雨のちレモン
ぱしゃん。
水の跳ね返る音が、やけに大きく聴こえる。
昼休み。
6月だというのに、ここ1週間程晴れの天気が続いている。
今日も雲一つ無く、晴れ晴れとした良いお天気。
気温は20度前後。海が近いという事もあり、他の所に比べればまだ涼しい方‥‥‥‥‥だと思うけれど、この季節特有の湿気のせいで蒸し暑い。
教室なんて蒸し風呂状態で、冷房の代わりに設置されている扇風機もあまり役に立たず、かえって暑さが倍増する様な結果になっていた。
やはり水場のせいか、側に居るだけで涼しい。
いつも通り彼女の隣に座り、脚をプールの水に浸ける。
今日は割と涼しいが、最近は30℃近い気温が続いている為、水も少し暖かい。
「ねえ」
「何かしら?」
「人魚姫様ってさ、名前無いの?」
それとなく、思った事を訊いてみる。
実は、最初から気になっていたんだけど。
もう1週間は経つのに、教えてくれる気配が全く無い。
あたしの名前は初日に知られたというのに、契約までしておいて不公平である。
そんな彼女はというと、「そうね‥‥‥」と考える素振りを見せたものの、「もう、覚えてないわ」と笑顔で答えた。
「‥‥‥‥そうなの?」
「ええ」
困った。名前が無いのは予想外だった。
7不思議になっているとはいえ、流石に名前が無いと不便だ。
「じゃあ、あだ名でも良い?」
「えっ!!?あだ名、付けてくれるのっ?」
今度はあたしが考える番。
「姫ちゃん‥‥‥とか、どうかなぁ」
「!!」
「?‥‥‥‥ダメだった?」
「‥‥‥そのあだ名、前にも付けて貰った事があるのだけど、今の貴女が、その子とあまりにも似ているものだから」
ちょっとびっくりした、と彼女は言った。
そんな事もあるのか。
「‥‥‥‥‥‥のんちゃん」
少しの沈黙の後、彼女が口を開く。
「ふぇ!?」
「なんて、どうかしら?」
「‥‥‥その呼び方、なんだか久しぶりだなぁ。小さい頃、幼馴染にそう呼ばれてたの。他の人に呼ばれるのは初めてかな」
あたしは伸びをしながら答える。
正直、すごく嬉しい。そんな話をしていたら、一気に懐かしくなってきた。
もう呼んでくれないけど。
心地良い海風が吹き抜ける。
プールの水も良い感じに温まっていて、このまま寝られそう‥‥。
そう思ったら、本当に眠くなってきた。
「その子とは、今も仲が良いの?」
「うん。家が目の前なの。いつも一緒に学校来てるんだー」
そう言えば、姫ちゃんに青君の話、した事なかったなぁ‥‥‥。
名前を出した訳でもないのに、自然と笑顔になってしまう。
「のんちゃんは、その子の事、好き?」
「うん!大好き!!‥‥‥‥その子は、違うみたいだけど」
「‥‥‥?」
「なんかいっつも不機嫌そうだし、あだ名で呼んだら嫌がるし、昔みたいに仲良くしてくれないってゆーか‥‥‥」
その時、
「藤田ー」
見ると、フェンスの向こうに青君が居た。
「!!‥‥‥青君」
「だからその呼び方やめろってー」
「どうしたの?」
「次、移動だから呼びに来た」
「そーだった!!」すっかり忘れてた。
「俺先に行くけど、早めに来いよー」
「うん!ありがと!!すぐ行くね!!」
彼を見送った後、
「あの人が、貴女の想い人?」
姫ちゃんが急に爆弾を落とした。
「なっ!?え!?‥‥‥‥‥いっいや、そんなんじゃ‥‥‥」
突然過ぎて、動揺してしまった。
「?‥‥だってさっき、大好きだって言ってたじゃない?」
「え、あ、いや‥‥‥それは、そうだけどっ!そーゆー訳じゃないってゆーか‥‥‥‥。友達‥‥‥的な、意味での好きで‥‥恋とか、そーゆーのじゃないんじゃないかな」
っていうか今の、さっきまで青君の話してたって認めた事になるんじゃ‥‥‥。
青君の話をしてたのは事実だけど。
「凄く優しそうだったわね、彼。わざわざ呼びに来るなんて、何か思う所でもあるんじゃないかしら?」
「う〜ん、そうかな‥‥‥‥?」
彼女の言う通り、青君は優しい。
でもそれは昔からだし、あたしだけにという訳でもない。
一緒に居るのが当たり前過ぎて、あたしにとっては家族の様な感覚だし。
そんな話をしていると、予鈴が聞こえてきた。
次は、確か音楽だったはず。
途中で教室に行くにも、音楽室までは学校の端から端まで移動しないといけない。
授業開始まで、あと5分。
あたしは彼女に別れを告げ、急いで教室へと向かった。
「はぁ‥‥‥‥‥」
荒れ模様の空を見ながら、思わず溜息が漏れる。
あんなに晴れていたのが嘘の様に、土砂降りの雨がアスファルトを叩く。
雨の日特有の湿気と、ツンとした匂いが鼻につく。
おかしい。天気予報は晴れだったはず。
5時間目が終わる頃から急に雲行きが怪しくなってきて、6時間目が始まる頃にはこのザマである。
時間が経てば止むだろうと思っていたけど、雨足は強くなるばかり。
「バケツをひっくり返した様な」とはよく言うけど、まさにそんな感じである。
さて、どうしよう。
当然、傘は持ってない。
いつもは常備しているのに、今日に限って置いてきてしまった。
お天気お姉さんの馬鹿。
心の中で毒を吐くものの、このまま待っている訳にもいかず、意を決して昇降口をあとにした。
バシャバシャとあり得ないくらい大きな音と共に、大量の雨粒が止めどなく落ちる。
学校から10分。
歩き始めて5分も経たずに、全身びしょ濡れになる。
女子力無いとか笑わないで欲しい。
夢乃の部活が終わるまで待ってればよかったかもしれない、と今更ながらに思う。
雨だけでなく、車からの水しぶきや水溜まりが更に追い討ちを掛ける。
水を吸って重くなる服と共に、あたしの気持ちも沈む。
『あの人が、貴方の想い人?』
不意に、彼女の言葉が脳裏に浮かぶ。
そんなんじゃない。
あたし達はただの幼馴染みで、小さい頃からずっと一緒だから仲良く見えるだけ。
青君はいつも嫌そうにしてるけど、主に引っ付いているのはあたしの方だ。
勘違いされてからかわれた事も、1度や2度ではない。
確かに色々とあたしに気を使ってくれているけど、それは幼馴染みとしてずっと見てきたからだろう。
そもそも、青君の好きな人とかそーゆー話は一切聞かないし‥‥‥。
ぱしゃぱしゃ。
歩道に溜まった水を蹴りながら歩く。
既に靴の中まで水が入り込んでいる為、今更気にする事ではないだろう。
____というのは言い訳で、本当はこの雨の中を歩くのが疲れただけ。
憂鬱な気持ちと疲労感と服の重みと蒸し暑さがブレンドして、どうでもいいやという気になっているのが一番の理由なんだけど。
「はぁ‥‥‥‥‥」
今日何度目かの溜息を吐く。
なんだか、いつもより長く歩いてる気がする。
これも雨のせいかな‥‥‥なんて思っていると、後ろからぱしゃぱしゃと水を蹴る音が聞こえてきた。
音の間隔からして、多分走ってるんだろう。
この歩道は道幅が狭く、人がやっとすれ違える程度しかない。
避けなきゃと思ったその時。
降っていたはずの雨が、突然止んだ。
と言うと、少し語弊があるかもしれない。
言い直そう。正確には。
「はぁ‥‥‥はぁ‥‥‥‥」
あたしの後ろには、彼が肩で息をして立っている。
いつの間にか、あたしの足も止まっていた。
ぶつかるかどうか、ギリギリの距離。
雨音が響く。
「おま、馬鹿か!?待ってれば一緒に、帰ったのに‥‥‥」
まだ息が整っていないのか、途切れ途切れになっている。
その声と、あたしが振り向くのがほぼ同時だった。
「青君‥‥‥‥」
何で怒られたんだ?あたし。
別に。馬鹿じゃないし。
あたしの方に、傘が傾けられている。
と言うかそんな事よりも、何故今この時間に彼が居るのだろう。
そっちの方が気になる。
沈黙。
「はぁ‥‥‥‥‥」
斜め後ろから溜息が聞こえた。
まるで「行くぞ」とでも言うように、いつも通りあたしの隣に立って一緒に歩いてくれる。
何で走ってたんだろ。
もしかして、心配してくれてたのかな‥‥‥。
あたしが傘持ってなかったから?
あれ?でも‥‥‥。
そこまで考えて、朝の事を思い出す。
晴れの予報だったし、青君も傘持ってなかった気がする。
いや、ただあたしがよく見てなかっただけで、雨の予報もあって傘持ってきてたとか?
そう思って隣を見るが、傘は明らかに折り畳みのものではない。
置き傘でもしてたのかな‥‥‥。
目が覚めるような、彩度の高い青色。
周りが灰色ばかりなので、結構目立つ。
こんな色の傘、持ってたっけな。
朝持ってたとしたら、流石に気付くだろう。
傘をまじまじと見ていると、青君と目が___合いそうになって逸らされた。
何かしただろうか。
あたしの服が透けてるからだろうか。
「‥‥‥雨だし」
一応、そう言っておく。
付けてはいるが、今日は薄い色なので大丈夫なハズ。多分。
第一、あんまり育たないし見ても得なんてこれっぽっちも無いだろう。
色気なくて悪かったね。
「今日、雨の予報なんてあったっけ?」
意外にも、そう言ったのは彼の方だった。
「無かった‥‥‥気がする」
無かったと思うが、確信が無いので曖昧な答えになってしまった。
「だよなー」
その時初めて、彼が制服ではなく体育着を着ている事に違和感を覚える。
あたしの通う学校は、原則制服だ。
体育着に着替えるのは、(部活を除けば)主に体育の時か掃除の時だけである。
「制服じゃないの?」
「ジャージ下校OKだって放送入ったから、そのまま出て来た」
なるほど。
許可降りたなんて聞いてないぞ。
それなら最初からそうしてくれれば良かったのに。
途中からOK出すとか。
天気見ろし。
まぁ、「制服が濡れるから」と着替えても、同じ結果になった事に変わりはないが。
それはそれである。
「傘、どうしたの?」
「借りた」
「え。何処から?」
「‥‥‥学校」
なっ‥‥‥‥‥何だって!!?
それは初耳だ。
忘れた人の為に傘を貸してくれる制度があるなんて!!
なんて優しいんだ‥‥‥‥‥‥‥‥。
待っていたとはいえ、もう30分程早く出してくれればこんな事にはならなかったかもしれない。
3年間通ってたのに、全く知らなかった。
彼によると。
この大雨で部活が中止になって、簡単なミーティングだけで終わったらしい。
その時に放送が入り、下駄箱に学校の予備傘が何本か置いてあったのだとか。
言われて見れば、傘の持ち手部分にちゃんと学校のラベルが貼ってあった。
次からは、忘れたら学校のを借りよう。
返すの面倒臭いけど、無いよりはマシだ。
「‥‥‥‥寒い」
自分の腕を触ったら、思ったより冷えていてびっくりした。
「馬鹿じゃねーの?待ってれば良かったのに」
と、さっきと同じ事を言われてしまった。
図星なので何も言い返せないが、過ぎた事は変えられない。
昼に比べて気温は下がっているし、雨という事もあって蒸し暑いと言うより寒い。
元々気温が高くなかったのと、服が濡れているので更に寒さは倍増。
上に着るものは、当然ながら持って来てない。
「何も無いしなー‥‥‥。持って来れば良かった」
「え、いっいーよそんなっ!!気使わなくても‥‥‥」
昔はよく、寒い時に2人で手繋いだりしてたな‥‥‥。
クラスの男子にからかわれて、小学校低学年のうちにやらなくなっちゃったけど。
「‥‥‥‥使うよ。気ぐらい」
言ってて恥ずかしくなったのか、顔を逸らした。
優しいな。
あたしを気遣ってくれる所も、昔から変わらない。
「‥‥‥‥‥ふふっ」
「‥‥‥何だよ」
「別にー?昔から変わらないなって思っただけー」
「‥‥‥何それ」
あ。笑った。
少し下を向いて笑うのは、彼の昔からの癖だ。
話しながら歩いていると、青君が突然あたしの肩を引き寄せた。
「っ‥‥‥‥!!」
肩同士がぶつかるのが判る。
なっ、何‥‥‥?
あたしのすぐ横を、自転車が猛スピードで通り過ぎた。それも、凄くギリギリで。
青君が庇ってくれなかったら、確実にぶつかっていただろう。
「あ、ありがと‥‥‥‥」
触れた所から、体温が伝わってくる。
あったかい。
青君の手って、こんな大きかったっけ?
掴まれている方の肩を見ながら、ぼんやり思う。
もう用は済んだはずなのに、なかなか離して貰えない。
「は、青君‥‥‥‥?」
「え、あ‥‥‥ご、ごめん」
あたしが声を掛けると、我に返った様に慌てて手を離した。
今まで触れられていた所が、何だか寂しく感じる。
あ‥‥‥‥‥。
彼の顔が、耳まで真っ赤だった。
そっぽを向かれているから、表情までは分からないけど。
ここまで赤くなった青君を見たのは、小学校以来かもしれない。
いつの間に、背伸びたんだ‥‥‥‥。
あたしも伸びたからそんなに差は無いけど、最近また伸びた気がする。
4~5cm位かな。
相変わらず、恥ずかしがり屋さんなのは治っていないらしい。
少しびっくりしたけど、あたしのスキンシップに比べたらまだまだ許容範囲だ。
抱きついたりとかスリスリしたりとか、普通にしてるし。
だけど。
彼の顔が、上手く見られない。
手、触れそう。
と言うか、たまに当たるし。
さっきまで喋ってたのに、ずっと黙ったままだし。
違うか。
喋らないのか。あたしが。
青君は、昔から口数が少ない人だった。
あたしが1人で頑張っちゃってるだけだ。
お人好しだから。
「はぁ‥‥‥‥‥」
相変わらず、彼は赤くなったまま無言だ。
あたしまで赤くなっちゃうじゃん。
あたしの吐いた溜息は、雨の中に消えた。
家の前で青君と別れ、中に入るべくドアに手を掛ける。
ガタン。
開かない。
え。嘘。いっいや、そんな事は。
確認の為、もう一度。
ガタン、ガタガタ。
やっぱり、開かない。
目の前にある頑丈で大きな扉は、ただ音を立てるだけ。
ふと、家の駐車場に目が行く。
そこにあるはずのママの車が、無かった。
そう言えば。
朝、『今日は、高校の同窓会があるの〜♪』ってはしゃいでたなぁ‥‥‥。
何時からか聞いてなかったけど、まだしばらく帰って来なさそうだ。
「‥‥‥‥」
どうしよう。
ママは専業主婦だし、家に居るのが常だ。
鍵を持たされた経験は、これまでに2、3回ある程度。
あたしにピッキングの技術が備わっていれば話は別だが、職業は学生の為、専門外である。
空き巣の凄みを感じる。
ピンポーン。
あたしは仕方なく、インターホンを押した。
勿論、向かいの家の。