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冒険者たちの笑い声、怒声、酔いの残った口調での報告――そのすべてを背景に、自分はリリー様の背中を見つめていた。
カウンターの前に立つリリー様の姿は、まるでこの場に似つかわしくないほど端正だった。
リリー様は両手で薬草の入った袋を差し出し、受付嬢に丁寧な口調で報告をしている。
「薬草採取依頼、無事に完了いたしました。ルミナ草三十束、こちらにございます。」
受付嬢が笑顔で袋を受け取り、内容を確認していく。
それを遠巻きに見守りながら、ふと息を整えた。
自身が前に出ることはない。
奴隷である自分には、報酬を受け取る権利も、交渉をする立場もないからだ。
リリー様の傍にいながら、自分は常に“透明な存在”として振る舞うよう心掛けていた。
「確認できました。素晴らしい品質ですね。これは高く買い取らせていただきますよ。」
「ありがとうございます。」
リリー様が微笑むと、受付嬢は少し頬を赤らめた。
無理もない。リリー様はそういう人だ。 高貴で、気品があって、けれど誰にでも礼儀正しく接する。
それが――余計に、眩しく思える。
少しだけずらした視線の先では、他の冒険者たちがリリー様をちらちらと見ていた。
羨望の目、興味の目、あるいは侮るような目。
そのどれもを、見逃さない。
(……油断はできない。)
街の中だろうと、“安全”だと思ったことは一度もない。
ギルドは依頼を通して人と物を結びつける場だが、それだけに“情報”もまた、自然と集まる。
誰かが、リリー様の存在に余計な興味を持つかもしれない。
ラルネイの手が、ここまで伸びている可能性も――決して否定できなかった。
「こちらが報酬になります。銀貨三十枚。ご確認を。」
リリー様は頷きながら受け取った。
懐にしまうその手元を、ふと冒険者の一人が興味深そうに見ているのが視界の端に入る。
……思ったよりも、目立っている。
「クロノ。」
声をかけられて、視線を戻すと、リリー様がこちらを振り向いていた。
さっきまでの冒険者の視線が、一気にこちらに流れる。
「行きましょう」。
頷いて一歩後ろに付き従いながら、俺は周囲をさりげなく警戒する。
夕暮れの街は、熱気に包まれていた。
夕餉を求める人々の声、漂う香辛料と炙られた肉の匂い。通りには、屋台がいくつも並んでいた。
宿へ戻る途中、リリー様はふと足を止める。 目を留めたのは、手作りの布で屋根を張った、粗末な屋台だった。
「……あれ、美味しそう。」
かすかに上がった声に、目を向ける。 屋台の中では、小柄な男が黙々と鉄串を回しながら肉を焼いていた。
ジュウ、と脂が落ちる音が耳に心地よく、香ばしい匂いが風に乗って鼻をくすぐる。
「肉串、一本銅貨5枚! 今焼きたてだよ、お嬢さん!」
屋台の男がリリー様に声をかける。リリー様は少し迷ったように視線を巡らせたあと、俺の方を振り返った。
「……クロノも、お腹空いてる?」
俺は答えに詰まった。 奴隷の身で、主に食事をねだるなど本来許されることではない。
「……いえ。お気になさらず。リリー様が召し上がるのなら、自分は……」
――ぐぅぅ……
静寂を破る、腹の音。 思わず固まる。
(……今、鳴ったか?)
確かに、自分の腹からだった。 目の前で、リリー様の表情がふわっとゆるむ。
「……ふふ。」
肩を震わせ、控えめに笑っている。決してからかうような笑いではなかった。
「やっぱり、クロノもお腹すいてるんじゃない」
「じゃあ、二本ください!」
言葉が終わる前に、リリー様が屋台の男に声をかけていた。
「へい、ありがとうよ!」
串が二本、紙にくるまれて手渡される。 リリー様は一本を自分の手に、もう一本を自分に差し出してきた。
「クロノにも、ちゃんと食べてほしいの。」
そう言う笑顔には、命令でも哀れみでもなく、ただ“あたりまえ”の思いやりがあった。
受け取った串はまだ熱く、炭火の香りと肉汁が染み込んでいる。
噛み締めると、濃い味と香ばしさが口に広がった。
「……美味い。」
つい、本音が漏れた。
リリー様は少し嬉しそうに笑って、自分の串にかぶりつく。
彼女の頬がわずかに赤く染まる。暑さのせいか、それともこの庶民的な食べ物を楽しんでいるからか。
リリー様は、その足で馬小屋を貸してくれた小さな宿を訪れた。
「三泊、お願いします。部屋はひとつで。」
宿の女将が微笑みながら鍵を差し出す。その手際の良さからして、以前の滞在を覚えていてくれたらしい。
リリー様は部屋を取ると、当然のように振り返って言った。
「クロノも、一緒に泊まりましょう。」
「……俺は、馬小屋で結構です。」
そう言うと、リリー様の足が止まった。
「部屋に……来ればいいのに。」
「自分は奴隷です。街で部屋を取ることも、本来許されていません。先日、馬小屋を貸して頂けること自体、例外なんです。」
リリー様は、なにか言いたげに口を結んだまま、それ以上は押し付けなかった。
「……分かったわ。でも、なにかあったら、すぐ呼んで。」
「ありがとうございます」
深く頭を下げ、宿の裏手――藁の匂いが残る小さな馬小屋へと足を運んだ。
すでに人のいない一角。荷物を下ろし、隅に藁を敷いて座り込む。
(……ここで眠れるだけ、恵まれている)
屋根がある。風雨は防げるし、夜襲を恐れて眠れないような森の中より、ずっと安全だ。
だが、リリー様が寝る“部屋”と、自分が過ごす“馬小屋”の間には、明確な隔たりがあった。
それは、身分の差だけじゃない。自分の弱さが、そうさせている気がした。
そんな中で、馬小屋の木扉が静かに開いた。
「……クロノ?」
その声に、肩がぴくりと動く。
振り返ると、馬小屋の戸口にリリー様が立っていた。
寝間着のまま、薄い外套を羽織ってこちらを見ている。
「どうして……こちらへ?」
「話したいことがあったの。いい?」
慌てて起き上がり、膝をついて頭を下げる。
「はい。リリー様がここにおられるのは危険です。宿にお戻りください。」
「危険なのは、私じゃなくて……きっとクロノのほう。」
その言葉に、思わず息を呑んだ。 リリー様は俺の隣にそっと腰を下ろし、少し間を置いてから言った。
「森で……あのとき使っていた力。槍や、魔力の動き。あれは……クロノの、スキル?」
自分は頷いた。否定する理由もない。隠し通せるものでもない。
「《毒喰らい》という、ユニークスキルです。毒を無効化し、取り込み、変質させ力へと変える……そんな力です。」
「毒を……喰べる?」
「はい。実際に体内に取り込む必要があります。」
そこまで言って、口が止まった。 言えない。 これから言おうとすることが、あまりにも“らしくない”気がして。
それに――彼女に、心配をかけたくなかった。 でも、きっとリリー様には伝わっていた。
自分が言葉を飲み込んだことも、何をためらっているのかも。
「……ねぇ、クロノ。」
リリー様は、少しだけ身体をこちらに寄せて問いかけてきた。
「あなたが“本当に”やりたいことは、何?」
その言葉が、胸に響いた。 命令ではなく、問い。 主人ではなく、“リリー様”としての問いかけだった。
言葉を探すように小さく息を吐いた。
「……力が、欲しいんです。」
その声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「誰にも命を奪わせないだけの、力が……リリー様を、護れる力が。」
「……それで毒を、苦しい思いをするの?」
「はい。自分が傷つく事よりもリリー様が居なくなってしまうことの方が怖いんです。」
「自分は、弱いです。だから、必要なんです。苦しくても……それがリリー様を守るためなら……どうか、許可をいただけませんか。」
深く頭を下げた。
この願いは、奴隷の立場を超えた“願い”だ。 それでも言わずにはいられなかった。
しばらくして、ふわりと肩に手が触れた。
リリー様だった。俺の頭にそっと手を置いて、優しく撫でるように言った。
「クロノの決意、分かったわ。でも――」
その瞳が、ふっと細くなった。
「そのときは、必ず私の前でやって。……私が、傍にいるから」
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作者の決意の火に燃料が投下されます。