ー12ー
イノグマの毒と血を吸収し終えた自分は、静かに立ち上がった。
巨大な死体は、森の地面にどっしりと横たわっている。変異種ゆえか、肉付きも良く、毛皮も厚い。これだけの素材、捨てて帰るわけにはいかない。
けれど、自分には解体用の道具がない。毒槍はあくまで戦闘用で、細かい解体には向かないし、そもそもまともなナイフは登録料として払ったばかり。
「……持って帰るしか、ないか。」
自分は肩に力を込めた。イノグマの後ろ脚を両腕で抱え、引きずるように担ぎ上げる。血の残り香が衣服に染みる感覚があった。
「クロノ、それはさすがに無茶よ。」
リリー様の声。けれど、自分は静かに首を振った。
「……大丈夫です。報告しに行きましょう。」
そのまま一歩、また一歩と、重さに足を取られそうになりながらも、森を出て街道を進んだ。
ギルドの扉を開けた瞬間、熱気と騒がしさが肌を打つ。そして、自分が背負っている“物”に、冒険者たちの視線が一斉に集中した。
「……っ!? お、おい、あれ……イノグマか……?」
「でけぇ……いや、待て、あれ、ただのイノグマじゃねぇぞ……」
「変異種……だと……!?」
空気が揺らぐようにざわつき、受付嬢の女性が慌ててカウンターから出てきた。
「い、イノグマ……? こ、こちらで処理いたします! す、すごい……討伐なさったんですね……!」
リリー様は事情を説明しようとした――その時だった。
「ちょっと待てやぁあああああ!!」
怒鳴り声が場を裂いた。
振り返ると、こちらに向かって歩いてくる三人組の冒険者パーティがいた。中でも先頭に立っている小柄な男は、明らかに自分たちを敵視している様子だった。
「おい、お前ら……そのイノグマ、俺たちの獲物だろうが。横取りしてんじゃねぇよ。」
リーダー格らしき男が、下卑た笑みを浮かべながら睨みつけてくる。
「……は?」
リリー様をかばうように前に出る。
「自分たちが討伐した個体です。そちらの言いがかりには根拠がない。」
「へぇ? 根拠がない……ってのはこっちの台詞だぜ。」
口を歪めて笑う男の背後から、ギルドの奥まった扉が開き、重厚な革のブーツの音が床を打つ。
ラーヴァナ支部のギルドマスター――ワン・ウィストンが現れた。
灰色の髪を後ろで束ね、片手に一冊の帳面を携えている。
「……騒がしいな。どうした?」
事情を簡単に聞き終えた彼は、ちらとこちらに目を向け、そして帳面の中から一枚の文書を取り出してみせた。
「これを見ろ。」
差し出された紙には、確かに“イノグマ討伐”と記された依頼の控え。日付、場所、依頼受領者の署名――そして、その欄にはさっきの冒険者パーティの名前が刻まれていた。
「……これは?」
「彼らが受領した正式な討伐依頼だ。ターゲットは南の丘に出没する大型個体。内容が一致している以上、獲物の所有権は彼らにあると判断するのが筋だ。」
ワンウィストンの言葉は、淡々としていた。けれど、その瞳には明確な拒絶と、こちらへの冷淡な意志があった。
リリー様が紙を一瞥し、声を落として言った。
「……おかしいわ。その依頼、今日の朝の段階で掲示板には出ていなかったはずよ。」
「証明できるのか?」
ワンウィストンの返しは早かった。目は笑っていない。
「掲示板の管理はギルドの管轄だ。記録に残っている以上、我々がそれを否定する理由はない。むしろ、依頼を見落としたのは君たちの不注意では?」
「けれど、私たちは確かに――」
リリー様がなおも食い下がろうとする。
自分は、その袖を、そっと引いた。
「……リリー様。」
たった一言。けれど、目に宿る感情を、リリー様はすぐに察してくださった。
悔しさも、怒りも、飲み込むべきだと。
「……分かったわ。」
肩を落としながらも、リリー様は毅然と背筋を伸ばし、視線をワンウィストンに戻した。
「ただし、私たちはこの件を忘れません。どこに真実があったかも。」
その言葉に、ワンウィストンはほんの僅か眉を動かしたが、何も言い返さなかった。
代わりに、あの冒険者パーティの一人が小さく鼻で笑った。
「気取った姫様ごっこは、ほどほどにしとけよ。」
……口の中が鉄の味に染まりそうだった。けれど、自分達は黙ってその場を去った。
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ヴァナ孤児院の扉が静かに開いた。
「……ただいま戻りました。リリーです。」
夕暮れが射し込む玄関先で、わたくしは一礼しながらそう告げた。すぐに、メルが出迎えてくれる。
「おかえりなさい。イノグマは……どうでしたか?」
問いを受け、わたくしは言葉を選びつつも、包み隠さずに伝えるしかなかった。
「……討伐は果たしました。でも……素材は、持ち帰れなかったの。ごめんなさい。」
メルは一瞬、まぶたを伏せたけれど……すぐに顔を上げて、優しく微笑んだ。
「ありがとうございます。危険な依頼だったのに……命を懸けてくださった。それだけで、私たちには十分です。」
……その笑顔に、どれだけ救われただろう。 力になりたくて動いたのに、結果を残せなかったことが、こんなにも悔しいなんて。
その時だった。
「……あれ?」
メルが首を傾げ、門の方を見つめる。わたくしもそちらを振り返った。
土を踏みしめる、重たい足音。影がひとつ、こちらへと近づいてくる。
「クロノ……!」
驚いた。重い呼吸を繰り返しながら、クロノが肩で担いでいたものは――
「……遅れて申し訳ありません。森で、偶然見つけたもので。」
地面に降ろされたのは、大猪だった。
。
確かにイノグマとは違うけれど、それでも立派な獣だ。しかも、もう血抜きまで済ませてある。
「イノグマの代わりにはならないかもしれませんが……きっと、美味しく食べられると思います。」
メルは一瞬、目を見開いたあと、ぎゅっと胸の前で手を組み、そして笑った。
「……すごい、本当に……ありがとうございます……!」
その笑顔に、わたくしの胸も温かくなった。
「おおきい!」「ぶた!? これぶた!?」「おにく? おにくだー!」
玄関先から次々と子供たちが飛び出してくる。 小さな足音が近づくたび、辺りが一気に賑やかになっていく。
クロノの周りを囲んで、きらきらと瞳を輝かせる子供たち。
恐れなどない。あるのはただ、純粋な歓声と、空腹を満たせる喜びだけ。
私はそっと歩み寄り、彼の隣に並ぶ。
背筋をまっすぐに立て、声を潜めて、肩越しに囁いた。
「……ありがとう、クロノ。あなたがいてくれて、よかったわ。」
その言葉に、彼の肩がほんのわずかに揺れたのを、私は見逃さなかった。
彼はまっすぐ前を見たまま、低く、けれど確かな声で答える。
「……いえ。自分は、ただ……リリー様に習っただけです。」
その返事が、あまりにも誠実で、胸にしみた。
「あなたたち……まあ、本当に……。」
静かに扉が開かれ、彼女が現れた。
白髪を丁寧に結い、穏やかに佇むその姿には、自然と人を安らがせる力がある。
「ようこそお越しくださいました。私はこの孤児院を預かっております、リズリアと申します。」
丁寧な挨拶のあと、ふんわりと微笑んでこう続けた。
「今日はもう遅いでしょう? ……よろしければ、夕食をご一緒にどうかしら?」
その言葉に、クロノがすぐに頭を下げた。
「いえ……自分は、奴隷です。リリー様の従者で……このような席に混じる資格はありません。」
……ああ、また。
その言葉を聞くたび、胸が締め付けられるような思いがする。
「そう。けれど、ここはね……そういうものを気にする場所じゃないのよ。」
リズリアの声は春の陽だまりのようだった。
「この子たちは皆、かつて“何か”を失った子ばかり。だからこそ、今、誰かがそばにいてくれることが、どれほど嬉しいか……知っているの。」
ふと見ると、ひとりの幼い子がクロノの手を握っていた。
「くろの、いっしょにたべよ? きょうは、おにく!」
その小さな声に、クロノは明らかに戸惑っていた。 でも……その戸惑いの奥に、ほんの少しだけ、緩んだ表情が見えた気がした。
わたくしは、そっと彼の隣に立って微笑む。
「……二人で、いただいても、よろしいかしら?」
「ええ、もちろんよ。」
リズリアが頷く。
――その瞬間、子供たちの歓声がまたひときわ大きく弾けた。
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作者の決意の火に燃料が投下されます。