藍子
僕が代わりに授業に出てくれと言われたのは昨日のことだった。
「メディア論?」
「そう。出席やばいんだけど、明日はどうしてもサークル行かなきゃでさ。でかい教室だし、誰も気づかないから」
一個上の相田先輩にそう言われた僕は、大して用事もなかったため、恩を売っておくことにした。
そうして今、僕は一度も入ったことのない、文学部の38教室の前にいる。
「大貴?」
何してんの、と肩を叩かれ、振り返ると、藍子がだっていた。
「あれ?理工だったのに、文学部に転部?」
藍子はわざとらしげに微笑むと、カツカツとヒールを鳴らしてドアを開け、もう一度僕を振り返った。
僕は肩をすくめて、ドアを抑え、教室に入った。
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藍子を振ったのはもう1年も前のことだ。
大学1年の秋、たった3ヶ月だけ付き合っていた藍子を、僕は振った。
好きな子がいた、というわけではない。
言い方は悪いが、藍子といてもこれ以上の自分の成長を見込めない気がしたのだ。
デートして、話して、ラブホに行き、デートして、話して、たまに遊園地などに行く。
このエンドレスループに何か意味はあるのか?
そう思うと、藍子と一緒にいる時間は無駄に思えた。
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藍子はペンを走らせる。
たまに教授を見つめ、頷き、そしてまたノートをとる。
白い手がしっかりと黒いペンを握る。
藍子はこの1年で、すっかり変貌した。
茶髪になり、メイクをし、ヒールを履く。
今僕の隣に座っている藍子は、僕の知ってる藍子じゃない。
黒髪で、もっさりしてて、服のセンスは皆無だった。
ーーーーーーー僕に振られたから?
傲慢な思いは僕の心を締め付けた。
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終業のベルが鳴り、藍子はペンケースをゆっくりカバンへしまった。
僕はそれを横目で見て、藍子が立つと同時に立って、藍子へアイコンタクトをした。
藍子はそっと微笑んで「じゃあね」と一言残してドアへ向かう。
「待ってくれよ」
僕は茶髪のポニーテールがゆらゆら揺れている背中に声をかけた
「一緒にランチでも…」
その途端、藍子はドアを開け、そして、ゆっくりこちらを振り返った。
「遠慮するわ」
バタンとドアが閉まる。藍子は最後までドアノブを持ち、ゆっくり回して閉める。そういう女だったのに。変わってしまった。
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「ーーーだから言ったろ?あいつはそういう奴なんだよ、自分の成長とか言いながら、キミを外見でしか判断してないじゃないかーーー」
名残惜しげにドアの向こうを見つめる藍子に相田は言う。
少し、ほんの少しだけ、藍子はドアノブにそっとふれた。
そして振り返り、「そうね」というと、相田のブルーのパーカーの袖を掴み、階段を降りていった。