ー38ー
「酒くらい、満足に買ってこれねぇのか。このクソガキ共。」
違う。怒号として耳に残るが、目的の声じゃない。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん。いい子にしてれば、きっといい事がやってくるんだよね。」
「……そうだね。」
違う。
希望と欺瞞が混ざった、帝都ではありふれた声。
「待ってくれよ。明後日まで借金を待ってくれよ。金が入るからさ。」
「待てるわけねぇだろうが、このクズめ。痛い目に合わなきゃ、わかんねぇみてぇだな。」
これも違う。
「スラム街で攫ってきたガキ共は、いい値段で売れたな。」
違う。胸の奥で、はっきりと否定が鳴る。
追っているそれではない。
ディーヴィ・ドレーク。ロビン・マルシアノ。カルミネ・クォーラ。シーク・エレラバ。そして、エクサンドル・ヴァンパ。
自分は、掌に乗せた影へと視線を落とす。
鼠の形をした、小さな使役獣。影から創り出した存在でありながら、確かな質量と意思を持っている。
「……散れ。」
囁くように命じた瞬間、鼠はぴくりと耳を動かした。
足元の影が波打ち、同じ形の影従が次々と生まれていく。
《影従》
自身の影より小さいサイズであれば、鳥獣を模した使役獣を無制限に生み出せる。
生成時に魔力は消費するが、維持にかかる負荷はほとんどない。数を前提とした、純粋な索敵用スキル。
鼠たちは石畳の隙間へ、排水溝へ、壁際へと溶けるように散った。
同時に、鴉の影が夜空へ放たれ、屋根、街路灯へと舞い上がる。
《感覚共有》
一体ずつ、視覚と聴覚を接続。選別しながら、順に切り替える。
《多重意識》
思考を分割し、流れ込む情報を処理する。それでも、負荷は重い。
どれだけ切り替えたか、もう分からない。
聞こえる。見える。
酒場の奥で交わされる密談。路地裏での密取引。香水と血の匂いが混ざる色街の奥。
情報が洪水のように流れ込み、脳が焼き切れそうになる。
こめかみが脈打ち、視界の端が白く滲んだ。
「……まだ、だ。」
歯を食いしばる。止めれば、すべてが無駄になる。
帝都のどこかで、確実に奴らへ繋がる鍵が脈打っているはずだ。
その時。地下水路の奥で、鼠の一体が動きを止めた。ほぼ同時に、鴉の一羽が屋敷の屋根へ降り立つ。
「……見つける。」
呟きは、決意というより誓いだった。
帝都中に放った鼠と鴉は、血管のように街を這い、空を裂いていく。
視界は断片の集合体となり、音は層を成して流れ込む。
怒鳴り声、笑い声、祈り、取引の囁き。雑音の海。
その中で。
ひときわ耳に引っかかる声色があった。軽薄さを装いながら、どこか癖のある調子。一度聞いたら忘れない。
「……この声……。」
思考が跳ね、無意識に選別がかかる。《感覚共有》を、今の声を拾った鼠へと強制的に切り替えた。
暗転。
次の瞬間、視界が低く、湿ったものへ変わる。
石造りの地下室。苔の匂い。錆びた鉄の臭いが鼻腔を刺す。
鼠の目線越しに見えたのは、壁に打ち付けられた鉄環と、そこから伸びる太い鎖。
そして。
「……コリン。」
鎖に繋がれ、片膝をついた男。両腕は頭上で拘束され、衣服は裂け、乾いた血が黒くこびりついている。
それでも、その顔には妙な余裕が残っていた。
「いやー、手厳しいね、ボルボちゃん。」
軽口。状況に似つかわしくない声。
「任務を失敗した掟だ。あと俺の名を、そう呼ぶな。コリン。」
低く、冷たい声。鎧の一部だけを身に着けた男が、鞭を手に立っている。
「はは、相変わらず堅いねぇ。もう少し冗談が通じてもいいと思うんだけど?」
コリンは肩をすくめようとして、鎖に引かれ顔を歪めた。それでも、笑みは消えない。
「……知ってる情報は吐いた。それ以上、何を求めてるの?」
「何度も言わせるな。掟だ。失敗すれば罰を。成功には対価を。それだけだ。」
一瞬、コリンは目を伏せた。その短い沈黙が、何より雄弁だった。
鞭が振るわれる。乾いた音。背に赤い線が走る。
「……っ!」
息が詰まる。だが、悲鳴は上げない。
「……ふぅ。相変わらず、容赦ないね。」
次の一打が構えられた瞬間、こちらは意識を引き剥がした。
《感覚共有》解除。
地下の湿り気と鉄臭さが消え、夜風が戻る。屋根の上で、鴉が低く鳴いた。
「……位置は把握しました。」
狩りを始めましょうか。
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地下室では、時間が一拍遅れて動き出す。
「……っ。」
振り下ろされた鞭は、狙いを僅かに外された。否、外した。
コリンは鎖に繋がれたまま身体を捻る。
狙いは自分ではない。鉄環と鎖の接合部。
鈍い破裂音。
金属が砕け、張り詰めていた鎖が一瞬たわみ千切れた。
「なっ……!」
ボルボが息を呑むより早く、コリンは地面に落ちた鎖を掴み取る。
じゃらり、と重い音。自由になった右腕が、鞭よりも早く動く。
床際、壁の影。一瞬の違和感。
「……そこだ。」
鎖が投げられる。
潰す。
ぎちり、と嫌な音。
影の中から、黒い鼠が潰れた。
「……チッ。」
魔力の残滓が、薄く立ち昇る。
ボルボが後退し、短剣を抜く。だが、もう遅い。
「見られてたねぇ。」
コリンの声は軽い。
「誰かは知らないけどさ。」
視線が、影鼠のいた影へ向く。
もう、何もいない。
「気づかなかったの? ボルボちゃん。」
口元が歪む。
「これだからさ……頭が固いって言われるんだよ。」
「……盗聴か。」
低く、殺気を帯びた声。
「いつからだ。」
「んー……。」
顎に手を当て、わざと考える仕草。
「君が『任務だ。』って言った辺り?それとも……もう少し前、かな。」
舌打ち。
「次に妙な真似をしたら舌を潰す。」
「それは勘弁してほしいな。」
鎖を床に落とし、肩をすくめる。
「喋れなくなったら、君をからかう楽しみが減るだろ?」
ボルボは影鼠の残滓を一瞥しただけで、興味を失ったように踵を返す。
「……チッ。」
外套を掴み、扉へ向かう。
「待ってよ、ボルボちゃん。」
背後から声。
「せっかく面白い客が嗅ぎつけてきたんだ。もう少し遊んでいけばいいのに。」
「黙れ。」
振り返らず、低く言い放つ。
「貴様の処遇は後回しだ。今は優先順位が変わった。」
扉に手をかける。
「分かっているからこそ。」
冷たい夜気が地下室に流れ込む。
「俺の独断で処理できる範疇を超えた。」
扉が閉まる。
「ドレークに報告する。」
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作者の決意の火に燃料が投下されます。




