ー11ー
朝のギルドは、昨日よりも少しだけ静かだった。
それでも活気に満ちていることに変わりはない。冒険者たちの声、依頼の紙を引き抜く音、受付嬢の対応の声が入り混じる。
その中で、自分達は掲示板の前に立っていた。
リリー様は真剣な眼差しで依頼書に目を走らせている。
その視線が一枚の紙に止まり、ふっと小さく息を吐かれた。
「……これにしましょう。」
視線の先にあったのは、他の冒険者たちに見向きもされず、下の方でくしゃくしゃになっていた一枚――
《討伐依頼:南の丘の獣退治》。依頼主、ヴァナ孤児院。報酬:銅貨15枚。
「……お待ちください。リリー様。」
思わず口を挟んだ。 その依頼は、報酬に対してリスクが高すぎる。討伐対象の詳細は記されておらず、しかも期限は明日まで。
「報酬が低すぎます。それに、 失礼ながら、依頼者が子供や素人ならなおさら……。」
声を低くして言うと、リリー様は少しだけ困ったように微笑まれた。
「クロノ、それでも困っている人がいるのなら、見過ごすことはできないわ。」
「……それは。」
分かっている。けれど…… 自分たちに残された路銀は少なく、今後の行動の自由を確保するには、効率よく依頼をこなす必要がある。
だがリリー様は、掲示板からそっとその紙を引き抜いた。
「依頼主は、小さな孤児院。年長の子が書いたそうよ。『下の子たちに、お腹いっぱいご飯を食べさせたい』って。」
リリー様は、静かに、けれど決然とこちらを見る。
「ねえ、クロノ。この依頼、受けましょう?」
目を逸らせなかった。 俺は深く息を吸い、絞るように答えた。
「……分かりました。お従いします。ただ、必ず自分が先に前に出ます。」
「ええ、分かってるわ。ありがとう、クロノ。」
リリー様の微笑みは、依頼の価値に金銭以上の意味を与えていた。
──こうして、自分たちは《高リスク・低報酬》の“奉仕依頼”を受けることになった。
ヴァナ孤児院は、街の外れにある小高い丘の上にあった。
立派とは言えない建物だったが、木製の扉や窓には手入れが行き届いていて、花壇には鮮やかな草花が並んでいる。貧しさの中にも、子どもたちを想う手が尽くされているのが分かった。
リリー様と共に門をくぐると、中からトントンと足音が聞こえた。
「おふたりとも……冒険者の方ですか?」
出迎えたのは、一人の少女だった。年は十にも届かぬほど。けれどその声音と表情は、どこか年齢不相応に落ち着いている。
黒髪を三つ編みにして背中で束ねた少女は、こちらをじっと見据えるように見上げてきた。
「わたしがこの依頼を出しました。メルと言います。」
挨拶の仕方も言葉遣いも丁寧で、どこか大人びている。きっと、子供たちの面倒を見ながら、この場所を守っているのだろう。
リリー様が優しく微笑みながら頭を下げる。
「リリーと申します。こちらはクロノ。依頼内容の詳細を伺えますか?」
「はい。……今回の依頼は、近くの森に出没する“イノグマ”の討伐なんです。」
少女の声音にわずかな緊張が混じる。
「最近、森に入ったらイノグマの痕跡が増えていて……このままだと子どもたちが外に出られなくなるかもしれなくて。」
「それに…… 下の子たち、最近まともに食べてないんです。たんぱくなスープとパンの耳ばかりで、栄養もなくて…… 」
誰かに頼ることを恥じているような、けれどそれでも“守りたいものがある”という顔だった。
「分かりました。出来る限り、安全に、そして迅速に対処します。」
メルは小さく頭を下げる。けれど、その目は最後までこちらをまっすぐに見つめていた。
別れを告げ、リリー様と共に森へと向かった。
メルが教えてくれたイノグマの出没ポイントは、森の東側、ぬかるんだ沢の周辺だ。
空はまだ明るいが、森の中は木々が生い茂り、昼間でも薄暗い。湿った土の匂いと、遠くで鳴く鳥の声が辺りに満ちていた。
獣道のような細い道を進む。目印として残された枝の折れ跡を頼りに、足を運ぶと――
「リリー様、お下がりください。」
ぬかるんだ水辺に――いた。
全長三メートルを超えるかと思う巨体。毛並みは土と血でまだらに染まり、片方の牙が斜めに折れている。
――イノグマ、のはずだった。
けれど、その姿はあまりに異様だった。通常種の倍以上の大きさ。爪も牙も異様に肥大化し、呼吸のたびに白煙のような息が吐き出される。
間違いない。これは、ただの魔物ではない――異常な成長を遂げた“変異種”だ。
「リリー様は後衛に──自分が前に出ます」
短く告げ、一気に地を蹴った。
瞬歩。風が軋む。木々の幹を蹴りながら、高く、鋭く跳躍する。枝葉を駆け、視線をイノグマに据えたまま、距離を詰めていく。
あの巨体に並の毒は通じない。回る前にリリー様に被害が出る。
(ならば、速攻で急所を穿つ──)
生成するのは、体の動きを封じる神経毒。
「――鋭利なる毒の槍ッ!!」
獣の肩口を狙って鋭く、速く、そして的確に。
だが――
「……浅い……!」
分厚すぎる毛皮と筋肉が、槍の進行を止めた。深々と突き刺さるはずの毒の槍は、ただ皮膚を裂いただけにすぎない。
返すように、イノグマが咆哮し、巨腕を振るう。地が裂ける。
瞬歩で飛び退きながら、クロノは振り返る。
「リリー様、お願いします!」
「──了解っ。」
淡い光が生まれる。リリー様の杖の先に白銀の魔力が集束し、清浄なる破邪の光が奔る。
「我が身は望む、罪深き影に聖なる光を――天よ聴け、地よ知れ、我が名は正しき意志の代弁者、穢れを祓い、道を開け 《ホーリー・レイ》!」
閃光が獣の肩を撃ち抜いた。
……が、それでも。
焼け焦げた毛並みの奥から、まだなお、イノグマは動いていた。
苦痛に吠えながら、しかし明らかに損傷は浅い。
(効いていない……! 身体の規模に、すべてが追いついてない……)
膝をつく暇もない。もう一段、毒を……。
自身の毒を、文字通り“過剰”に注ぎ込んだ一本。
呼吸を合わせる。
「──生成、放出」
体を伝う毒の質量が変化する。
「鈍重なる毒の槍……!」
パズガノン――それはパルチザンとは正反対の特性を持つ、重く濃く、鈍い毒の塊。
黒く濁った液体が槍の形を成し、揺れるように、腐蝕の香りを放つ。
槍というより、鈍器。
「……絶対に、届かせる。」
衝撃。
《パズガノン》は、肉を押し裂き、血を煮え立たせ、内部で破裂する。
獣の目が見開かれ、震える脚が揺らぎ、イノグマはついにその巨体を失い、地面に音を立てて崩れ落ちた。
戦いが終わり、息をついた自分は、すぐに後ろを確認する。
「……リリー様、無事ですか?」
自分の問いかけに、リリー様の微笑みが返ってきた。安心し、思わずほっと息をついた。