ー7ー
――藁の匂いがする。干し草の乾いた手触りと、土と獣の匂い。鼻の奥をくすぐる感覚に、意識がゆっくり浮かび上がっていく。
「……ん、く……」
重たい瞼を開けた。ぼやけた視界に、木の梁と干し草、そして壁に並んだ飼葉桶が映る。
(……馬小屋、か……?)
体を動かそうとした瞬間、鈍い痛みがあちこちに走った。筋肉の奥が焼け残っている。毒の名残。あの矢――
「……リリー様……!」
弾かれたように身体を起こしかけ、すぐに激痛が背を貫いた。だが、それ以上に焦って、周囲を見渡す。
――いた。
すぐ隣に、小さく身を縮めて眠っている少女。リリー様だった。膝を抱えるようにして、藁の上に寄りかかっている。
手には薄い布を握り締めたまま、小さく寝息を立てていた。
その顔は、やつれてはいたけれど、無事だった。傷一つなく、何よりも、穏やかな顔で。
(……良かった……)
全身の痛みが、少しずつ和らいでいく気がした。毒も、苦しみも、すべてを超えて――この瞬間だけで報われる気がした。
ゆっくりと、壁にもたれかかる。倒れたら迷惑をかけてしまう。せめて、この静けさの中だけは、彼女の眠りを邪魔したくなかった。
リリー様の顔を見つめながら、そっと呟いた。
「……生きていて……よかった……。」
その言葉だけで、胸がいっぱいになった。
彼女を守ると誓ったあの日のことが、ぼんやりと蘇る。
もう、何も奪わせない。 たとえどれだけ傷つこうとも、命が尽きるその時まで、きっとこの手で守り続ける。
彼女がここにいる。それだけで、息ができる気がした。
目を閉じ、もう一度、短く眠りに落ちた。
──そして夜が明ける。
「……クロノ。」
目を覚ますと、リリー様が小さくこちらを見つめていた。
互いに何も言わず、ただ目を合わせる。ほんの数秒。けれど、何よりも強く気持ちが通じる時間だった。
「ご無事で、本当によかったです。」
「クロノこそ……あんな傷で、ここまで来てくれて……」
声が震えていたが、涙はもう流れていなかった。
彼女は、昨夜の涙を置いてきたのだ。前を向こうとしている。
クロノはゆっくりと体を起こす。傷はまだ疼くが、意識ははっきりしている。
「状況を確認しましょう。……まず、逃走時に持ち出した路銀はすべて奪われました。今、僕たちには金が一銭もありません。」
「……仕方ないわ。あれだけの状況で、私も何も持ち出せなかったもの。」
「ええ……それに……。」
クロノは声を落とした。
「オスカー様の領で起きたすべて……ロストーネ襲撃…帝都キャルトに知らせなければ……いえ、陛下にまで届けなければならない一大事です。」
リリー様が頷く。
「父様が……命を懸けて私たちを逃がしてくれたのなら、それを伝えるのも、私の責任だわ。」
「……ですが、キャルトまでは街道を馬でも一週間。宿も食も必要です。今の自分たちに、それを賄うだけの余裕はありません。」
「……じゃあ、どうするの?」
沈黙が落ちた。 現実がじわりと重くのしかかる。街道を進むには最低でも十数銀貨、下手をすれば金貨が必要だ。ましてやリリー様を連れ、目立たぬように行動するには、それなりの装いと護衛手段も必要となってくる。
そのとき。
「……私、冒険者に登録するわ。」
リリー様の一言が、すべてを変えた。
「え……?」
「この街にギルドがあるのなら、私が登録して、簡単な依頼を受ける。短期間でも稼げば、最低限の路銀にはなるでしょう?」
「……この町、規模は小さいが、冒険者ギルドはあると聞いています。依頼内容は精査が必要ですが……しかし、それは……!」
「今の私は、貴族じゃない。ただの世間知らずの娘よ。逃げてきた娘が、生きるためにできることをする――それだけ。」
その瞳には、決意の光が宿っていた。 守られるだけの少女ではない。
リリー様は、自分の手で前に進もうとしている。
自分は黙って、頷いた。
「……分かりました。では、まずはこの町で、できる限りの資金を稼ぎましょう。依頼の選別や危険度の判断は、自分が引き受けます」
「うん。一緒に、やっていきましょう。クロノ。」
小屋の隙間から、朝陽が差し込んでくる。
その光がリリー様の頬を照らした。まるで――旅立ちを告げる鐘の音が、静かに鳴った気がした。
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作者の決意の火に燃料が投下されます。




