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帝都――
自分が生まれて初めて見た「帝国の心臓部」は、もはや街というより、ひとつの巨大な建造物のようだった。
すべては幾重にも折り重なる「層」によって区切られ、まるで帝国そのものの秩序を体現しているかのようだった。
第一層、《庶民区》。
城門を抜けて最初に踏み入れる場所で、露天商、物乞い、労働者、冒険者……ありとあらゆる人々がひしめき合い、喧噪と熱気に溢れていた。
息苦しさすら覚える密度だったが、同時に、ひとつの「生」のかたちを見せつけられるようでもあった。
次に、第二層《交易層》。
商会や市座、倉庫や商人の屋敷が整然と並び、巡回兵たちが定期的に警備をしている。ここでは、刃物を抜くような騒ぎは許されない。
宿も、最低限の身元が保証された者しか泊まれないが――自分たちは、層の外れにある特殊な高級宿に泊まった。
リリー様が、その道を選んでくださったからだ。
その上層が、第三層《貴族層》。
高い石塀に囲まれ、衛兵に通行証を求められる厳重な区画。
名のある騎士団の詰所、士官学校、法務庁、魔導院、審問院――帝国の中枢を担う施設がこの層に集まっていた。
皇帝陛下への謁見も、ここを経由せねば成し得ない。
そして、その最上段に屹立するのが、第四層《王城層》。
天へ向かって切り立つような段丘の頂に、真黒な塔が聳え、その内部に皇帝の居城――〈蒼の王座〉がある。許された者だけが辿り着ける場所。
リリー様の願いは、その頂を目指すものだった。
──翌朝。
顔色を少しだけ戻したリリー様と共に、自分は貴族層にある帝都審問院を訪れた。
選ばれた法術官のみが配属される、帝国の中枢機関のひとつ。
門をくぐる際、知らず背筋が伸びるのを感じた。
「ティア家の娘、ユーティス・ティアを訪ねたいのですが。」
受付にそう告げると、名を確認されることもなく、すぐに応接室へと通された。
どうやら、リリー様は顔パスらしい。
扉が開き、現れたのはリリー様と同年代の少女だった。
金の縁飾りをあしらった法服を纏い、肩までの銀髪を丁寧にまとめている。
整えられた眼鏡の奥、その瞳がわずかに揺れた。
「リリー……本当に……リリーなのね。」
「ユーティス。久しぶりね。」
抱き合うでも、涙を流すでもない。
けれど、数年という時間を乗り越えた再会の熱は、言葉の行間から確かに伝わってきた。
ユーティス・ティア。
この若き帝都審問官は、かつて舞踏会でリリー様と出会い、文通を交わす仲だったらしい。
「ずっと、あなたを待っていたの。ラーヴァナに行ったのよ。ウィリアム・ハートの告発を受けて。」
「……入れ違いだったのね。」
リリー様が少しだけ眉を下げる。
そのやり取りを聞きながら、自分はふと疑問を口にした。
「往復に七日はかかるはずです。あの距離を、どうやって……」
「わたしは転移魔法が使えるもの。時間のかかる移動なんて、わざわざしないわよ。」
当然のように返されたその言葉に、思わず息を呑んだ。
転移――空間を超えて瞬時に場所を移る、希少な法術。
王族か、一部の高位法術官しか使えないとされる魔法の中でも、ほとんど神話に近い領域だ。
応接室の扉が閉まると、しばしの静寂が流れた。
ユーティスは、目を伏せたまましばらく黙っていたが――やがて、絞り出すように呟いた。
「……信じられなかったの。ラーヴァナを訪れたとき、目を疑ったわ。」
その声には怒りも疑念もなく、ただ深い哀しみが滲んでいた。
リリー様が、小さく息を吐く。
重ねた指先がわずかに震えていたのを、自分は見逃さなかった。
「一体、何があったの?」
ユーティスの問いに、リリー様は静かに俯き、そして顔を上げた。
「詳しいことは分からない。でも……一人の獣人に、領地は滅ぼされたの。クロノが居なければ、私もきっと……死んでいた。」
その言葉に、自分の名が出た瞬間、ユーティスの視線が一瞬だけこちらを掠めた。
だがすぐに、またリリー様へと戻っていく。
彼女の中で、自分はまだ“脇に立つ者”にすぎないのだと、改めて思い知らされた。
「……あなたが生きていて、本当に良かった。だけど……帝都まで来たということは……やはり。」
「ええ。私は父の意志を継いで、皇帝陛下に願い出るつもりよ。貴族の責務を果たすために。」
その言葉に、自分の胸にも緊張が走る。
ユーティスは息を吐き、手元の書類を静かに片づけながら言った。
「……謁見の準備には、少し時間が必要だわ。」
「どれくらい?」
「二日。二日だけ時間をちょうだい。それだけあれば、帝国文官を通して、正式な枠を押さえられる。私が責任をもって手配する。」
「わかったわ。待つわ、ユーティス。あなたがいるなら、それだけで十分信頼できる。」
リリー様の声には、確かな決意が宿っていた。
少女たちの間に交わされた言葉は、単なる再会の挨拶ではなかった。
帝都という巨大な権力の渦の中――信じられる絆は、あまりに貴重だ。
自分はただ、傍らでその灯火を見守っていた。
それだけが、今の自分にできるすべてだった。




