ー35ー
クロノが部屋を去り、扉が静かに閉まる。
重く沈んだ空気の中で、ウルスラが最初に口を開いた。
「……彼奴には無理だ。」
即断だった。
迷いも希望も微塵も無い声音。
バルザックは椅子に背を預け、どっしりと腕を組んで笑う。
「いや、案外やるかもしれねぇぞ?」
「馬鹿言うな。」
ウルスラは吐き捨てるように言い、机を軽く叩いた。
「二週間だぞ?あの五人を仕留めるなんて、現存の冒険でも到底不可能だ。あいつじゃ、なおさらだぞ。」
バルザックは口の端を持ち上げる。
「誰だって最初はそうさ。無茶や無理を通して英雄になってくもんだ。」
「物語じゃあるまいし。」
ウルスラは深い溜息をつく。
「現実はもっと残酷なんだぞ。」
バルザックは机の上に拳を置き、にやりと笑った。
「じゃあ……賭けるか?」
ウルスラの耳がぴくりと動いた。
「……賭け?」
「坊主が嬢ちゃんを救えるか、救えねぇのか。」
バルザックは身を乗り出す。
「オレは、やる方に賭ける。お前は無理だと思ってんだろ?」
ウルスラはしばし黙ったのち、ふっと鼻で笑った。
「いいぜ。乗ってやるよ。」
赤い瞳が細くなる。
「私が勝ったら、わかってるな?」
「おうよ。もちろんだ。」
二人の視線が交差する。
互いに譲る気など爪の先ほども無い。
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胸の奥のどこかを握り潰されるような感覚に襲われていた。
……全部、自分のせいだ。
コリンの時もそうだった。ラーヴァナでもそうだ。
リリー様が血に染まるたびに、自分はただ後悔して、ぞっとするほど情けなくて...。
もっと強ければ。もっと早く動けていれば。もっと、もっと、もっと、もっと。
自分の体たらくさが、リリー様を何度も危険に晒した。
あれは敵が強かったからじゃない。
状況が悪かったからでもない。
全部、自分が弱いせいだ。
誰に言われなくとも、それだけは分かっている。
バルザックが言った二週間。本来なら無茶だと考えただろう。
ギルドでの記録も見た。多くの冒険者達が協力して事に当たったが誰一人捕まえられなかったと。
全員が被害なしに捕まえるのは不可能だと報告していた。
だが、自分には他の冒険者と違うものがある。
自分だけの力。
リリー様を救えるのは、自分しかいない。
だったら足りない力は、自分で補うしかない。
危険がどうとか、痛みがどうとか、そんなものはとうに捨てているはずだ。
……これ以上、リリー様を守れない自分でいるわけにはいかない。
誰にも邪魔されない場所。
リリー様の救いを、他人の手に委ねるつもりはない。
自分が、必ず助ける。
そのために向かう場所は決まっていた。
帝都第二層の外れ、誰も近づかない排水路。
魔法生物によって全て浄化されていると言う。
湿った空気。苔の匂い。
蓋の外れたマンホールの縁に手をかけ、そっと降りる。
地下へ向かう梯子を、一段ずつ降りるたび、響く金属音が小さな地下道にこだました。
やがて足が濡れた石畳を踏む。僅かに水が、靴を噛んだ。
「……ここなら、邪魔は入りません。」
明かりはない。街の喧騒も届かない。
下水は、静かだ。
下水の奥へ進むにつれ、空気が粘りつくように重たくなっていった。
腐敗した泥と、魔力が焼け焦げたような刺激臭。喉が痺れる。
ここなら——十分だ。
水かと思っていた足元の液体が、わずかに泡立っている。ぼこ、ぼこ、と小さく破裂する音が続くたび、石畳が細く煙を上げた。
「……酸、ですか。」
予想通りだった。だが、これは自然のものではない。
前方の影が、濃密な魔力の塊となって蠢いた。
粘質の体に、骨のような白い殻が不規則に付着している。目はない。口も形としては存在しない。
だが、こちらを認識していることだけは分かった。
溶かして、取り込む。それだけで繁殖し続ける下水の魔性——酸泥獣。
水面が跳ねた瞬間、奴が動いた。
ビシャッ!!
鋭く伸びた触手の先端が波紋を作り、飛沫が飛んだ石壁が音もなく溶ける。
「……やはり強力ですね。」
酸の雫が頬に触れた。
じゅっ。
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皮膚が焼ける感覚。痛みより先に、熱と痺れが走った。皮膚が溶け、肉が露出する。露出した肉すら溶け始める。
普通ならここで叫びながら後退するだろう。しかし、自分は一歩踏み込んだ。
「始めましょう。」
自分の声は静かだった。
アシッド・スローグは、一瞬だけ動きを止め、次の瞬間、喜悦にも似た動きで全身を波立たせ、大量の触手を伸ばしてきた。
ドバッ!!
胸。肩。腕。顔。
あらゆる場所に、腐食の触手がまとわりついた。
服が溶け、皮膚が泡立ち、焼け、崩れ、骨が露出する。
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「っ……!」
声にならない息が漏れる。
痛みで思考が飛ぶような感覚。だが、身体の奥で別の感覚が蠢いた。
溶ける度に、体内の魔力がそこへ集まり、赤黒い光が瞬く。
裂けた皮膚に、骨に、肉に、再生のスキルが走る。
じゅる、と肉が再構成され、水面に落ちる自分の血が逆に吸い上げられるようにして体内へ戻っていく。
「……まだ足りません。」
体内の毒素が濃くなり、神経の反応が鋭くなる。
まだ、限界には遠い。
その証拠に、酸泥獣がわずかにたじろいだ。普通なら獲物が悲鳴を上げ、死ぬはずの時間が過ぎても、こちらが立っているからだ。
「くっ...。」
自分は胸元を無防備に晒し、一歩進む。
アシッド・スローグは反射的に触手を伸ばし、胸骨の上から溶かしにかかった。
骨が露出し、白く光る胸骨にひびが入り、やがて溶けていく。
肺が露出した。
【Earn 13200 points 】
「……っは……っ……。」
息を吸うたび、外気が直接肺に触れる。鋭い痛みで視界が白く霞む。
だが痛みは、強くなるための糧だ。
溶けた骨と肉が、一瞬ののち再び形を取り戻す。
生物は恐怖したように痙攣し、後退する。
「……逃がしません。」
再生した手を伸ばし、生物の中心部を掴む。酸が腕を溶かすが、構わず握力を強める。
【Earn 9800 points 】
ばくん、と柔らかい核が潰れた。
酸泥獣の体が崩れ、ただの濁った水へと戻る。
酸で焼けた腕はまだ骨が見えていたが、それもすぐに肉が満ち、皮膚が覆われた。
深く息を吐く。
「……これで、ひとつ。」
毒が濃くなったせいか、視界の端で世界がわずかに滲む。
リリー様。お救いします。
どれほど汚れようと。どれほど血を流そうと。
救う為なら、全てを飲み込む。
自分は、さらに下水の奥へ足を踏み入れた。
読んで下さりありがとうございます。
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作者の決意の火に燃料が投下されます。




