜びではない。鱗の先の自らの栄光を予見してうっとりとそれに酔いしれただけだったのだ。人の不幸で名誉を得ようとする偽善者め。この拳で一発制裁を加えてやらなければ気が済まなかった。

 しかし、男のその願いは叶わなかった。男は医者の手によって容易く地面に押さえつけられた。鱗を剥いだからといって、男の身体は男の思うように動くようにはなってくれなかった。以前のように、ぎこちなく愚鈍な動き方しかできない四肢は、地面で不格好にばたつくことしかできなかった。男は乱暴に車に詰め込まれた。悔し涙を流しながら男は、握りしめていた拳を解いた。所詮脇役に、主人公を引き立たせることくらいしか能がない道具に、多くの人を救っている英雄的主人公を殺す権利があるわけがなかった。もしあの拳が青年を傷つけていたら、耐え難いみじめな気持ちに襲われただろうと男は想像した。病室に着くころには、とびかかっていくのを制止されたことに安堵すら覚えていた。

 次の日、青年はいつものように車椅子を持って男の病室まで迎えに来た。男は車椅子に座ることを拒否し、テレビの五十音入力画面で言葉を紡いだ。

『うろこもうとるな いえにかえして』

 青年は困ったように眉根を寄せた。

「しかし、鱗を取らなければ病は完治しませんよ。私はあなたの病を治したい。あなたを救いたいのです」

 男は首を横に振る。鱗を取るだけでは病は完治しない。男がいまだ言葉を話せず、体を上手く動かせないのがその証拠だ。ならもう取返しが付かなくなる前に家に帰ってしまいたい。男はどこか焦りにも似た気持ちを感じていた。

「ほら、あとは目のまわりの少しだけですから、頑張りましょう」

 青年が手を伸ばしてきて、男は身をよじった。握っていたテレビのリモコンのボタンが押されて、テレビがニュースを映し出す。昨日の研究発表会の会場の映像が流れており、青年の功績が称えられていた。一方、男に関しては、奇妙な症例の人として好奇の目に晒されていた。

「誰か!応援に来てください!」

 暴れる男を押さえつけながら青年が叫ぶと、病室に何人かの医者が駆け込んでくる。彼らは協力して男を拘束し、無理やり車椅子に乗せると、研究棟まで運んでいく。男は手術台に固定された。やめてくれ!お願いだ!心の中でそう叫んでいるのに男の口からはうめき声のひとつも出なかった。麻酔を打たれ、男の意識は遠のいていった。

 男は病室で目を覚ました。見回すとその風景はいつもの病室ではなかった。いくつかのベッドが並べられている大きい病室の一つのベッドに男は寝かされていた。ドア付近のパネルから、この部屋が「ウロコ病患者病室 No.57」という名前の部屋だとわかる。

 はっとして顔を触る。目の周りの鱗はすっかりなくなり、体中どこにも鱗は無くなっていた。

「目が覚めたかい。君も鱗を取ってもらったんだね」

 声がして隣を見ると、老人がにこやかにこちらを見ていた。他の患者を見渡すと、老人の他に、幼い少女や若い女、中年男性などさまざまな人がいた。この部屋だけじゃない。もっと別の部屋にも患者はたくさんいるのだろう。ウロコ病の患者は、男の想像していたよりもたくさんいた。その瞬間、なにかが男の中で崩れるような気がした。男は無音の絶叫をした。「普通」になりたいという夢は叶った。今、自分は「普通」の人たちと同じ部屋に入れられ、同じように扱われている。体から病気の部分をそっくり切り捨てて綺麗な肌と髪を得て「普通」の身分は手に入れた。しかし、以前として声は出ない。足はもつれる。これが男にとっての「普通」だった。どこまでも凶悪で憎むべき存在だと思っていた、男の中に数日前まで棲んでいた病気は、男のハンディキャップを、男の不幸の元凶を全て説明してくれなかった。すべてを鱗のせいにして全身全霊で鱗を憎めるはずだったのに、今は鱗という病気の象徴の不在が男を苦しめていた。

 こんなことなら鱗を取らなければ良かった。そうすればせめて一点だけでも、誰よりも美しい部分を持っていられた。それを才能と呼んで慈しみ、一方で不幸の原因だと恨み、愛憎半ばする関係をいつまでも死ぬまで続けていけたのに。あの風呂で誰にも貢献しない、自分一人だけの才能を抱えて死んでおけばよかった。才能あふれる豊かな偽善者によって中途半端に、これ以降の生を生きる機会を与えられてしまったがために、もともとあった才能が「普通」に堕ちた。

 男は手の甲を眺める。もう一方の手で頬を引っ掻く。いくら眺めようとも、二度とそこに鱗が戻ることはなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ