君が好きだった。
脳に酸素が足りないことにも気付かずただ夢中で病院へと走った。ドアを勢いよく開け、思い出したかのように溢れ出る汗と動き出した肺の動きを見て窓際のベッドに横たわる君は驚いていた。
「大丈夫?」
息が上がりながら一番伝えたい言葉だけを振り絞った。
「あ、大丈夫です。」
僕の心配とは裏腹に裏返った声とどこかよそよそしい君の敬語に引っかかったが安堵からか疲れからか涙が溢れそうだった。事故にあった彼女だが、幸いにも命に別状はなく2週間ほどで退院予定だと教えられた。
「でもねぇ。記憶が戻らない見たいなの。」
看護婦が言った。
どうやら君は頭を打ったときの衝撃で記憶を失ってしまったらしい。言語能力や運動機能に支障はないようだが、今までの記憶のみが全く消えてしまったという。
「あの!ごめんなさい、きっと知り合いですよね。全然思い出せなくて。」
いつもの良くも悪くも大味な態度をとっている君とはかけ離れた他人行儀な姿に戸惑いながらもそういうものかと飲み込んだ。
「遥といいます。よく仲良くさせてもらってました。」
なぜか僕も他人行儀な挨拶に釣られてしまった。僕らが付き合っていることはなぜか恥ずかしくて伏せてしまった。
「ど、どんな関係だったのでしょうか?」
初対面の人にも物怖じせず半ば失礼とも取れる態度をしていた彼女とは思えないたどたどしい姿に未だ慣れない。記憶喪失は人格も変えてしまうのだろうか。
「ただの友達ですよ。大学で知り合いました。」
嘘をついた。
「そうなんですね、もしよかったら連絡先交換しませんか。」
どうやらパスワードが思い出せないため別の連絡用の携帯を持たされているようだ。
QRコードをどちらが読み取るかの駆け引きを3回くらいしてようやく君からデフォルトのスタンプが届いた。いつもの君なら1回目でお前が読み取れと命令してくるだろう。
コロナ禍の名残なのか、その前からなのかはわからないが面会は30分までと決まっているらしい。話が盛り上がってもっと君と話したかったが病室を後にした。
その後も毎日のようにLINEをし、退院後出かける約束もした。ふと君が携帯のパスワードを僕たちの記念日にしていることを思い出したが、見られたくないLINEや写真が山ほどありそうなので言わないことにした。
春の気温と夏の気温が交差する季節に彼女は退院した。
いつもよりちょっとだけお洒落をしたつもりで新宿駅に向かった。記憶喪失で新宿駅の構造も忘れてしまうのではないだろうかと心配だったがちゃんと南口のJR改札前にて落ち合うことができた。新宿御苑に行こうという予定だったので甲州街道沿いを歩いていると不意に袖に重力を感じた。
「あれ、食べたいです、、」
ワッフル屋の目の前だった。
正直かわいいと思ってしまった。普段の彼女は甘いものよりお酒に合う濃い味が好きだったのであまりこういうものをねだらない。ギャップ萌えとはこういうことなのだろうか。多分違う。
期間限定という言葉に弱いのは変わらないらしく、いちご味のワッフルを持ちながら僕らは新宿御苑を満喫した。
「公園の中にスタバがあるんですか!」
前に君と来たことがあることは伏せて自分も驚いているようにみせた。
結構好きな映画の聖地巡礼をし、2人で歩きながら話した。いつも知ってる彼女とは別人で胸がざわついた。
「私思い出せるのかな、、」
ざわつきは痛みへと変わった。
「きっと大丈夫だよ。きっと。」
無責任なきっとに全てを任せ、ぎりぎり快晴とはいえない晴れた空に照らされながらバラ園を横切った。
バイト終わり、彼女から「会いたいです」とLINEがきていた。もう遅かったので君の家の近くの公園へ僕が行くことにした。
「やっぱり思い出せなくて」
等間隔の街頭に近づくたびに悲しそうな顔が見える。
「そういえば君の携帯のパスワード思い出したんだよ。」
何かきっかけになるかもしれないと思い、恥じらいなど捨てて言った。
彼女は古い携帯を出す。透明なケース越しに友達のバンドがくれたというステッカーが入っていて懐かしかった。
4桁を打ち込む。
開いた。
「写真とか見てもいいですかね?」
自分の携帯だからいいだろうとは思ったが、確かに知らない人の携帯を覗いてる感じはするだろう。
「いいと思うよ。自分のなんだし。」
恐る恐る写真を開く彼女の手は震えていた。
僕はあまり見ないでおいた。なんとなく。
「うっ、、、」
急に彼女は泣き出した。
「大丈夫?」
しばらくの沈黙の後
「よかった、、、前の私も君が好きだったみたいですね。」
何もいえなかった。
彼女が落ち着くまで隣にいたが、なんと声かけたらいいかわからなかった。
その日は彼女を家まで送って帰った。
眠れないまま朝を迎えたがいつのまにか寝てしまっていた。
着信音で目が覚める。彼女の友達からだった。記憶が戻ったと。急いで彼女の家へと向かった。彼女が記憶をなくした日と同じように。同じように。
彼女の家に着くと聞き慣れた声がした。しかし、いつもより少し乱暴に聞こえる。
「起きたら時間めっちゃ経ってた。えぐい。」
思い出した。昨日の彼女ではない。絶対に。
嬉しいはずなのになぜか痛みが心臓を刺した。
聞くと彼女は今までの記憶はないらしい。
痛みはどうやらここが源だったみたいだ。
「何?お前とデートしたの?うける。」
なんでもないように振る舞って笑った。
気付かない振りをしていた。
これを浮気というのだろうか。
君が好きだった。