ー19ー
朝の空気は冷たく、だがどこか澄んでいた。
自分は街門の前に立ち、手綱を引いた馬の鼓動と、隣に立つリリー様の存在を確かに感じていた。
門前では近衛兵が出立の確認に目を光らせている。
そして、ひとりの兵士が一歩前へと進み出て、手を挙げて我々を制した。
「――お二人、少々お待ちを。」
呼び止められたリリー様は、自分より先に一歩踏み出され、まっすぐに兵へと向かい、静かに名乗られた。
「リリー・マリオンと申します。マリオン子爵家の者です。帝都へ向かいます。」
その名を聞いた瞬間、兵士たちの視線が鋭くなる。
一瞬、確認するように互いを見合い――そして、次の瞬間には、空気が変わった。
「……身元確認できるものを確認させていただけますか?」
リリー様は黙って、胸元に下げていた銀の鎖を引き出す。
その先には、淡い青を湛えた小さな魔石が収まっていた。魔石の中に微かに揺れる光――そして、その側面にはマリオン家の家紋が刻まれていた。
兵士の顔色が変わる。
「……確かに、マリオン子爵家のご紋章です。ご無礼をお許しください。」
リリー様は小さく頷かれ、魔石を再び胸元に戻す。
何も言われなかったが――その動きのすべてが、凛として、気高かった。
自分は無言でその姿を見守りながら、手続きのために帳簿を受け取り、筆を走らせた。
すべてが終わった後、兵士が深く頭を下げる。
「帝都までの道中、どうかお気をつけて。今は少し、情勢が不安定ですので……。」
「感謝します。――参りましょう、クロノ。」
「はい。」
自分は手綱を引き、リリー様とともに門を越える。
街を抜けると、風が顔にあたる。
しばらく、二人で無言のまま馬を引いて歩いていた。
だが、小さな沈黙を破るように、リリー様がぽつりと口を開いた。
「さっき見せたペンダント、見ていたでしょう?」
「……ええ。魔石の中に紋章が彫られていたように見えました。」
「ええ、そうよ。これは……お父様からいただいた大切な物なの。」
自分は頷いた。言葉をあえて重ねることはしなかった。
帝都へ向けての旅が、ここから始まる。
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初日は、比較的平穏だった。
整備された街道を進み、太陽の傾きとともに森の端で野営した。
簡素な食事と、夜の見張り。焚き火のそば、リリー様が膝を抱えて空を見上げていたのが印象的だった。
二日目は山道に入る。馬から下りての険しい登り坂。
道は細く、落石の後もあった。
リリー様は口にこそ出さないが、疲れは隠せていない。自分はそれを感じ取るたび、無言で手を差し出した。
「……ありがと、クロノ。」
そんな風に微笑んでもらえるだけで、自分には十分すぎるほどだった。
三日目の朝、冷え切った空気の中で目を覚ました。
夜露でしっとりと濡れた地面。焚き火の名残りからまだほのかに煙が立ち昇っている。自分はゆっくりと立ち上がり、手早く火を絶やすと、少し離れた木陰で休んでいたリリー様に視線を送った。
リリー様はまだ目を閉じていたが、肩で静かに呼吸していた。眠っている――けれど、眠りが浅いのは、昨夜の風が強かったせいだろう。
「……おはようございます、リリー様。」
声をかけると、彼女はまぶたをわずかに震わせて、ゆっくりとこちらを見上げた。
「ん……おはよう、クロノ。」
身支度を整え、簡素な朝食を終えると、自分は再び馬の手綱を引いて歩き始めた。
山を越え、いくつかの渓流を渡り、森を抜ける。
この道を使えば、途中の小村を経由して、四日目には帝都南端の関門へと辿り着ける算段だった。
野営続きの疲労もあるが、リリー様は一言も弱音を吐かない。
だから、自分もまた、無駄な言葉を挟まない。ただ、前を見て歩き続けた。
森の向こう、丘の上からようやく次の村の輪郭が見えてきた。
だが、風に乗って流れてきた匂いに違和感が走る。
「……煙の臭い?」
自分の呟きに、リリー様も顔を上げる。
青空の下、風に流れているのは……明らかに黒い煙だった。
急ぎ、馬を走らせ、丘を駆け上がる。
視界が開けた瞬間、腹の底が冷たくなる。
村のあちこちから、火の手が上がっていた。
遠くで叫び声が聞こえる。
屋根が燃え、壁が崩れ、畑の端には倒れた人影も見える。
まだ火は村の中央部に集中しているが、被害の広がりは時間の問題だ。
「……クロノ、あれは。」
リリー様の声が震えていた。だが、その瞳に浮かんでいたのは恐れではない。
怒りと、使命感だ。
「自分が様子を見てまいります。リリー様は、後方でお待ちを。」
「……いいえ、一緒に行くわ。手遅れになる前に、できる限りのことをしましょう。」
その言葉に、短く頷いた。
そして、自分がこの人の盾である限り――この炎の中も、共に越えてみせる。
「……仰せのままに。」
自分は馬を引くのをやめ、リリー様を庇うように先頭へと立ち、火に包まれた村の中へと、我々は駆け出した。
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作者の決意の火に燃料が投下されます。




