ー27ー
――クロノ。
遠くで誰かの名を呼んでいる気がした。
それは私の声だったのか、それとも夢の中の誰かの声だったのか。
ぼんやりとした光の中で、その名を何度も呼んでいた。
「……クロノ……。」
唇が、乾いた喉からこぼれ落ちるようにそう呟いた。
すると、すぐそばで聞こえた。
「おはようございます、リリー様。」
低く、けれど柔らかい声音。
黒い瞳。まっすぐで、どこまでも深い――
「……クロノ……。」
もう一度、私はその名を呼んだ。
確かめるように、願うように。
彼は、穏やかに微笑んで頷いた。
「はい。……クロノです。」
(ああ、そうだった……。)
すべてを思い出した。
街での出来事、あの路地、彼の背、涙、手を握った感触……。
どこまでが夢だったのか分からないくらい、今も胸が熱かった。
「ここは……?」
私はゆっくりと身を起こそうとしたが、クロノがすぐに肩を支えてくれた。
「まだ動かない方が……。お身体、かなり衰弱されておりましたので」
その言葉に、私はようやく気づいた。
自分がテントの中にいること。
外には、見覚えのない風景が広がっていることを。
「……ここは?」
「帝都キャルトの手前です。もうすぐです。」
クロノが視線を窓の向こうへ向ける。
私はその横顔を見つめた。
「……二日、眠られていました。コリンとの戦闘の後、リリー様が倒れて……自分が、馬でお連れしました。」
「コリン……。」
思い出す。鋭い双眸と殺気、そして――クロノが私を守るために立ち向かった姿。
「……ごめんなさい、クロノ。私……。」
「謝らないでください。」
すぐに遮るように、彼は言った。
「リリー様は、何も悪くありません。……むしろ、こちらが……不甲斐ないばかりに。」
その言葉に、私は胸が詰まるのを感じた。
「……ありがとう、クロノ。」
私はそう言うのが精一杯だった。
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帝都キャルト――
その名の響きだけで、どれほど多くの人々が夢を抱くのだろう。
石畳の道は広く、往来する人の波は絶えず、建物はどれも天を衝くように高くて、彫刻や飾りのひとつひとつまで、地方とは比べものにならないほど精緻だった。
門をくぐった瞬間、その空気の違いに私は言葉を失いかけた。
けれど、隣を見ると――
クロノは、もっと驚いていた。
「……すごい。」
ぽつりと、呟いたその声はまるで子どものようだった。
彼の顔が、いま、少しだけ光に照らされたように見えた。
街並みに目を奪われ、人々の喧騒に目を丸くするその横顔が、あまりにも素直で。
「ふふっ……。」
思わず、笑ってしまった。
彼が、驚いたように私を見た。
「な、にか……?」
「ううん。ただ……いつもの無表情が嘘みたいだったから。」
「……は、はあ……。」
照れ臭そうに視線をそらす彼。
私は心の中で、そっと頷いた。
(ここまで、本当に……よく来てくれたわね、クロノ。)
帝都までは、長く険しい道のりだった。
盗賊、刺客、、そしてコリンとの死闘――
魔力を酷使し、命をかけて私を守ってくれた彼の身体は、もう限界に近いはず。
にもかかわらず、彼はいつもと変わらぬ調子で、周囲を警戒しながら歩いていた。
「クロノ。」
「はい、リリー様。」
「まずは……宿を探しましょう。休まないと、あなたが倒れてしまうわ。」
「……はい。」
その一言に、彼の肩がほんの少しだけ、力を抜いたように見えた。
彼の呼吸が少し粗いことも、足取りがわずかに重いことも、私には分かっていた。
きっと彼は、自分からは決して“休みたい”とは言わないのだ。
だからこそ、私が言わなければならない。
「じゃあ……あっちの大通り沿い、見てみましょう?」
「承知しました。人混みが多いので、お気をつけて。」
私は人の流れの中へ歩き出す。
彼は、それを追うようにぴたりと背後を歩いてきた。
その足音が、どこか頼もしく、どこか心配でもあった。
(もう少しだけ……あなたを甘えさせてあげられたらいいのに。)
(せめて、眠るときだけでも――)
夕陽が長く影を落とす中、帝都の喧騒に包まれて、
私たちは新たな一歩を踏み出していた。
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作者の決意の火に燃料が投下されます。




