痩せた老人
この病院、よくないものがいるね。
私の友人である小川はそう言った。
彼は交通事故で足の骨を折り、入院していた。
それほど深刻ではないと聞いていたので、私はごく軽い気持ちで小川の見舞いに来たのだ。
小川は足にギプスをはめており不自由そうに見えたが、それ以外はごく普通にしていた。
「よくないものって?」
私の質問に小川は困ったような表情になった。
「なんて言ったらいいのかな、死神みたいな」
「死神って……」
「いや、死神かどうかなんて分からないけど。ただ得体の知れないものが、この病院には確かにいるんだよ」
小川の話はこうである。
彼はある日、廊下に佇む一人の男を見た。
ひどく痩せた老人であった。
老人はボロボロの服を着ていた。
患者が着る服によく似ていたが、それにしても古く、そして汚れていた。
老人は何をするでもなく、廊下にただ立っていた。
不思議なのは、誰も老人のことを気に留めていないように見えたことだった。
最初は、老人の佇まいが不気味なので、みんな無視をしているのではないかと思った。
しかし、患者や見舞客だけではなく、医者や看護師までもが気にしないのは不自然に思えた。
もしかしたら、あれが見えているのは自分だけなのではないか。
そうも思った。
老人はしばらくのあいだ、そこにとどまっていたが、やがてゆっくりと歩き出した。
覚束ない足取りだった。
老人はある病室へと入っていった。
小川は老人の入った病室へ行ってみた。
六人の大部屋、老人は一番手前のベッドの横にいた。
そのベッドには、男が寝ている。
老人は男を見下ろすと、笑った。
ぞっとする笑顔だった。
小川はそれからというもの、老人が気になってしまい、例の病室に足を運ぶようになった。
老人は相変わらず、男が寝ているベッドの横に佇んでいた。
男は老人のことを気にした素振りもない。
やはり老人のことが見えているのは自分だけのようだなと、小川は思った。
奇妙なことに、あのひどく痩せていた老人は、少しずつ太ってきているように見えた。
逆にベッドに寝ている男は少しやつれたようだった。
数日の後、男は死んだ。
死ぬ間際の男を小川は見たが、ひどく衰弱しており、ガリガリに痩せていた。
ベッド脇に立っている老人は、丸丸と肥え太っていた。
小川は怖くなり、以来、その病室へは近寄っていない。
「それ、本当の話なのか?」
「僕はこんなことで嘘はつかないよ」
たしかに小川はこんな嘘を吐く男ではない。
「それで? その痩せた老人は今どこにいるんだ?」
小川の話では、もう痩せていないはずだが。
「それが、見えなくなっちゃったんだよね」
小川は言った。
「僕は幽霊とか、そいういうの信じてなかったけど、あれを見た後だとちょっと考え変わるよね」
そんなことを言っているが小川に怖がっている様子はない。
だから私も話半分に聞いていた。
見舞いを終えて、私は病室を出た。
何気なく廊下を見渡した私は、思わず声を上げそうになった。
小川の話どおりの老人が、廊下に佇んでいたのだ。
痩せた老人。
小川の話では老人は肥え太ったはずだったが、その老人は痩せていた。
私は思わず顔を背け、病院を後にした。
あの私の見た老人は、小川が見たそれと同一のものだったのだろうか。
患者の生命力のようなものを吸い取る悪霊のようなものなのではないか。
吸い取った直後は太っているが、すぐに痩せてしまい、また新たな獲物を探すのではないか。
そんなことを考えたりもするが、結論が出るわけでもない。
ただひとつ、気になることがあった。
あの痩せた老人から視線を外す直前、あれはたしかにこちらを見たのだ。
正確には、小川のいる病室へと目を向けた。
そして、あの老人は笑ったのだ。
歪んだ、ひどく不気味な笑顔だった。